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74 ◇過ぎ去りし日々を思う
哲司は家を出る時に用意していたメモ用紙を取り出し
大川雅代の氏名と住所を書き記した。
「ありがと。来た甲斐があったよ」
「うん、でも求人には人が殺到するからあまり期待はしないでね」
「そうだね、分かった。じゃあ失礼するよ」
「気をつけて……」
哲司が出て行ったあと、温子はしばらくその場に立ち尽くしていた。
背筋を伸ばし、顔には何の感情も浮かべないよう努めながらも、胸の内は
波立っていた。
――ずるい人。
――なのに、まだ、こうして頼まれたら、断ち切れない自分がいる。
応接室の部屋を出て、それから工場の入り口まで歩き、哲司は後ろを
振り返る。
もう今の自分のことを温子が見ているかどうか……いや見ているはずもない
か……。
広い敷地とそこに建っている工場、それに付随して……
それぞれに意味があってあちこちに建てられている建物などを目に焼き付け、哲司は
工場を後にした。
この時、その姿を温子は応接室の窓際に佇み、見ていた。
『意気地なしっ』
そう温子は自分に囁いた。
哲司に対して最後まで冷たくあしらうことのできなかった自分への
戒めの言葉であった。
だが、哲司からの話を聞いてその人のことを他人事とは思えなかった。
いつかの日の自分と同じなのだ、その女性は。
困窮していると聞いた。
もしも彼女が1人娘であったなら、なおさらであるに違いない。
自分も働いていたとはいえ、いきなり住む場所を失くし意気消沈していた。
あの時、自分も周囲の善意と情けによって助けられた。
今の自分は、その女性がどんな人柄なのかにもよるが、
普通に仕事熱心に夫の経営する工場で働いてくれるなら、ぜひとも
雇用してやりたいと思う。
温子は過ぎ去りし日々を思った。
理不尽で惨めな思いにさせられた日のことを。
哲司は出て行けとも言わなかったが、出て行くことはない、とも言わなかった
ずるい人。
捨ておかれた悔しさが蘇る。
そのような辛い気持ちは封印できたと思っていたけれど、哲司の姿を
目にしたことで、思い出したくもないさまざまな感情が押し寄せてきて
困惑した。
今の温子は、夫という堅固な後ろ盾ができ、更にはその夫から大事にされ、
家の中でも外でも何の不自由もない。
けれど、あのとき流した涙の痛みは、年月がたっても消えてはいなかった。
だからこそ、哲司に「助けた」と知られるのはいやだ。
情けをかけたことを、知られたくない。
これは、温子の温子だけの矜持だった。
温子は胸の奥で、小さくつぶやいた。
『これで、あなたとのことは、本当に終わりにするわ』
彼女は窓から見える哲司の背中に決意の言葉を投げつけた。
――――― シナリオ風 ―――――
前ページの同じシーンの続き―――
〇製糸工場/応接室
哲司、はっとして頷き、用意していたメモを取り出す。
哲司「助かるよ。それで十分だ」
哲司、紙に「大川雅代」と住所を書き記す。
温子は無言で受け取り、机に置く。
温子「求人には人が殺到するから……期待しすぎないでね」
哲司(深く頷き)「分かってる。ありがとう。じゃあ……失礼するよ」
温子「気をつけて」
哲司、丁寧に頭を下げて部屋を出ていく。
◇温子の胸中
〇製糸工場/応接室
哲司の去った後
温子、背筋を伸ばして立ち尽くす。
表情は無だが、胸は波立っている。
温子(心の声)「――ずるい人。
なのに……まだ、こうして頼まれたら、断ち切れない自分がいる」
窓際へ歩み寄り、外の景色を見つめる。
敷地を横切り、工場を出ていく哲司の背中が見える。
温子(心の声)「私もかつては、住む場所を失い、途方に暮れた。
そのとき、周囲の善意に救われた。
だから……あの人の幼馴染も、本当に働く意志があるなら、助けてやりた
い。けれど……情けをかけたことを、哲司には知られたくない」
哲司の姿が遠ざかっていく。
温子の目に、一瞬、かつての涙の記憶がよぎる。
温子(胸の奥で固く:(心の声))
「これで……あなたとのことは、本当に終わりにするわ」
温子、窓から去っていく哲司の背中に向かって、静かに囁く。
温子「……意気地なし」
口から零れた呟きは、自分に向けたもの。
室内に静寂が広がり、温子の表情は再び凛としたものへと戻る。