お咲は、意気揚々と桃太郎を唄いあげた。
場は、静まりかえっている。
正確には、岩崎の手前、笑いを堪えている、なのだが、失笑しつつも、お咲の唄声に、生徒達は驚きを隠せない表情をしていた。
「……この桃太郎は、前半、後半と、演奏者入れかえ時の幕間に入れるつもりだ。君達と同じ時に唄うことはない」
岩崎の落ち着いた説明に、ざわめきが起こる。
「ですが!子どもに唄わせるのですよね!それも、くだらない唄をっ!!」
すかさず玲子が声を荒げた。
取り巻き達も、そうよそうよと囃し立てる様に同意している。
またもや教室は、ざわついた。
月子は、ただ立っていることしかできない。しかし、生徒達の反発を見ては、お咲を連れて帰るべきかと思い始めた。
すると……。
「……母ちゃんの唄だ。母ちゃんがお咲に唄ってくれた唄なんだ!お咲はいいこだって、母ちゃんが唄ってくれてたんだっ!」
小さな体をぶるぶる震わせながら、お咲が叫んだ。
い並ぶ学生達からの視線など気にすることもなく、お咲は、必死に母ちゃんからの贈り物、桃太郎の唄を守ろうとしているようだった。
そんなお咲に、月子もはっとする。
桃太郎の唄は、お咲と母親の思い出なのだ。
月子の脳裏に、店にかかりきりになっていた母の姿が思い起こされた。
懸命に働く母。その母が作るうどんを旨いと喜んでくれる客の笑顔。
忘れかけていた大切な時間……。
楽しかった母との時……。
お咲も、きっと、母ちゃんのことを思い、桃太郎の唄を頼りにしているのだろう。
「お咲ちゃん!上手だったよっ!!」
月子はお咲に駆け寄り、大きく拍手をしていた。
「戸田君!ピアノを!ショパンの ワルツ第6番変ニ長調、子犬のワルツを!」
すかさず岩崎が、ピアノの前に座る男子学生へ命じた。
突然のことに、学生はポカンとしている。
「早く準備をしたまえ!そして、彼女、お咲の実力を皆で確認する!」
岩崎が、お咲へ向き直り、できるか?と、尋ねる。
その意味を察したお咲も、はい!と大きく返事をした。
「皆は気がつかなかったのか?中村は、途中で変調した。音を変えられても、お咲は、しっかり掴んで唄ったのだ」
淡々とそして、戒めるかのように、岩崎は学生達へお咲が唄った桃太郎について説明し、そのずば抜けた音感がわからないのかと問いかける。
月子は、岩崎がかばってくれていると一安心した。誰にも、お咲の事を笑われたくなかった思いを、岩崎が汲んでくれたのだと感じ、涙がうっすら滲んで来た。
が、そこへ、玲子がまた難癖をつけて来る。
「中村さんが、あえて変調したとおっしゃいますが、その証拠はどこにあるのですか?そもそも、中村さんの演奏ですもの。音が飛ぶことだって普通にあり得ます!」
得意気に語る玲子の取り巻きも、中村をチラチラ見ながら鼻で笑っている。
「ははっ、まあ、どうとでも言えばいいさ。岩崎の、いや、岩崎先生の仰ったことは事実たよ。一ノ関女史。おれの言うことなんぞ、信じられないだろうから、学年で一番のピアノの弾き手、戸田に演奏させれば、全てはっきりするさ!」
玲子にこき下ろされても、ものともせず、中村は岩崎の意図に賛同するかのよう、そして、これから起こることへの期待から、薄ら笑みを浮かべピアノを見ている。
「戸田!まあ、いいから、お前のタイミングで始めろ!お咲も頑張れよっ!」
声をかけられ、ピアノの前に座る男子学生は、訳がわからんと言いたげに、それでも姿勢を正す。
一瞬の間の後、音が転がるような、どこか軽快で、そして小刻みに調子が変わる曲が流れ始めた。
お咲は、じっとピアノを見ていたが、何かを掴んだのか、歩みだす。
岩崎が大きく頷く。
月子も微笑む。
中村は、ニンマリしながら挑むように玲子をちらりと見る。
「らららららーらららーらららららー」
お咲が楽しげに唄い始めた。
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