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第二十一話 願いの炉心、贋作の剣
黒い神杯の奥へ、道が開いた。
それは階段ではなかった。
門でも、橋でもない。
空に裂けた傷口。
冬木の夜を縦に割るような、黒と白の亀裂。
その向こう側には、光があった。
けれど、それは希望の光ではない。
願いが燃える光。
誰かが生きたいと願った火。
誰かが戻りたいと願った火。
誰かが許されたいと願った火。
誰かが終わりたいと願った火。
それらが、ひとつの炉の中で燃やされ続けている。
神杯核。
願いの炉心。
そこへ至る道が、ついに開かれた。
◆
衛宮士郎は、黒い亀裂を見上げていた。
右手には、一本の剣がある。
完全な剣ではない。
形は剣に似ている。
刃はある。
柄もある。
だが、どこか歪で、どこか未完成だった。
終末の記録。
祝祭の余韻。
裁きの境界。
愛憎の糸。
創造の欠片。
死の鐘。
王権の砕けた冠。
月影。
豊穣の種。
狩猟の矢羽。
因果の楔。
海の錨。
智慧の羽根。
白き器の願い。
これまで越えてきたすべての層の答えを、士郎の投影魔術が無理やり一つの形にまとめたもの。
宝具ではない。
神器ではない。
名剣でもない。
ただ、願いを炉から切り離すための贋作。
アーチャーはその剣を見て、わずかに眉をひそめた。
「酷い出来だな」
士郎は剣を握り直す。
「分かってる」
「継ぎ接ぎで、均衡が悪い。術式としても危うい。構造だけなら三流だ」
「そこまで言うか」
「事実だ」
アーチャーは静かに続けた。
「だが、この場でしか成立しない剣としては、悪くない」
士郎は少しだけ驚いて彼を見る。
アーチャーは視線を逸らす。
「勘違いするな。褒めてはいない」
「いや、今のは褒めただろ」
「黙れ」
凛が二人を見て、小さく息を吐いた。
「最後の最後までいつも通りね」
だが、その表情は固い。
神杯核への突入。
ここから先は、防衛層とは違う。
終末神、酒神、境界神、愛神、鍛冶神、冥王、雷帝、月神、豊穣神、狩猟神、海王、智慧神。
いくつもの神格と英霊が問いを投げかけてきた。
それでも、まだ神杯そのものは残っている。
白い少女は、イリヤとアルターエゴの隣に立っていた。
彼女にはまだ名前がない。
最初の器。
願いを消したくないと願い、神杯の原罪となった少女。
彼女は自分の胸に手を当て、震える声で言った。
「炉心には、私の願いが残っている」
イリヤが彼女の手を握る。
「一緒に返してもらおう」
「返す?」
「うん。神杯に使われてた願いを、あなたに返すの」
白い少女は不思議そうに瞬きした。
「私が、持っていていいの?」
アルターエゴが答える。
「肯定。願望の所有者はあなたです」
イリヤは笑う。
「そういうこと」
白い少女は、まだ理解しきれていないようだった。
だが、彼女は逃げなかった。
士郎は皆を見渡した。
アルトリア。
凛。
アーチャー。
ジャンヌ。
メディア。
ギルガメッシュ。
エルキドゥ。
リチャード。
ランスロット。
クー・フーリン。
バゼット。
桜。
メドゥーサ。
イリヤ。
アルターエゴ。
白い少女。
さらに、遠くから各神格の残した力が亀裂を支えている。
デメテルの黄金の根。
セレーネの月光。
アポロンの照明。
アルテミスの矢羽。
ポセイドンの潮流。
アテナの智慧の羽根。
今までの戦いが、すべてここへ繋がっていた。
士郎は言った。
「行こう」
誰も異論を唱えなかった。
黒い亀裂の中へ、彼らは踏み込んだ。
◆
神杯核の内部は、炎の海だった。
だが、熱くはない。
むしろ寒い。
願いが燃えているのに、そこには温度がなかった。
ただ、光だけがある。
声だけがある。
形になれなかった願いが、炎として揺れている。
足元には道がある。
白い石のようで、黒い灰のようでもある道。
その左右には、無数の小さな火が並んでいた。
ひとつひとつが、願いだった。
小さなものもある。
母に会いたい。
謝りたい。
もう一度だけ笑いたい。
帰りたい。
忘れられたくない。
大きなものもある。
国を救いたい。
世界を変えたい。
神を越えたい。
すべての死を終わらせたい。
どれも同じ炉の中で燃えている。
願いの大小も、持ち主の生死も、善悪も、神杯には関係ない。
ただ燃えるかどうか。
燃料になるかどうか。
それだけで分類されている。
ジャンヌは旗を抱きしめ、痛ましそうに目を伏せた。
「祈りが、こんな形で……」
ギルガメッシュは不快そうに言った。
「宝物庫ならば、宝の価値に応じて置き場を分ける。だがここは、すべてを同じ炉へ放り込んだだけだ。下劣な倉庫にも劣る」
エルキドゥは小さな火を見つめる。
「でも、ひとつひとつは本物の願いだ」
アルターエゴが周囲を解析する。
「願望燃焼炉、複数層構造。中心核へ進むほど、願いの個体識別が困難になります」
凛が宝石板を確認する。
「つまり奥へ行くほど、誰の願いか分からなくなるってこと?」
「肯定。最終炉心では、願いは名を失い、純粋な衝動へ変換されます」
士郎はポセイドンの言葉を思い出した。
名を持たない願い。
生きたい、救いたい、戻りたい、終わりたい。
そう名づける前の、もっと曖昧で危険な衝動。
メディアが言った。
「急ぎましょう。ここに長くいれば、自分の願いまで炉に引き寄せられる」
その瞬間、道の左右の炎が大きく揺れた。
声が響く。
『叶えてあげる』
全員の足が止まった。
声は、神杯のものだった。
白い少女の声に似ている。
だが、もっと空虚で、もっと古い。
『あなたたちの願いを、叶えてあげる』
炎の中に、光景が浮かび上がる。
士郎の前には、赤い空があった。
かつての大火災。
だが、そこに倒れている人々はいない。
全員が救われている。
誰も泣いていない。
誰も助けを求めていない。
切嗣も、笑っている。
『救いたかったのだろう』
神杯が囁く。
『ならば、救われた過去を与えよう』
士郎の手が震えた。
そんなものはあり得ない。
過去は変わらない。
死んだ人は戻らない。
分かっている。
それでも、胸が痛んだ。
助けられたはずの景色。
見たかった景色。
その横で、イリヤも立ち尽くしていた。
彼女の前には、雪の城がある。
切嗣がいる。
アイリスフィールがいる。
ヘラクレスがいる。
誰も彼女を置いていかない。
小さなイリヤが、両親の間で笑っている。
『欲しかったのだろう』
神杯が囁く。
『ならば、失われなかった家族を与えよう』
イリヤの瞳が揺れる。
「……ずるい」
彼女は小さく言った。
「それは、ずるいよ」
凛の前には、桜と笑い合う幼い日の光景があった。
別れなかった姉妹。
奪われなかった妹。
遠坂の家も間桐の家も関係なく、二人で普通に育った時間。
桜の前には、暗い地下のない過去があった。
メドゥーサの前には、怪物と呼ばれなかった自分がいた。
アルトリアの前には、滅びなかった国があった。
ランスロットの前には、裏切らなかった自分がいた。
ジャンヌの前には、炎に包まれなかった少女がいた。
アーチャーの前には、後悔しなかった未来があった。
クー・フーリンの前には、決められた死を越えた戦場があった。
バゼットの前には、奪われなかった契約と、最後まで戦い抜けた自分がいた。
ギルガメッシュの前には、友を失わなかったウルクがあった。
エルキドゥの前には、神に造られた道具ではなく、最初から自由だった自分がいた。
リチャードの前には、敗北も過ちもない英雄譚があった。
アルターエゴの前には、完成された自分がいた。
白い少女の前には、誰にも器として扱われなかった少女がいた。
全員の願い。
叶わなかったもの。
取り戻したかったもの。
あり得たかもしれない幸福。
神杯は、それを差し出してきた。
『願いを叶える』
声が響く。
『叶えば、苦しまなくていい』
士郎は、剣を握る手に力を込めた。
心が揺れる。
当たり前だ。
揺れないはずがない。
誰だって、失ったものを戻したい。
間違えた過去をやり直したい。
救えなかった人を救いたい。
だけど。
士郎は目を閉じた。
切嗣の言葉が蘇る。
君自身の答えを選びなさい。
イリヤの言葉が蘇る。
私は、生きるから。
桜の言葉が蘇る。
影も私です。
アルターエゴの言葉が蘇る。
私は未完成のままでも、私でいたい。
士郎は目を開けた。
「それは、願いじゃない」
神杯の炎が揺れる。
『なぜ』
「それは、持ち主の今を消してる」
士郎は前を見た。
「救われた過去が欲しくないわけじゃない。戻せるならって、思わないわけじゃない。でも、それを叶えたら、ここまで来たイリヤも、凛も、桜も、皆も、今の願いを選んだ全部が消える」
イリヤが涙を浮かべながら頷いた。
「私、家族がいる過去は欲しいよ」
彼女の声は震えていた。
「でも、それで今の私がなかったことになるなら……お兄ちゃんにおはようって言った私も、卵焼き作った私も、切嗣に怒った私も消えるなら、嫌」
幻の雪城が揺らぐ。
イリヤは涙を拭った。
「欲しかった。でも、今の私はここにいる」
凛も拳を握る。
「桜と別れなかった過去なんて、欲しくないわけないじゃない」
桜が凛を見る。
凛は続ける。
「でも、それで今の桜の怒りも、強さも、影を抱えた桜も消すなら、それは違う」
桜は静かに言った。
「私も、暗い過去がなかった世界を、少し見たいです」
メドゥーサが彼女を見る。
桜は微笑む。
「でも、今ここにいる私を消してまで欲しいわけじゃありません」
アルトリアは滅びなかった国の幻を見る。
その光景は、あまりにも眩しい。
彼女がかつて望んだもの。
求め続けたもの。
だが、彼女は聖剣を握った。
「私は、その願いを捨てたわけではありません。今でも国の滅びは痛みです」
ランスロットが静かに頭を垂れる。
アルトリアは続ける。
「ですが、それをなかったことにするために、今の私と彼らの選択を消すことはできません」
ランスロットも言う。
「裏切らなかった自分がいるなら、会ってみたい。ですが、罪を抱えた今の私が再び剣を捧げたことまで、偽物にはしたくありません」
アーチャーは自分の幻を見て、苦い笑みを浮かべた。
「後悔しなかった未来か。実に魅力的だ」
士郎が彼を見る。
アーチャーは小さく息を吐く。
「だが、そんなものを与えられても、私は私ではなくなる。後悔は消えん。だが、後悔だけではないと知ったところだ」
ジャンヌは旗を握る。
「苦しみのない過去が救いに見えることもあります。ですが、祈りは過去を消すためだけにあるのではありません」
ギルガメッシュは幻のウルクを見た。
友がいる。
失われなかった都がある。
彼の表情が一瞬だけ静かになる。
エルキドゥも同じ幻を見ていた。
だが、ギルガメッシュは笑った。
寂しさを隠さない、不遜な笑みだった。
「愚かな杯よ。我の宝を偽物で飾るな」
エルキドゥは柔らかく言う。
「失ったからこそ、今の僕たちがある。悲しいけれど、それも本当だね」
アルターエゴは完成された自分の幻を見る。
迷いのない自分。
機能として完璧な自分。
彼女は首を横に振った。
「私は未定を選択しました。完成済みの私は、現在の私ではありません」
白い少女は、自分の幻を見ていた。
器ではない少女。
誰かに名前を呼ばれ、普通に笑い、願いを保存する役目など持たない少女。
彼女は涙を流していた。
初めての涙だった。
「欲しい」
白い少女は言った。
「私、これが欲しかった」
イリヤが彼女の手を握る。
「うん」
「でも、これを選んだら、私は私じゃなくなる?」
イリヤはすぐには答えなかった。
代わりに、士郎を見る。
士郎も答えを探す。
そして言った。
「欲しかったって言っていい。でも、神杯に作らせた過去は、今の白い子を救わないと思う」
白い少女は涙をこぼす。
「じゃあ、私の願いはどうなるの?」
士郎は剣を握りしめる。
「今から作る」
「作る?」
「過去じゃなくて、これからの願いを」
白い少女は震えた。
「これから……」
アルターエゴが言う。
「未定領域」
イリヤが続ける。
「名前も、これから決めればいい」
白い少女は涙を流しながら、小さく頷いた。
「うん」
その瞬間、幻が一斉に砕けた。
神杯の炎が大きく揺らぐ。
『なぜ拒む』
神杯の声が怒りに変わる。
『願いを叶える。苦しみを消す。失ったものを戻す。なぜ拒む』
士郎は答える。
「それは、今を燃やして作る願いだからだ」
彼は贋作の剣を構えた。
「俺たちは、今を燃料にしない」
◆
願いの炉心が、怒りを持った。
炎が黒く染まる。
左右の願いの火が合流し、巨大な影を作る。
無数の手。
無数の顔。
無数の口。
それらが一斉に叫ぶ。
『叶えろ』
『戻せ』
『消すな』
『忘れるな』
『保存しろ』
願いの怪物。
神杯炉心そのものが、道を塞ぐ。
凛が宝石を構える。
「ここからは力押しね!」
メディアが杖を掲げる。
「違うわ。力押しに見せかけた精密作業よ。願いの火を壊しすぎれば逆流する!」
クー・フーリンが槍を回す。
「面倒くせぇ!」
バゼットが隣で構える。
「ですが、やるしかありません」
セイバーが前へ出る。
「道を開きます!」
聖剣が光を放つ。
ランスロットの黒剣がその光を支える。
ジャンヌの旗が全体を包み、ギルガメッシュの宝具が怪物の外殻を撃ち抜く。
エルキドゥの鎖が無数の手を縛る。
リチャードとイスカンダルが左右から突撃する。
メドゥーサの鎖が足元の糸を払い、桜の影が燃えそうな願いを受け止める。
アーチャーは士郎の隣に立ち、弓を引いた。
「衛宮士郎。お前は炉心を狙え」
「お前は?」
「露払いだ」
「一人でか?」
「馬鹿を言うな」
アーチャーは少しだけ笑った。
「これだけいるのだ。一人でやる必要などない」
士郎も笑った。
「ああ」
戦いは、これまでの総決算だった。
終末神の記録が、燃え尽きようとする願いに終わりを恐れすぎない静けさを与える。
酒神の祝祭の余韻が、叶わなかった願いに「終わった宴」としての穏やかな区切りを与える。
境界神の鍵が、願いと燃料の境を開く。
愛神のほどけた糸が、矛盾した願いを無理に一つに固定しない。
鍛冶神の欠片が、士郎の贋作の剣をかろうじて形に保つ。
冥王の死の鐘が、死者の願いを無理に生者へ戻さず、静かに眠らせる。
王権の砕けた冠が、願いを支配しようとする力を拒む。
月影が、隠されていた願いを焼かずに抱く。
豊穣の種が、願いを眠れる種へ変える。
狩猟の矢羽が、願いを獲物として標的化する術式を外す。
因果の楔が、願いの結末を固定させない。
海の錨が、願いが炉へ流れ戻るのを止める。
智慧の羽根が、願いの記録を改竄させない。
そして白き器の涙が、最初の願いを命令から祈りへ戻していく。
士郎は走った。
願いの怪物の中心へ。
炎が迫る。
叫びが迫る。
叶えてほしい願い。
戻りたい願い。
消えたくない願い。
そのどれもが本物だ。
だから、士郎は斬り捨てない。
贋作の剣で、炉との接続だけを切る。
一本。
また一本。
願いの糸が剣に触れるたび、種へ変わっていく。
しかし、炉心の中心には届かない。
神杯本体が、黒い杯の形を取って立ちはだかる。
巨大な杯。
その表面には、無数の顔が浮かんでいる。
最初の器の顔。
イリヤに似た顔。
知らない誰かの顔。
英雄の顔。
神の顔。
死者の顔。
すべてが混ざり、ひとつの器になっている。
『願いを消すな』
神杯が言う。
『願いを眠らせれば、忘れられる』
士郎は答える。
「忘れられることもある」
神杯が揺れる。
『ならば、保存する』
「違う」
士郎は剣を構える。
「忘れられるかもしれない。それでも、誰かの中で変わるかもしれない。別の願いに育つかもしれない。願いは、持ち主から奪って保存するものじゃない」
『持ち主が死んだ願いは』
「眠らせる」
『誰も覚えていない願いは』
「それでも、燃やさない」
『叶わなかった願いは』
「叶わなかったことごと、どこかへ還す」
士郎は一歩踏み込む。
「願いを永遠に燃やすな!」
贋作の剣が神杯の表面へ届く。
だが、刃が砕け始めた。
無理だ。
士郎一人の剣では、神杯炉心を切り離せない。
アーチャーが横へ並んだ。
彼の手にも、同じ剣があった。
だが、士郎のものより少しだけ完成度が高い。
「言ったはずだ。一人で行くなと」
士郎は笑った。
「助かる」
「勘違いするな。お前の剣があまりにも酷いから補強してやるだけだ」
凛が背後で叫ぶ。
「二人とも、魔力通すわよ!」
赤い宝石が砕ける。
セイバーの聖剣の光が刃へ重なる。
ジャンヌの祈りが刃を包む。
イリヤの豊穣の種が願いを受け止める器を広げる。
桜の影が逆流する黒い火を抱き止める。
アルターエゴが叫ぶ。
「願望燃焼炉、切断可能点を算出。中心ではなく、周縁十三箇所を同時切断してください」
メディアが言う。
「聞いたわね! 全員、支点を狙いなさい!」
ギルガメッシュが笑う。
「命じるな、魔女。だが狙いは分かった」
宝具が十三の支点へ放たれる。
エルキドゥの鎖がそれを固定する。
クー・フーリンの槍が一点を穿つ。
バゼットの拳が因果を返す支点を砕く。
ランスロットとアルトリアが二つの支点を斬る。
リチャードとイスカンダルが左右を割る。
メドゥーサの鎖が下方の支点を引き剥がす。
凛とメディアが術式で残る支点を縫い止める。
ジャンヌが祈る。
イリヤが種を差し出す。
白い少女が涙を拭い、神杯へ手を伸ばす。
「もう、燃やさなくていい」
その言葉で、最後の支点が揺らいだ。
士郎とアーチャーは同時に剣を振り下ろす。
「――投影、完了」
二本の贋作の剣が、願望炉の外殻を斬った。
黒い神杯が、割れた。
◆
音はなかった。
世界が一瞬、白くなる。
燃えていた願いの火が、次々と小さな種へ変わっていく。
黒い炉の中から、無数の光の粒が生まれる。
それらは上へ昇らない。
消えもしない。
士郎たちが作った願いの畑へ、静かに降っていく。
種。
数えきれないほどの種。
叶わなかった願い。
忘れられかけた願い。
持ち主を失った願い。
変わることを許されなかった願い。
それらはもう燃えていない。
眠っている。
いつか、どこかで、別の形に育つかもしれない。
誰にも芽吹かないかもしれない。
それでも、神杯の炉で永遠に燃え続けるよりはいい。
白い少女は、その光景を見ていた。
涙を流しながら。
「消えてない」
イリヤが隣に立つ。
「うん」
「燃えてもいない」
「うん」
「眠ってる」
「うん」
白い少女は胸を押さえる。
「私の願いも?」
士郎は頷いた。
「ああ。眠ってる」
白い少女は目を閉じた。
長い長い時間、命令として燃やされ続けた願いが、ようやく休んだ。
その瞬間、神杯核の内部が崩れ始める。
凛が叫ぶ。
「全員、脱出! 炉心が崩れる!」
ギルガメッシュが舌打ちする。
「最後まで騒がしい杯だ」
エルキドゥの鎖が全員を繋ぐ。
メディアと凛が転移術式を展開する。
ジャンヌの旗が崩壊の衝撃を防ぐ。
士郎は白い少女とイリヤを見た。
「行くぞ!」
白い少女は頷いた。
「うん」
その声は、もう空っぽではなかった。
◆
冬木の空から、黒い神杯が消えた。
夜明け前の空に、大きな亀裂だけがしばらく残り、やがてそれも薄れていく。
街は静かだった。
何事もなかったように。
だが、冬木の霊脈の奥には、小さな種が眠っている。
願いの種。
誰かのものだった祈りが、燃料ではなく、眠りとして還った証。
衛宮邸の庭に、士郎たちは戻ってきた。
全員が疲れ切っている。
凛はその場に座り込み、メディアも珍しく大きく息を吐いた。
クー・フーリンは肩を回しながら言った。
「終わった……のか?」
バゼットが空を見る。
「少なくとも、神杯の炉は停止しました」
ギルガメッシュは不満げに言う。
「杯そのものは砕けた。だが、残滓が全て消えたわけではなかろう」
アテナの羽根が士郎の手の中で静かに光る。
アルターエゴが解析する。
「神杯戦争システム、主炉心停止。残存霊基および召喚存在への影響、不明。即時消滅は確認されません」
凛が顔を上げる。
「つまり、サーヴァントやサーヴァリアントがすぐ消えるわけじゃない?」
「肯定。ただし、今後の維持には個別条件が必要です」
アルトリアは士郎を見る。
その視線には、何かを覚悟する静けさがあった。
士郎はそれに気づいた。
けれど、今は何も言わなかった。
まだ朝が来ていない。
まだ、別れの話をするには早い。
イリヤは白い少女の手を握っていた。
「ねえ」
白い少女がイリヤを見る。
「名前、考えなきゃね」
白い少女は瞬きをする。
「名前」
「うん。ずっと白い子じゃ変だし」
凛が疲れた顔で言う。
「さすがに白い子は雑すぎるわね」
アルターエゴが静かに手を上げる。
「私も名称未定です」
イリヤは少し考えた。
「じゃあ二人とも考えよう」
白い少女は戸惑いながら頷く。
「うん」
士郎はその光景を見て、少しだけ笑った。
神杯を砕いた後にする話が、名前を考えること。
それが、妙にこの場所らしかった。
◆
空が白み始める。
神杯戦争、第二十一夜。
士郎たちは神杯核へ到達し、願いを燃やす炉を砕いた。
願いは叶うだけではない。
願いは変わる。
眠る。
誰かの中で別の形に育つ。
その答えを、彼らは神杯へ叩きつけた。
だが、物語はまだ終わらない。
神杯の炉は止まった。
しかし、召喚された英霊と神格たちはまだここにいる。
イリヤの命は、完全に安定したわけではない。
白い少女とアルターエゴは、まだ名前を持っていない。
そして、砕けた神杯の残滓は、冬木の霊脈に小さな光として散らばっている。
終わりではない。
終わった後に、何を選ぶのか。
それこそが、願いを返された者たちの次の戦いだった。
第二十二話へ続く。
コメント
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読了しました…🌙 神杯が差し出す“叶わなかった過去”の幻、すごく苦しかったです。誰だって欲しいと思う。でも「それで今の自分が消えるなら嫌だ」って全員が拒むところ、本当に胸が熱くなりました。特にイリヤと白い少女の「名前、考えよう」が、戦いの後にぽっと灯る優しさで…そこが一番好きです。 願いを永遠に燃やさない、眠らせるという選択、重くて美しかった。続きも読みます🤍
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