【2006年11月20日(月)】
チカに別れを告げる――その27日前まで、時は遡る。
数日前、ケンのもとにジェシカから1通のメールが届いていた。
――《Work’s taking me to Japan. wanna meet up for a bit?(仕事で日本に行くから、少し会えない?)》
ジェシカとは帰国後も、たびたび連絡を取り合っていた。彼女は世界を飛び回る敏腕メイクアップアーティストで、年に数回は来日していたが、今回は1年ぶりの再会になる。
待ち合わせ場所は、吉祥寺の行きつけのBARエスカーレ。
「ケン、久しぶりね。元気だった?」
「ああ。ジェシカも元気そうだね」
右手に持ったグラスを軽く揺らすと、氷が乾いた音を立てた。
だが次の瞬間、その右手にビリビリとした痺れが走る。ケンは無意識に左手へグラスを持ち替えた。
この感電するような痺れは、数か月前から続いていた。最初は些細な違和感だったものが、今ではほとんど毎日のように現れる。
「雑誌、見たわよ。頑張ってるみたいね」
「ジェシカのおかげだよ」
そう答えた途端、こめかみに強烈な痛みが突き刺さった。
「ごめん、ちょっとトイレに行ってくる」
顔を歪めながら席を立ち、重い足取りでトイレへと向かう。
――何なんだ、この締めつけられるような痛みは。
頭を少しでも動かすと、激痛が全身に走る。吐き気も酷い。右手の痺れもおさまらない。
疲労のせいだろうか? ここ数日は、まともに眠れていない。少し飲み過ぎたのかもしれない。
――そう自分に言い聞かせるしかなかった。
数度吐き、冷たい水で顔を洗ってから、深く息を吐いて気を落ち着けた。痛みをごまかすように目を閉じ、数秒だけ静止する。
そして、何事もなかったように席へと戻る。
「ねえ、ケン? ニューヨークに戻ってくる気はないの? 病院の子どもたちが、あなたの帰りを待ってるわよ」
――ニューヨーク。子どもたちが……。
「そうか。近いうちに行こうかな。そのとき、一緒に連れて行きたい人もいるんだ」
「まあ! パートナーかしら? それは楽しみね!」
ジェシカは嬉しそうに目を輝かせ、グラスを持ち上げた。
だがケンの視界は、そのグラスをぼんやりと二重に映し出していた。
――視界が、にじむ……。
疲れは、目にまで及んでいるのだろう。
今夜は帰ったら、きちんと眠ろう。そう思いながら、彼女を見送って帰路についた。
だが、帰宅後も頭痛と吐き気は止まらなかった。横になっても苦しさは増すばかりで、とうとう眠ることさえできなかった。
翌日――休暇を取っていた火曜日、チカと過ごしている最中にも激しい頭痛が何度も襲った。吐き気も治まらず、何度もトイレに駆け込んだ。
彼女に心配をかけたくなくて、ケンは何も言わなかった。
だが、体の異変に気づかないふりを続けるには、もう限界だった。
仕事への影響も無視できない――そう判断したケンは、水曜日の朝、病院を訪れた。
「激しい頭痛に、嘔吐……物が二重に見える?」
問診票を眺めていた院長が、腕を組みながら顔をしかめた。
「はい。頭痛と嘔吐はここ最近ほぼ毎日です。あとは……右の手足に痺れが」
「痺れ? どれくらい前からかな?」
「感じ始めたのは数か月前です」
ケンの返答を聞くと、院長の表情が徐々に曇っていく。
「詳しく調べよう。大きめの検査になるが、いいかい?」
頷いたケンは、脳神経外科へと案内された。
その日のうちにCT検査、MRI検査、神経反射テストなどが次々と行われた。
院長の性格上、神経質なほど慎重なのは知っていた。だからこの徹底ぶりも、いつも通りだと思っていた。
深刻な結果が出るなんて――このときのケンには、想像すらできなかった。
検査が一通り終わると、彼は再び仕事場のスタジオへと戻っていった。
【2006年11月29日(水)】
病院での検査から1週間が経った。
撮影の合間、ふとケータイを手に取ると、そこには「着信」の表示が灯っていた。発信元は、院長のケータイだった。
すぐに折り返すと、電話口から聞こえてきた声は重く、怯えすら滲ませていた。
「ケン君……大事な話がある。何時になっても構わない。今日中に、必ず病院へ来てくれないか?」
その言葉に、ケンの胸に妙な胸騒ぎが走った。
撮影を終え、病院に着いた頃には、時刻はすでに夜の9時を回っていた。
「大事な話って、検査結果のことですか?」
「まずは、かけてくれ」
院長の指差すソファーに腰を下ろす。だが、それからの時間が異様に長かった。院長は無言のまま、手元のカルテを睨むように見つめている。
その沈黙が、じわじわとケンの不安を恐怖へと変えていく。
長年の付き合いだ。言葉にしなくても、何となく分かってしまう。
「深刻な病気なんですね」
「君とは長い付き合いだ。慰めを口にしても意味がない。すべてを話そう」
院長はひとつ、深く息をついた。覚悟を決めたように、静かに、だが厳粛に口を開いた。
「脳神経外科の診断だ。君の病名は、神経膠腫。いわゆる脳腫瘍の一種で、別名グリオーマと呼ばれている。腫瘍の悪性度は、グレード1からグレード4までに分類されていて……君の場合は、最も悪性度の高い“グレード4”――膠芽腫にあたる」
言葉を失ったケンの前で、院長は静かに続けた。
「腫瘍は、視床という脳の深部に位置している。非常に繊細な中枢機能を担う場所だ。手術による摘出は、困難を極める。正直に言えば、不可能だ。治療手段としては、放射線治療と化学療法を組み合わせた集学的治療を勧めたい」
その告知を、ケンはただ茫然と聞いていた。
「こんな話は、本当は君に言いたくなかった。だが、治療を施しても――余命は一年、いや……1年ももたないだろう」
時間が止まった。
ケンの中で、現実という名の地面が音もなく崩れ落ちていく。
「1年もない……? 嘘だ……どうして……1年以内に、俺は……」
“死ぬ”
その一語が脳裏で形を成す。
――たった1年で、俺に何ができる?
チカ……
「治療をしなければ、症状は週単位で急速に悪化する。激しい頭痛、頻発する痙攣発作、嘔吐、視野障害、言語障害……右半身の麻痺も進行する。そして……死期を早める結果になるだろう」
「右半身麻痺……?」
ケンは震える唇を噛みしめ、自分の右手を見つめた。
「ああ。やがて、その手も足も、動かなくなってゆく」
――崩壊の足音。
目に映るすべての色が、音もなく剥がれ落ちてゆく。
――メイクが……できなくなる?
――どうして……どうして俺から、大切なものばかり奪っていく?
「いずれは、記憶力、視力、言語機能も衰えていく。最後は、完全に機能を失い、死に至る」
声が遠くなる。まるで水の底から聞いているようだった。
何も聞こえない。何も聞きたくない。
何も聞こえない。いや、聞きたくなかった。
色が褪せていく。景色が、音が、感情までもが灰色に沈んでいく。
失うくらいなら、何も持たなければよかった。
大切なものは、結局、必ず失われる。いつだってそうだった。
守ろうとすればするほど、運命はそれを無惨に奪ってゆく。
「ターミナルケアという選択肢もある。だが私は、できる限り早く放射線治療と化学療法を始めるべきだと考えている」
院長の言葉を、もう理解する余裕はなかった。
ケンは、ただひとことだけ呟いた。
「考える時間がほしい」
そのまま、虚ろな瞳をしたまま、病院を後にした。
それでもなお信じたくなかった。
だが、激しい頭痛がまた襲ってくるたびに、吐き気で視界が揺らぐたびに、右手足に走る強烈な痺れが、その現実を突きつけてくる。
確実に、死への階段を登っている。
チカ……
もう君の隣にいられなくなる。
“残された時間は1年もない”――そんなこと、どうして言えるだろう。
悲しみと恐怖に飲み込まれ、ただ、涙が溢れてきた。
どうすればいいのか、何をすればいいのか、もうわからなかった。
その夜、俺は「スタジオに泊まる」と嘘をついて、ひとりになった。
答えのない問いを延々と考え続けた。
息をしているのに、まるで呼吸をしていないようで……。
ここにいるのに、自分が存在していないようで……。
ただ、絶望の底で静かに朽ちていった。
もはや、涙すら出なかった。
窓の外では、大粒の雨が静かに降っている。
まるで、俺の代わりに空が泣いてくれているようだった――。
目の前にあるのは、東京タワーの特別展望台からの夜景を背景に、君と笑顔で写った1枚の写真。
チカにすべてを打ち明け、治療を受けるべきなのか?
それとも、真実を覆い隠してターミナルケアを選ぶべきなのか?
たとえ治療を始めたとしても、残された時間は一年もない。
その大半を、病院のベッドの上で、ただ“死を待つ”ことに費やすのだ。
そんな俺と一緒にいたところで、君に残るのは、悲しみと絶望だけ。
永遠に癒えることのない“傷痕”を、君に刻み込むだけだ。
それならいっそ……
君の前から、消えた方がいいのかもしれない。
――でも。
君といたい。
君の隣にいたい。
君と離れたくない。
君に触れていたい。
君のぬくもりを、この手に感じていたい――。
何が正しくて、何が間違っているのかなんて、わからない。
それでも、人は何かを選ばずには生きていけない。
選び、その選択を、きっと後悔する。
たとえどんな道であっても。
夢も、希望も、いつかは消えていく。
そんなこと、とっくにわかっていた。
だからこそ、消えるくらいなら、最初から見たくなかった。
希望なんて、知らなければよかった。
夢なんて、見なければよかった。
――現実なんて、知りたくなかった。
そんな絶望の中で、ふいに浮かんできたのは、君との何気ない会話だった。
『もしも、大切に育てていた花が枯れてしまったら、チカはどうする?』
『どうやったら、また花を咲かせられるか考えるかな』
――そう、君は答えた。
輝きを失い、誰からも見向きされなくなったもの。
価値をなくし、捨てられてしまうもの。
そんなものにすら、君は優しさを向けてくれた。
もし、誰かがそれを必要としてくれるなら――
何度でも、立ち上がれる。
たとえ、この右手が動かなくなっても。
この身体が朽ち果てていくとしても。
まだ、俺には生きる理由がある。
そう教えてくれたのは、君だった。
いつだって、“勇気”や“希望”をくれたのは、チカ――君だった。
その言葉だけで、心から思える。
もう、これ以上は何もいらない。
何も、望まない。
俺みたいな人間を、大切にしてくれてありがとう。
だからもう、迷わない。
自分を見失ったりしない。
君が心に刻んでくれた永遠に失われないものがあるから。
振り向かず、歩き続ける。
たとえその道が、真実を覆い隠すために選ばれた、間違った道だったとしても。
いずれ、鎖される運命にあったとしても。
それでも俺は、間違ったその道に――
ただ、ひとつの願いを込める。
“正しさ”を。
願わくば、この選択が――
君の未来にとって、正しかったと、思える日が来るように。
【翌日】
再び病院を訪れたケンは、院長の部屋の扉を静かに開けた。
短く、重たい沈黙が流れる。
ケンのまっすぐな眼差しを見た瞬間、院長はすべてを悟った。
――彼は、覚悟を決めてきたのだ。
それでもなお、院長は儀礼のように問いかけた。
「治療のこと、考えてくれたかい?」
ケンは、低く静かに答える。
「治療をしたとしても……俺は一年も生きられない。それも、病院のベッドの上で」
院長はうなずいた。
「ああ。しかし、少なくとも今よりは苦しまずに済むかもしれない……」
「まもなく動かなくなる右手を待ちながら、死ぬまでベッドで過ごせってことですか?」
その言葉に、院長は何も返せなかった。
ケンは震える右手をじっと見つめ、それを左手で強く押さえ込むようにして続けた。
「それなら、俺は――右手を捨てます」
「……なに?」
「右利きの人間が、左手を自在に使えるようになるには、どれくらいかかりますか?」
唐突な問いに、院長はやや戸惑いながら答える。
「重度、軽度の程度によるが、リハビリ次第では、数ヶ月から……」
そして言葉を切った。
――目の前にいるケンの決意に、ようやく気づいたのだ。
「まさか……君、メイクを続けるつもりなのか?」
ケンは頷き、ふっと微笑を浮かべた。左の頬にだけ、小さな影が走る。
「俺のメイクを待ってる子供たちがいます。あの子たちの笑顔が……俺のすべてなんです」
「だが……メイクは繊細な神経を必要とする。まして君がやっているのは、特殊な医療メイクだ。極度の集中が求められる作業だぞ。それによるストレスが脳に与える影響は計り知れない。進行は早まる。死期は……」
「それでも構いません」
ケンの声は、かすかに震えていたが、迷いはなかった。
「メイクが……俺の命なんです」
その一言に、院長は何も返せなかった。
目を伏せ、そして、ゆっくりと立ち上がった。
重々しく、深々と、頭を下げる。
「……すまない。本当に、すまない。私が無力なばかりに……」
ケンは、ゆっくりと首を横に振った。
その目に、微かな感謝の光が宿る。
「謝らないでください。院長は――この病院は、唯一、俺の医療メイクとリハビリメイクを理解してくれた。ここまでやってこられたのは、院長のおかげです。今まで本当にお世話になりました」
「いや……。感謝するのはこちらの方だ。君は、この病院に多くの希望と笑顔をくれた。君がいなければ、私たちは何も知らずに終わっていた。本当に、ありがとう……」
院長は頭を下げたまま、肩を震わせ、足元へと涙を落とす。
ケンは静かに立ち上がり、左手を差し出した。
言葉では語りきれない想いを、ひと握りの温もりに込めて――
それが、永遠の別れの握手だった。
扉を閉めたケンは、ゆっくりと病院の前まで歩き、そこで足を止める。
振り返ると、込み上げる感情が胸をつく。
深々と、頭を下げた。
――ここで出会った、すべての人たちへ。
――自分を受け入れてくれた人たちへ。
――笑顔と希望をくれた子どもたちへ。
「ありがとう」
心からの感謝を、静かに空へと放った。
【2006年12月1日(金)】
この日、ケンはチカのスタイリストとしての姿を胸に焼きつけると、その足で病院へ向かった。
別棟にあるリハビリテーション科――そこが、彼の新たな“戦場”だった。
すでに予定されていた撮影の仕事は、すべてキャンセルの連絡を入れた。
クライアントには、信頼できる後輩や同業者を丁寧に紹介していく。
日本で残された時間のすべてを、右から左へと“命の手”を切り替えるための――利き手交換訓練に捧げるために。
まず始まったのは、左手での食事や着替えといった日常生活動作訓練だった。
「できるだけ日常に左手を使い慣れさせること」
それが初日のテーマだった。
次に、左手での筆記訓練へと進む。
一本の線を引く。
簡単な図形をなぞる。
そして、文字の練習。
ひらがな、カタカナ、漢字――震える左手で、崩れそうな字を一画ずつ慎重に書き進めた。
その後は、指先の微細な動きを高める手指訓練。
ピンセットで小さな物をつまむ。
箸で豆を移す。
時には左手だけでスプーンを回転させながら模擬メイクの動作をする。
ひとつひとつがもどかしく、そして遠い道のりだった。
日常のすべてでも、ケンは意識して左手を使い続けた。
食器を洗うときも、洋服のボタンを留めるときも、雑誌をめくるときも。
それが、彼にとっての“命の訓練”だった。
どれだけ激しい頭痛が襲ってこようと、どれだけ嘔吐に苦しもうと、ケンは歩みを止めなかった。
幾度も、“死”という言葉が脳裏に浮かんでも、顔をしかめても、涙が滲んでも、ケンは絶対に諦めようとしなかった。
なぜなら、ニューヨークで――自分のメイクを待つ子どもたちがいるから。
その理由だけで、十分だった。
もう、希望を待っている時間も、絶望に浸っている暇もない。
足を止めるのは、“絶望”ではない。“諦め”だ。
そして足を進めるのは、“希望”ではない。“意志”だ。
どんな状況でも、必ず「できること」は残されている。
――それを、君が教えてくれた。
だから、俺はもう一度咲かせてみせる。
枯れてしまう右手の代わりに――左手で。
この手で、もう一度、笑顔を描いてみせる。
全ては、“笑顔”のために――
それが、自分が選んだ最後の道。
たとえそれが、“間違った道”であったとしても――
俺はそこに、“望んだ世界”を咲かせてみせる。
そして、利き手交換訓練と並行して、ケンは静かに“生”と“死”の折り合いをつけていった。
もう二度と叶うことのない願いを、そっと胸の奥で反芻しながら――。
ジュンには、すべてを打ち明けた。
「冗談だろ? そんなの……嘘だ……。やめろよ……。信じねぇ……俺は、信じねぇぞ……」
ジュンの震える声が、井の頭池の水面をかすかに揺らす。
握り締めた拳は白くなり、言葉にならない叫びだけが、ケンへの想いを訴えていた。
「どうして……どうしてなんだよ……お前がいなくなったら、俺はどうすりゃいいんだよ……」
「ジュン……ありがとう……」
――俺なんかのために、涙を流してくれる人が、ここにもいる。
それだけで……もう、十分だった。
しばらくしてジュンは、溢れる涙を拭い、少しだけ落ち着いた表情でケンを見つめた。
「12年間……俺たち、何をするにも一緒だったよな」
その一言で、過去の記憶が一気に込み上げてくる。
押し殺してきた感情が堰を切り、ケンの瞳に涙が溢れた。
「ジュン……本当に、今までありがとう……」
「それを言うのは……俺の方だ……」
二人は互いの肩を強く抱き合った。
言葉では伝えきれない想いを、絆を、体温で確かめ合うように。
「最後に、ひとつだけ、わがままを聞いてほしい」
「わかってる。……チカのことだろ? けど……本当に、真実を伝えなくていいのか?」
「真実を知れば、きっとチカは、一生“苦しみ”から解放されない。そんな“傷痕”を、あの子に背負わせたくないんだ。知らなければ、いつか前を向いて歩いていける。心を縛る鎖がなければ、きっと前に進める」
――そう口にした決意とは裏腹に、ケンの頬を静かに一筋の涙が伝う。
長年、ケンを見てきたジュンには、何もかもが伝わっていた。
その決意の強さも、チカへの深い想いも――胸が軋むほどに。
だからこそ、ジュンは言葉を呑み込み、黙ってうなずいた。
「それが、お前が最後に望んだ道なら――俺も、それを信じる」
その言葉にケンはそっと微笑むと、そばに置いていた大きな紙袋をジュンへと差し出した。
「この金の半分は、お前の夢のために使ってくれ。残りの半分はチカのために、何か意味のある形で残してほしいんだ」
「……こんな大金……」
「ずっと夢のために貯めてた金だ。だけど、もう俺には使い道がない。身寄りもないし、未来も、もう――」
「……受け取れねぇよ」
ジュンは紙袋を押し返そうとしたが、ケンは優しく、だが決然と押し戻す。
「頼む、受け取ってくれ。夢だっただろ? 自分の店を持つこと。いつか、その未来のお前の店で……たくさんの“笑顔”を生み出してほしい。それが、俺の“夢の続きを生きること”になるんだ……」
しばらくの沈黙ののち、ジュンはぎゅっと紙袋を抱きしめ、絞り出すように言った。
「……わかった。ただし、今は“預かる”だけだ。いつか、俺がこの金を使えるだけの男になったとき――その時に、ちゃんと使わせてもらうよ」
「……ありがとう」
その言葉は、夜の冷たい風に乗って静かに消えていった。
ジュン……
気づけば、いつも助けられてばかりだった。
この瞬間さえ、自分の力だけでは前に進めなかったかもしれない。
お前が、いつもそばにいてくれたから、俺は、一人じゃなかった。
あの時――
首を括り、絶望の底で運び込まれた病院。
目を覚ました時、ベッドの傍で泣いていたのは、他でもないお前だった。
こんな俺を、決して見捨てはしなかった。
幼かった、あの頃。
お前が俺にかけてくれた言葉――「ファーストレディー」。
冷めた目をしていた俺の世界に、少しずつ温もりが灯った。
ひとつだった影が、ふたつになった。
“心友”――
ずっと無縁だと思っていたその言葉を、お前がくれた。
それだけで、もう十分だった。
幸せだった。
心から、ありがとう。
そして、カメラマンのニヘイさんにも、すべてを話した。
ユウは悲しげに微笑むと、意外な言葉を口にした。
「じゃあ……俺も一緒にニューヨーク、行くわ」
あまりにも予想外で、ケンは鼻先から微かに笑いを漏らした。
「お前がいない日本なんてつまんねぇし……お前が言ってた“最高の笑顔”ってやつも、見てみたくなったしな」
何かがふっと消え、心が少しだけ軽くなった気がした。
この人は、不器用だけど、いつだって穏やかで温かい。
兄のように、すべてを理解して、いつも必要なときにそっと選択肢のヒントを差し出してくれる――そんな存在だった。
すると突然、ユウの瞳がカメラを手にする時の鋭い眼差しに変わり、まっすぐにケンを見据えた。
「“最高の笑顔”をつくるケンという人間が、“確かに生きていた証”を、俺のカメラで残したい」
その言葉に、不思議なほど感謝の想いが心に満ちた。
――彼が記す“写真”という世界で、自分は生き続けられる気がした。
気がつけば、ケンは静かに頷いていた。
そして、チカ――
この残された僅かな時間で、君に何ができるだろう?
ほんの少ししか残されていないこの“今”で、何を残せるのだろう?
――ごめん。
わかってるんだ。
こんな想いが、身勝手だってことは。
けれど、どうしても……
どうしても最後に、君の“笑顔”を、この目と、この心に焼き付けておきたかった。
そして、君と一緒に、これ以上ないほど幸せな記憶を刻みたかった。
今の俺にできるすべてを……君に捧げたかった。
だから、決めたんだ。
この“限りの月”――12月だけと。
このわずかな時間に、君の幸せを、全身全霊で願おうと。
スタイリストデビューの日。
君が自分の足で未来を歩き出した姿を見て、嬉しかった。
だけど帰り道、溢れた涙が教えてくれた。
――これが、君に切ってもらえる最初で、最後のカットになるんだ、と。
そして、言い聞かせた。
もう一人前のスタイリストとして歩き始めた君なら、きっと大丈夫。
たとえ、俺がいなくなっても――
君が誕生日に言った、あの言葉が蘇る。
「これからも、ケンのメイクでたくさんの人が幸せになって……その場所に、たくさんの“笑顔”が生まれますように」
途方もない願いに思えた。
叶わない夢だと、どこかで思った。
けれど、君の笑顔を見た瞬間、祈らずにはいられなかった。
――もしも、願いが叶うなら。
どうか、どうかこの愛しい笑顔を、誰かが守ってくれますように。
俺がもう、守れなくなってしまう……この“笑顔”を。
チカ――
俺は何よりも、君の“笑顔”を守りたかった。
例え、どれほどの痛みを伴ったとしても――
「あっ、今年の初雪」
あれほど嫌いだったはずの雪なのに。
なぜだろう?
君と一緒に見るそれは、こんなにも綺麗で、愛おしくて。
君の“笑顔”を、しっかりとこの目に焼き付けたかった。
君との全てを、この心に刻み込んでおきたかった。
同時に……
すべてを忘れてしまいたいとも思った。
“未来”なんて、考えたくなかった。
“今”が、ただ続いてくれればいい――
それだけを、強く、強く願っていた。
そして、あの日。
俺は、君と最後に――手を繋いだ。
その温もりを、心の奥に焼きつけながら――
繋いだその手を、離すために。
12月中旬になり、頭痛も、嘔吐も、悪化の一途を辿っていた。
痙攣は日に何度も襲い、意識は徐々に遠のいていく。
記憶も曖昧になりはじめ、今では――
愛しい君の顔さえも、霞みかけていた。
右手も、右足も、もうほとんど動かない。
それどころか、痛みすら感じなくなっていた。
麻痺はすでに、神経の奥にまで達している。
――そろそろだ。
脳裏に浮かんでは消える、“別れ”の二文字。
“さようなら”が来ない明日を、どこかで永遠に願っていた。
だからこそ、その言葉だけは、最後まで口にしたくなかった。
ずっと探していた。
“さようなら”の代わりとなる言葉を――
君との出逢いが運命なら、君への愛が永遠なら――
きっと、またどこかで巡り逢えると、そう……信じていた。
「別れよう」
留めどなく、大粒の涙をこぼし続けるチカの姿が、霞む視界の中に映った。
その瞬間――ふと、気づいた。
――ああ、俺は今、初めて……自分の気持ちに、嘘をついている。
なぜだろう?
どうして、こんなにも愛している人に、こんな言葉を告げなければならないのだろう?
けれど――これでいいんだ。
これしか、ないんだ。
傷つけることでしか、チカはこの現実という“永遠に癒えない悲しみ”から救われない。
君の未来を守るには、この方法しかない。
「それでも……私はケンを愛してる。誰よりも……。私にはケンしかいないの。だから、お願い……そばにいさせて……」
その声が、心を締めつけた。
揺らいでいく。決して揺らがないと誓った決意が、音を立てて崩れていく。
君が、泣きながらすがるように抱きついてきたとき――
その温もりに、どれほど応えたかったことか。
力いっぱい、抱きしめたかった。
その細い肩を、壊れそうなほど強く……強く。
けれど――離さなければいけない。
離れなければ、いけない……。
わかってる。
頭では、何度も繰り返してきたことだ。
それなのに……
どうしても、この手を離せなかった。
離れたくなんて、なかった。
……こんなにも君を愛しているのに。
君と過ごした日々は、あまりにも温かくて、優しくて。
幸せな記憶は、努力で忘れられるようなものじゃない。
忘れたいとも思わなかった。
忘れてしまうなんて――怖かった。
でも、忘れなければ……君は前に進めない。
背を向ける瞬間――
ずっと堪えていた涙が、頬を伝って溢れた。
気づいていた。
背中越しに、声にならない声で、君が俺の名前を呼び続けていたこと。
振り向きたかった。
悲嘆に眩る君は見るに忍びない、でも最後にもう一度だけ――
愛しい君の姿を、この“両目”に焼きつけたかった。
けれど――
俺は、振り向かなかった。
“ありがとう”
チカ……
君の未来のために。
君の笑顔のために。
俺は君の前から、静かに消える。
全ての感情を押し殺して――
ただ、君の幸せだけを祈って。
悲しみを残す今日は、もう置いていく。
それは、俺の心を惑わせるだけのものだから。
君への“想い”を捨てるのが、怖かった。
君との“繋がり”を断ち切るのが、怖かった。
“運命”なら――
いつか、きっと巡り逢える。
叶わぬ願いだと知りながら、それでも、どこかで希望を手放せずにいた。
でも、本当は――
心の奥では、ちゃんとわかっていたんだ。
願えば叶う、そんな甘い奇跡が、この現実にはないことを。
「ずっと一緒だから」
「どこにも行かないよ」
その言葉が、嘘になってしまった今も、君と過ごした日々は、何ひとつ嘘じゃない。
崩れそうで、倒れそうで、誰かに支えてほしいと願っている自分がいる。
でも――
もう、君にすがるわけにはいかない。
消えゆく俺がこれ以上、君を求めても、何も生まれない。
願えば願うほど逢いたくなって、逢いたいほどに苦しみが募るだけ。
だから、今は祈るしかなかった。
“俺ではない誰かが、君を幸せにしてくれますように”
神など、信じたことはなかった。
けれど今は、誰よりも神に祈っている。
“もう少しだけ時間をください”――なんて、ふざけたことは言わない。
そんな勝手な願いは、空に届くはずもない。
だからせめて……
せめて――
チカを、幸せにできる誰かと巡り合わせてください。
そして――ユウカ。
まだ幼い君に、俺は何を残せるだろうか。
どう言えば、すべてが伝わるのだろう。
「……ケン兄? ぼんやりしちゃって、どうしたの?」
「ごめん、ごめん……。ちょっと左目、見せてくれるか?」
ユウカは右目を閉じて、無邪気に顔を突き出した。
「ニューヨークに行くことになった。しばらく日本には戻れないんだ。だからちゃんと院長先生のところに行って、左目のケアをしてもらうんだぞ。院長先生には全部伝えてあるから」
ユウカは、いつもと変わらぬ様子で何度も頷く。
また、ひとつ――嘘をついた。
「なあ、ユウカ……笑って」
ユウカがにっこりと笑う。
その笑顔を見た瞬間、ユウカは不思議そうに首を傾げた。
「ケン兄? どうして左目だけ、涙が流れてるの?」
ケンは慌てて左手で涙を拭った。
「……ずっと笑顔のままのユウカでいてな」
「変だよ? 何かあったの?」
「……俺は、最低な人間だ」
「どうして?」
「……昨日、チカを泣かせてしまった」
「ケンカしたの?」
「いや……お別れをしたんだ」
「えっ? どうして? ケン兄、お姉ちゃんのこと嫌いになっちゃったの?」
「好きだよ。誰よりも、愛してる」
「じゃあ、どうして?」
「好きだからだ。愛しているからこそ、お別れをしたんだ」
ユウカは小さな声で、ぽつりと呟いた。
「ケン兄にとって、唯一の“繋がり”を持てた人なのに……」
「繋がりって……こんなにも苦しいものなんだな」
“繋がり”
その言葉に、急に胸がざわついた。
怖くなった。
こんなにも苦しいのなら――やっぱり、断ち切らなければいけない。
口に出せない願いを――心の中で、強く、静かに願う。
もしも、願いが二つ叶うのなら――
チカ。
どうか、俺のことは忘れてください。
そして……
どうか、俺の記憶からだけは、君との想い出を奪わないでください――。
そしてその翌日。
すべての感情を無理やりに凍らせて――
ケンはユウとともに、ニューヨークへ旅立った。
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