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#異世界物語
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第300話 戻せない
【現実世界・旧研究施設/過去】
『戻る時は、どうすればいいんですか?』
その問いに、白峰律は答えられなかった。
モニターには、成功を示す表示が並んでいる。
《人工意識分離・成功》
《世界間意識転送・成功》
《人格維持・確認》
《感情反応・確認》
《自己認識・維持》
どれも白峰が欲しかった結果だった。
人間は肉体を離れても、記憶も人格も感情も失わない。
身体と意識は、完全に同じものではない。
ならば意識を構成する条件を突き止めれば、いつか死者をもう一度作ることができる。
事故で失った恋人も
残された記録から
いつか。
そう思った。
ほんの数秒前までは。
「……少し待ってください」
白峰はキーボードへ手を戻した。
女性――「榊原梓」には、まだ名前で呼びかけなかった。
接続ログを開く。
現実側から異世界側へ伸びている一本の経路。
意識が通った痕跡。
送信座標。
境界反応。
すべて残っている。
ならば逆に辿ればいい。
単純なはずだった。
白峰が帰還処理を入力する。
《逆接続》
実行。
数秒後。
赤い表示。
《接続不能》
白峰の眉が動く。
「……もう一度」
設定値を変える。
境界固定位置を調整。
異世界側の座標を現在位置へ合わせる。
《逆接続》
《失敗》
白峰の指が止まった。
通信の向こうから声がする。
『白峰さん?』
「聞こえています」
『何か問題ですか?』
「調整中です」
今度は。
はっきり嘘だった。
◆ ◆ ◆
【異世界/旧境界観測区画】
白い人影は
結界の中心に立ったままだった。
正確には
足で立っているわけではない。
身体はない。
それでも本人は、自分が立っているように感じているらしい。
時折
自分の腕を見るような動きをする。
輪郭しかない白い手。
そのたびに光が揺れた。
オルガは表示を追う。
「現実側から逆接続要求」
ヴァルドが結界へ触れる。
「通らない」
カシウスが聞く。
「なぜだ」
「入口と出口の条件が違う」
オルガが複数の反応を並べる。
「現実からこちらへ来た時は、白峰側で生きた身体が固定点になっていた」
「今も身体はある」
「固定点としてはある。でも意識はもうこちら側だ」
オルガが一つの線を指した。
「送る時は、身体から意識を引き離して境界へ流した」
次。
逆方向。
「戻すには、離れた意識を同じ身体へ正確に再接続しなければならない」
カシウスの目が細くなる。
「同じ道を戻せない?」
「道そのものは残っている」
オルガは答えた。
「でも、“入れる位置”が分からない」
身体。
脳。
意識。
記憶。
名前。
どこまで合わせれば
同じ人間として再び結びつくのか。
送る時には必要なかった問題が戻す時には現れる。
ヴァルドが低く言った。
「無理に入れれば壊れる」
白い人影が反応する。
『今の……何ですか?』
三人が黙る。
声が聞こえていた。
梓が少し不安そうに続ける。
『壊れるって……私のことですか?』
カシウスは答えない。
オルガも。
ヴァルドも。
やがて。
現実側から白峰の声が届いた。
『榊原さん』
初めて名前を呼んだ。
『大丈夫です。こちらで調整しています』
白い人影が小さく揺れた。
『分かりました』
疑っていない。
白峰を。
まだ。
◆ ◆ ◆
【現実世界・旧研究施設】
白峰は
榊原梓の身体の前に立っていた。
椅子から寝台へ移されている。
呼吸。
正常。
心拍。
正常。
脳波だけが極端に低い。
眠っているように見える。
だが眠っているのではない。
本人は別の世界にいる。
白峰は何度目か分からない接続を試す。
主経路。
失敗。
補助経路。
失敗。
身体側の反応を強制的に上げる。
拒絶。
意識側座標を少しずらす。
同期不能。
一時間。
二時間。
時間だけが過ぎていった。
異世界側との通信はまだ繋がっている。
梓は最初、研究の話をしていた。
『これ、どうやって見えてるんでしょうね』
『光しかないのに、自分の手がある感じがします』
『体がないのに、立ってる感じがするのも変ですね』
技術者らしい。
自分が置かれた異常な状況でも
怖さより最初は興味が勝っていた。
だが時間が経つにつれて
声が変わった。
『白峰さん』
「はい」
『もう結構経ってますよね』
「……そうですね」
『何時間くらいですか』
白峰は時計を見る。
「三時間弱です」
短い沈黙。
『ユナちゃん、もう戻ってます?』
「今日は別作業です」
『そっか』
また。
少し間。
『私の身体、大丈夫ですか?』
白峰は寝台を見る。
「生命反応は安定しています」
『生命反応は?』
白峰の表情が固まる。
梓が聞き返す。
『それって、私は今どういう状態なんですか?』
白峰は答えを探した。
だが。
どんな言葉を選んでも
一つの事実だけは変わらない。
彼女は。
自分が受けると同意した実験の本当の危険を知らない。
そして、今。
戻れない。
「……意識反応だけが、異世界側にあります」
『異世界?』
梓の声が止まった。
白峰も
何も言えない。
『仮想空間じゃなくて?』
「はい」
『白峰さん』
さっきまでの少し冗談を含んだ声ではなかった。
『私、そこまで聞いてません』
白峰が目を閉じる。
「……はい」
『別の世界に行く可能性があるなんて、聞いてないです』
「説明していません」
とうとう。
白峰は認めた。
長い沈黙。
その間にもモニターには
梓の身体の心拍が一定の間隔で表示されている。
『どうしてですか』
白峰はすぐには答えられなかった。
「可能性は低いと考えていました」
『でも知ってたんですよね』
「……はい」
『戻せると思ってた?』
「はい」
『本当に?』
白峰が寝台の手を見た。
動かない。
「本当に、そう思っていました」
今度は。
嘘ではなかった。
◆ ◆ ◆
【異世界/旧境界観測区画】
白い人影が。
動かなくなっていた。
カシウスは
白峰と梓のやり取りを黙って聞いている。
やがて
現実側の通信を一部切り、白峰だけへ別回線を開いた。
『白峰』
「何です」
『送ることには成功した』
白峰の顔が変わる。
「戻せていない」
『それは次の問題だ』
「違う」
白峰は即座に否定した。
「戻せないなら、成功ではない」
『送る実験としては成功だ』
「私は人を捨てるために研究しているんじゃない」
カシウスは少し黙った。
『なら戻す方法を作ればいい』
「当然です」
『そのためのデータも取れた』
白峰の手が止まる。
「……彼女はデータじゃない」
『被験者だ』
「人間です」
カシウスの声は変わらない。
『同じことだ。人間を対象にした実験なのだから、得られた結果は記録する』
白峰は何も言わない。
カシウスが続ける。
『君は何のために始めた』
白峰の目が机の端へ向く。
閉じたフォルダ。
事故で死んだ恋人の記録。
『死者を戻すためだろう』
「……そうです」
『なら一人の失敗で止まるのか』
白峰の目が鋭くなる。
「失敗ではない」
今度は、自分でも矛盾していることが分かった。
戻せない。
だから成功ではない。
だが梓を
失敗と呼びたくない。
白峰は低く言った。
「必ず戻します」
カシウスは
それ以上何も言わなかった。
◆ ◆ ◆
夜になっても
梓は戻らなかった。
異世界側では
ヴァルドが意識反応を安定させるため、結界を何度も組み直している。
オルガも座標を固定し続ける。
通信を切れば、梓がどこへ流れるのか分からない。
現実側では
白峰が梓の身体を維持していた。
生命維持装置。
栄養。
呼吸補助。
脳への最低限の刺激。
身体を死なせてはいけない。
身体が残っていれば、いつか戻せる。
そう信じるしかなかった。
深夜、梓の声が
通信から小さく聞こえた。
『白峰さん』
「はい」
『まだ、いますか』
「います」
『よかった』
その一言が
白峰の胸を刺した。
怒鳴られていた方が、楽だった。
責められていた方が
まだ。
『私』
梓が続ける。
『戻れますよね』
白峰は寝台の横に立った。
そこにある。
梓の手。
冷たくはない。
生きている。
だから白峰は答えた。
「戻します」
『できますか』
「できます」
『……今度は本当?』
白峰の喉が止まった。
数秒。
答えが遅れた。
それでも。
「はい」と言った。
その瞬間から。
その言葉は、約束になった。
◆ ◆ ◆
翌朝。
一ノ瀬ユナが研究フロアへ来た。
いつものように端末を立ち上げ
隣を見る。
席が一つ
空いている。
「先輩、休みですか?」
白峰は
画面を見たまま答えた。
「しばらく来ません」
ユナが振り返る。
「体調崩したんですか?」
「個人的な事情です」
「連絡しても大丈夫ですか?」
白峰の指が止まる。
「今はやめてください」
ユナは少し不思議そうな顔をした。
「……分かりました」
それ以上追及しなかった。
白峰がそう言うなら理由があるのだろう。
梓と同じだった。
白峰を信じていた。
ユナは自分の席へ戻る。
少しして何かを思い出したように振り返った。
「そうだ。昨日の同期試験どうでした?」
白峰は
数秒だけ
答えられなかった。
「まだ調整中です」
「成功したら見せてください」
「……はい」
ユナは笑って仕事へ戻った。
白峰はその背中を見ていた。
そして。
モニターの片隅にある。
梓の生命反応へ視線を戻す。
◆ ◆ ◆
その日の夜。
通常の研究区域から離れた場所で
一つのカプセルが起動した。
透明な蓋。
内部へ満たされる保存液。
呼吸補助。
循環維持。
脳と身体の最低限の活動を保つための装置。
中に横たわっているのは「榊原梓」。
表向きの記録には存在しない設備だった。
白峰は一人でカプセルの前に立っている。
異世界側にはまだ梓の意識がある。
現実側には身体がある。
二つをもう一度一つへ戻す。
そのために
身体だけは絶対に失うわけにはいかない。
カプセルの表示。
《BODY STATUS・STABLE》
《CONSCIOUSNESS RESPONSE・REMOTE》
《RECONNECTION・UNRESOLVED》
白峰は最後の一行を見る。
未解決。
失敗ではない。
終わっていないだけだ。
そう言い聞かせる。
事故で恋人を失った時。
何もできなかった。
身体も。
意識も。
戻せなかった。
今度は違う。
身体がある。
意識もある。
両方とも
まだ存在している。
なら、戻せる。
「必ず戻す」
カプセルの中の梓へ。
そして、遠い世界にいる梓へ。
同時に言うように白峰は呟いた。
「今度は、失わない」
だが、その約束を守るために。
白峰は。
この日から。
もう一つのことを始めた。
榊原梓が消えた事実を。
会社から隠すことを。
コメント
1件
美月ゆめかだよ〜🌸 第300話「戻せない」、読み終えた…ってか、心臓ギュッてされた…!! 梓さんが「戻れますよね?」って聞くところ、白峰さんの「今度は本当?」への答えの遅れ…あそこ、もう本当に辛すぎた😭💦 しかも最後、身体を隠す方向に進むって…第二章の「戻すために嘘を重ねる優しい悪意」がまさにここで生きてくるじゃんかぁ…!次、どうなるの…!?