昼休み。
と言っても今日は患者が多かったから、偉央が午前の診察を終えて休憩に入れた頃には十三時半を過ぎていた。
(結葉は昼、ちゃんと食べただろうか)
このところ、もともとそれほど食べる方ではなかった結葉の食が更に細っていることに気付いている偉央だ。
それが、自分のせいであることも分かっているつもり。
でも、だからこそ余計にちゃんと食べて欲しいと希ってしまうのだ。
昼休みに偉央がマンションに戻ることは、結葉の両親がアメリカへ旅立ってからある種のルーティンのようになっていた。
最初は、結葉の話し相手になるために。
だが最近のそれは、結葉と話をしに帰るというより、妻の監視をしに戻っていると言った方が正しかった。
特に今日は結葉の両足首の傷の具合が芳しくないからと、足枷を外してしまっている。
結葉を監禁してからこんなことは初めてだ。
この生活に、諦めの感情が出てきたのだろうか。
このところの結葉は偉央にとても従順で。
足枷を外す話をしたときも、結葉は逃げないと約束してくれたのだ。
けれど、偉央は心配でたまらなくて。
結局、大事をとって、結葉の服を全て、彼女の手の届かないところに隠した偉央だったけれど、それでも不安が尽きなかったのは何故だろう。
***
「ただいま」
家に戻ってみると、暖房を強めに効かせて出たはずなのに、何故か家全体がひんやり冷たくて。
(もしかして暖房が故障した?)
だとしたら、下着姿のまま家に置いている結葉が震えているかもしれない。
焦る気持ちを抑えながら、偉央は結葉の名を呼びながらリビングに入って。
ガランとした部屋の中、いつも通り洗濯物などは干してあるけれど、結葉の気配が感じられないことに不安を覚える。
「結葉……?」
リビングにも、風呂場にも、トイレにも妻の姿はなくて。
(もしかして、寒さに震えて寝室で布団にくるまっているのだろうか?)
そんな一縷の望みを掛けて開けてみたベッドルームにも、結葉の姿は見当たらなかった。
膨らみがないから居ないことなんて分かっているのに、布団を剥がしてそこに結葉の姿がないことを確認せずには居られなかった偉央だ。
「結葉、どこにいるの?」
ひとりごとのようにつぶやいて、再度リビングに戻った偉央は、大きなアクリルケースの中。
そこにいるはずの雪日の姿まで消えていることに気付いて愕然とする。
よく見てみれば、雪日のために用意してあった餌なども棚から消えているではないか。
急いでスマートフォンを取り出して、いつも結葉に持たせているキッズ携帯の所在地をGPSで確認してみたら、どうやらこの建物内にあるようで。
「結葉?」
なのにいくら鳴らしてみても、室内から着信音はおろか、バイブ音さえ聴こえてこないのは何故だろう?
偉央はハッとして部屋の外に飛び出すと、エレベーターが上がってくるのも待てないままに、今まで一度も使ったことなんてなかった階段で、一気に階下を目指して駆け降り始める。
きっと、呼び出しの待ち時間を入れても、こうやって階段を使うより、エレベーターで降りた方が早いことは分かっていた。
分かっていても、偉央はじっとしていられなかったのだ。
息を切らして一階まで走り降りてエントランスホールに出ると、コンシェルジュたちがそんな偉央の姿をじっと見つめているのに気が付いて。
偉央と目が合うと、ニコッと微笑んでいつものように会釈してくれたけれど、〝何かがおかしい〟と感じてしまった。
それは自分の精神状態が乱れているからそう感じてしまうだけかも知れないけれど、何となく直感的に〝彼女らは結葉のことで何かを知っている〟と思った偉央だ。
偉央は呼吸を整えて努めてゆっくりとエントランスをくぐって――。
マンションを出てすぐの植え込みの根元にグッと押し込まれるようにして、白いバスタオルがあるのを見つけた。
昼休みに入ってすぐ、マンションに戻ってきた時には死角になっていて気付けなかったのだが、見間違えるはずがない。
(あれは……うちのタオルだ)
偉央は無言でそれを植え込みの中から引っ張り出して――。
持ち上げた拍子にガチャッと乾いた音を立ててキッズ携帯が足元に転がったのに気付いた。
無言でそれを拾うと、無造作にポケットに突っ込んで、タオルはなるべく小さめに折り畳んで小脇に抱える。
これを持ってコンシェルジュたちの前を通るのはいささか気が引けたけれど、きっとこのタオルで結葉が下着姿の自分を隠したんだろうと思うと、何となく捨ておけないと思ってしまった。
そうして、結葉がこれを捨てても大丈夫になったということは、服を提供してくれる誰かの手助けを受けたということだ。
(僕はどこまで馬鹿なんだ……)
物に意識なんて宿っていないし、もうこのタオルを抱えたところで結葉の温もりだって、とうの昔に失われてしまっている。
なのに――。
エレベーターに乗り込んで、ギュッとタオルを抱き寄せたら、微かに結葉の残り香があって。
それだけで、我知らず切なさに涙が頬を濡らした。
***
部屋に戻った偉央は、財布から一葉の名刺を取り出す。
これは、以前結葉が隠し持っていたものを偉央が取り上げたものだ。
「山波想……」
名刺に書かれた名前を声に出して読んだら、ギュッと胸の奥が締め付けられるように苦しくなったのは何故だろう。
いつだったか、想が偉央を鋭い眼光で睨め付けて、思い切り牽制してきたことを思い出す。
偉央の知る限り、結葉が頼れる相手は、そんな彼しかいないように思えたのだ。
名刺を取り上げても、古い付き合いの二人だ。
結葉が、幼なじみの彼の携帯番号を暗記していたからと言って、何ら不思議ではないではないか。
偉央は少し考えて、名刺に書かれた携帯番号をプッシュした。
電話で想に告げた、山波建設に電話を掛けて彼の休みを知ったというのは、偉央のハッタリだった。
コメント
1件
愛し方を間違えちゃったんだよ