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ぴくりと握った手が少し動いた。律が目覚めたのか!?
慌てて彼女を見た。再び手が動き、閉じられていた瞼が少しずつ開いた。
「……博、人?」
「律、大丈夫か?」
「ここ……は?」
「俺の知り合いの病院や。記憶はどう? さっきの件、覚えてる?」
「うん。あの…光貴……は?」
「大丈夫。旦那が警察に捕まったりすることはない。ここは俺が引き受けて、旦那はラジオ収録に行かせたから」
律が心底安堵した顔を見せた。記憶が混濁したりパニックになっている様子もない。
「刺された傷は浅いって。適切な処置はしてもらったけれど、傷が残ってしまうと思う。当面は患部が疼いて辛いと思うけれど、旦那のために耐えてやってくれるか」
律は頷いた。麻酔から覚めた所やからすぐにしっかり喋ったりできないのだろう。ぼんやりとしていた。
俺たちは暫く無言で過ごした。彼女がもう少し回復するまで、言葉を交わすのは待った。それは、これから訪れる別れを先延ばしにしたいという欲の表れもあったような気がする。
「落ち着いた?」
「ん」
「痛みは?」
「だい…じょうぶ」
「無理するなよ。とにかく今は身体を回復させることだけを考えてくれ」
「ありがとう」
交わす言葉も少なく、ただ俺が律の手を握っていた。彼女から俺の手を握り返してくれることは無く、それが無性に淋しく思えた。
「あ、旦那から預かった手紙がある」
律にさっき旦那から預かった白い封筒を見せると、表情に変化が現れた。驚いた顔をして、開けて、と擦れた声で律が呟いた。
「俺も見ることになるけどいいの?」
律が頷いたので、中の手紙を破らないように気を付けながら丁寧に封を切った。中の紙を取り出て開けると、手紙ではなく離婚届だった。広げてみると律と旦那の名前が書かれていて、それぞれに押印があった。
「離婚届や。旦那が署名捺印してる」
それ以外にはなにも入っていなかった。
僕の気持ちはさっき渡した封筒に収めてあります。律が目覚めたら渡してもらえますか――旦那の言葉が蘇った。こんな罪を犯すほど律を愛しているのに、彼女のために別れを選ぶのか。
正直で不器用な男だ。いい男なのに、愛し方が少し下手だっただけ。
俺に彼を責める資格もないのに、自分の言いたいことだけを矢次に言ってしまった。不必要に彼の傷を抉り更に傷つけてしまって申しわけなく感じた。
俺という存在が、彼にとっては不愉快で大きな傷になったはず。
中身が完成された離婚届だと知った律は泣いていた。美しい瞳から涙が零れ落ちる。涙は後から後から流れては彼女の頬を濡らした。
「ごめん」
弱い声がした。その後沈黙が訪れた。
無言の時が流れ、やがて暫くして彼女が涙声が聞こえた。
「博人、別れよう」
「博人と、一緒になりたい…けど……でも、こんな……無理…。ごめん……ううっ、ごめんね…っ。博人と、一緒には……行けない……」
肩を震わせ、泣きじゃくる彼女に俺はもう手を差し伸べることはできなかった。あの離婚届を見て、旦那の愛情を再確認したのだろう。
彼らの絆に、俺は入り込むことができなかった。
いや、立ち入ってはいけなかったのだ。
恐れていたことが現実となった。こうなる前にもっと早く決断するべきだったのに。
逃走劇が誰も幸せになれないことは、わかっていたはず。
それでも夢を見たかった。孤独しか知らない愛情に飢える俺には、律との未来は眩しすぎる幻だった。何を捨ててでも欲しかった。
でも、終わりにしよう。もう夢はみない。
地獄の舞台から降りる。
この罪な恋は俺の手での幕引きを。
「それがいい。俺もそう思う。お前は大事な女だから、たとえ遠く離れても幸せを願ってる」
その先は伝えずに彼女の震えるまつ毛の先の涙に口づけた。
愛してる。
愛してる。
結局この逃走劇は俺の罪を浮き彫りにしただけで、律と旦那を深く、深く傷つけてしまった。
律が助かったこと、幸い軽傷だったことを旦那に伝え、可能な限り早く迎えに来てほしい旨を伝えた。
律に別れを告げ、俺は原田医院を後にした。
この身ひとつで、車を走らせた。
行先は、すべて心のままに――