テラーノベル
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放課後、教室の窓はもうすべて閉じられていた。まだ明るさの残る空が、かえって空間を鈍く濁らせていた。
遥は日下部の机に向かって、黒板消しの粉を拭いていた。
拭いて、絞って、また拭く。
誰に命じられたわけでもない。
でも、もう三日目だった。
「──まだ、いるんだ」
声がした。
蓮司だった。
彼は、ドアにもたれかかるように立っていた。
「日下部、来ないね。……心配?」
遥は答えない。
蓮司は、それでも歩み寄る。
「まあ、あいつもちょっと……いろいろあるみたいだし」
遥はその一言に、小さく息をのんだ。
知っているのかと一瞬思ったが──すぐに否定する。
蓮司は、何も言っていない。
ただ、“何か知っているように”見せているだけだ。
「さっき、LINEきてたよ。俺には」
遥の指が止まった。
蓮司はあくまで穏やかな口調で続ける。
「“しばらく無理”って」
沈黙。
「ま、俺には分かるよ。……ああいうのって、“もう関わらない”って意味でしょ?」
遥は、ゆっくりと顔を伏せた。
否定も、肯定もできなかった。
ただ、心の中で何かが硬く軋んだ。
「……あいつは、いい奴だし」
蓮司は、遥の机の前にしゃがみこむ。
まるで励ますように、優しく微笑んで。
「だからさ──“変な子”に巻き込まれるのが、嫌なんじゃない?」
「……」
「いや、違うか。“壊れた子”かな。……なんか、重いっていうかさ。距離、置きたくなる感じ?」
遥の中に、鋭い針が突き刺さった。
それは蓮司の言葉そのものではなかった。
むしろ──自分の中に元からあった恐怖を、ただ言語化されただけだった。
「俺は別に、嫌いじゃないけどね」
蓮司の声は、少しだけ温度を帯びていた。
だが、その温度が怖かった。
どこまでも他人事で、どこまでも正確だった。
「……期待しちゃった?」
その一言で、遥の呼吸が乱れる。
「俺なら──しないけどな、そんなの。どうせ無理でしょ?
あいつが、おまえみたいなの……ちゃんと受け入れるなんて」
遥は声を出さない。
ただ喉の奥で、小さく何かが崩れる音がした。
「でも、ほら。夢見てもいいんじゃない?」
「……見返り、欲しかったでしょ。気づかれたくないくらい、強く」
「“信じたい”とか言って──ほんとは、“許してほしかった”だけなんじゃない?」
遥の目が、ゆっくりと伏せられる。
視線の先にあるのは、日下部の空席。
「──でもね。そういうのって、いちばん引くんだよ。普通の人って」
「“こいつ、俺に何求めてんの?”って思った瞬間、もう、ムリになるんだよ」
静かな声。
慰めるようで、確実に刺し込んでくる。
蓮司は立ち上がると、最後に一言だけ、肩越しに言った。
「でもまあ、安心して。
おまえは、ちゃんと気持ち悪いから──そのぶん、誰にも期待されないよ」
笑っていた。
あくまで穏やかに。
“おまえの味方だよ”という顔をしたまま。
──扉が閉まる音が、やけに重く響いた。
遥はもう、日下部の席を見なかった。
視界に入れるのが怖かった。
そしてその夜、夢の中で──
日下部がこちらを振り返りもせず、静かに遠ざかるのを見た。
目が覚めても、その背中は胸の中に残っていた。
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