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#異能力バトル
聖杯
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聖杯
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第二十一話
願いの炉心、贋作の剣
黒い神杯の奥へ、道が開いた。
それは階段ではなかった。
門でもなければ、橋でもない。
冬木の夜を縦に引き裂く、黒と白の亀裂。
まるで空そのものが傷つき、その傷口の奥から、この世界には存在しない光が漏れ出している。
星々は亀裂を避けるように歪み、雲は周囲だけ不自然に千切れていた。
月光さえも近づくことを拒んでいる。
それでも、裂け目の向こうには光があった。
希望の光ではない。
救いを示す光でもない。
願いが燃えている光だった。
誰かが、生きたいと願った火。
誰かが、帰りたいと願った火。
誰かが、もう一度会いたいと願った火。
誰かが、許されたいと願った火。
誰かが、すべてを終わらせたいと願った火。
誰かが、忘れないでほしいと願った火。
本来なら、ひとつとして同じものではない。
願った理由も。
声も。
記憶も。
持ち主も違う。
そのはずだった。
だが、亀裂の奥では、すべての願いがひとつの炉へ投げ込まれていた。
名を剥がされる。
記憶を剥がされる。
誰が願ったのかという意味を奪われる。
叶えるべきか。
叶えないべきか。
変えてもよいのか。
忘れてもよいのか。
その問いを持つことさえ許されない。
ただ燃える。
ただ熱量へ変換される。
ただ次の願いを叶えるための燃料として消費される。
神杯核。
願望燃焼機構。
願いの炉心。
神杯戦争のすべてを支えてきた本体へ至る道が、ついに開かれた。
◆
衛宮士郎は、夜空を裂く亀裂を見上げていた。
右手には一本の剣が握られている。
完全な剣ではない。
名剣ではない。
宝具でもなければ、神造兵装でもない。
刀身はわずかに歪んでいる。
鍔は継ぎ接ぎだらけで、柄には異なる時代の術式が無理やり編み込まれていた。
剣として見れば粗悪品。
魔術礼装として見れば、いつ崩壊してもおかしくない危険物。
神秘の体系として見れば、成立していること自体が奇跡に近い。
だが、その贋作には、ここまで越えてきたすべてが刻まれていた。
終末の記録。
祝祭の余韻。
裁きの境界。
愛憎から解かれた糸。
創造の欠片。
王権から剥がれ落ちた冠。
死を告げながら、生者を見送った鐘。
月影。
豊穣の種。
狩猟の矢羽。
海の錨。
因果を留める楔。
智慧の羽根。
白き器が初めて流した涙。
神杯の十三層を越えるたびに得た答えを、士郎の投影魔術が無理やり一本の剣へ押し込めたもの。
願いを斬るための剣ではない。
願いを消すための剣でもない。
願いを炉から切り離し、持ち主へ返すための贋作。
名前は、まだない。
名前など、なくてもよかった。
この一度だけ。
この場所で。
この炉心を止めるために成立すれば、それでいい。
隣に立つアーチャーが、その剣を一瞥した。
赤い外套が、亀裂から吹き出す冷たい風に揺れる。
「酷い出来だな」
士郎は剣を握り直した。
「分かってる」
「構造は歪。魔力伝導率も不均一。異なる概念を無理に重ねたせいで、互いの長所を潰している箇所が七つ。補強を一度誤れば、刀身より先にお前の魔術回路が焼き切れる」
「そこまで分かるのかよ」
「お前が作ったものだからな」
アーチャーは淡々と言った。
「剣としては三流。礼装としては欠陥品。完成度という言葉を使うことすら躊躇われる」
「最後の最後まで容赦ないな、お前」
「事実を述べただけだ」
アーチャーは、そこで言葉を切った。
そして、剣の内側に刻まれた無数の答えを見つめるように、わずかに目を細めた。
「だが――」
士郎が顔を上げる。
「この場でしか成立せず、この場でしか役に立たない剣としては、悪くない」
「今の、褒めたか?」
「勘違いするな」
「絶対褒めただろ」
「黙れ。緊張感というものを覚えろ」
二人の後ろで、凛が深く息を吐いた。
「神杯の本体を前にして、よくいつも通り喧嘩できるわね」
「喧嘩じゃない」
「教育だ」
士郎とアーチャーが同時に答える。
凛は額を押さえた。
「はいはい。そっくりで結構」
そう言いながらも、凛の右手は震えていた。
恐怖ではない。
魔力の使いすぎでもない。
この先へ進めば、もう引き返せないことを理解している震えだった。
神杯の外殻ではない。
防衛層でもない。
記録を保管する聖堂でも、願いを選別する庭でもない。
本体。
すべての始まり。
すべての願いを燃やし続けている炉。
亀裂の前には、名を持たない白い少女が立っていた。
イリヤが右手を握り、アルターエゴが左側に寄り添っている。
願いを受け止めるために造られた器。
願いを抱いてはいけないと命じられた少女。
それでも誰かの願いが消えてしまうことを悲しみ、初めて自分自身の願いを抱いた、最初の器。
白い少女は胸元を押さえた。
「中に、まだある」
イリヤがそっと問いかける。
「あなたの願い?」
少女は頷いた。
「うん」
声が震えている。
「私の願い。でも、もう私の声じゃない。あの中で、ずっと同じ言葉を繰り返してる」
アルターエゴの瞳に、幾重もの術式表示が浮かんだ。
「神杯核内部に原初願望の残留を確認。白き器の願望は現在、願望燃焼炉の基礎命令として稼働しています」
凛が眉を寄せた。
「基礎命令?」
「肯定」
アルターエゴは感情の薄い声音でありながら、どこか痛みを堪えるように告げた。
「願いを消してはならない。すべての願いを保存しなければならない。その祈りが、保存命令へ変換されました」
「保存するために、燃やしてるっていうの?」
「神杯は、願いを願いのまま保存する方法を持ちませんでした。ゆえに願いを熱量へ変換し、炉の稼働記録として保持しています」
メディアが低く吐き捨てた。
「祈りを術式に変え、術式を命令に変え、命令を炉にした。挙げ句、その炉を永遠に動かすことを保存と呼んだ」
紫色の瞳に怒りが宿る。
「最悪ね。魔術師が最も犯してはならない種類の傲慢よ」
白い少女は俯いた。
「私が、願ったから?」
イリヤが即座に首を振った。
「違う」
「でも、私が消えないでって思わなかったら――」
「違うよ」
イリヤは少女の手を強く握り直した。
「願ったことは悪くない。大切なものが消えてほしくないって思うのは、悪いことじゃない」
士郎も少女を見た。
「悪いのは、願いを持ち主から奪ったことだ」
少女が顔を上げる。
士郎は贋作の剣を握ったまま、まっすぐに続けた。
「お前の願いを、お前が変えられない命令にした。お前がもう休みたいと思っても、苦しいと思っても、ずっと燃え続けるものにした。それが間違ってる」
「じゃあ……」
少女の唇が震えた。
「返してもらえる?」
士郎は答えた。
「返してもらう」
「私が持っていても、いいの?」
「当たり前だ」
アルターエゴも静かに頷いた。
「願望の所有権は、あなたにあります」
少女は首を傾げる。
「所有権……?」
アルターエゴは一瞬だけ沈黙した。
「表現を修正します」
そして、少女の目を見て言った。
「あなたの願いは、あなたのものです。誰にも命令へ変える権利はありません」
イリヤが微笑んだ。
「そういうこと」
白い少女はまだ、すべてを理解したわけではなかった。
生まれてから一度も、自分のものを持ったことがなかった。
身体も。
名前も。
声も。
涙も。
願いさえも。
けれど、少女は逃げなかった。
怖がりながらも、亀裂の奥を見つめた。
「行きたい」
イリヤが頷く。
「うん。一緒に行こう」
その瞬間。
空を裂く亀裂の縁が、大きく揺れた。
黒い根のようなものが裂け目から這い出し、冬木の夜空へ伸びていく。
ひとつ。
二つ。
数え切れないほどの願望糸。
冬木の霊脈へ再接続し、炉心を現世へ固定しようとしている。
凛が顔を上げた。
「外縁結界は!?」
メディアが目を細める。
「まだ持っている。けれど、神杯核が開いたことで、外層に押し込められていた残滓が一斉に活性化したわ」
その声を追いかけるように、亀裂の下方で青い閃光が弾けた。
赤い槍が、空を這う黒い根を貫く。
根はただ刺されたのではない。
槍が触れた瞬間、既に心臓を穿たれたという結果だけを押しつけられ、内側から砕け散った。
「人が必死に退路守ってるってのに、呑気に話し込んでんじゃねえ!」
クー・フーリンだった。
青い装束を黒く焦がしながら、亀裂の外縁に立っている。
その隣では、バゼット・フラガ・マクレミッツが両拳を構えていた。
黒い術式が二人へ殺到する。
バゼットは踏み込んだ。
鋭い拳が願望糸を打ち抜き、術式そのものを逆流させる。
「炉心へ進むのであれば、退路の維持は絶対条件です。接続を閉じられれば、全員が内部へ固定されます」
クーが槍を回し、次の黒い根を薙ぎ払った。
「だから全部ぶっ潰してんだろ」
「正確には接続点のみの破壊です」
「似たようなもんだ」
「違います」
別方向では、月光を帯びた鎖が夜を走った。
メドゥーサ。
彼女は桜の前へ立ち、地面から噴き上がる願望火を鎖で縛り上げていた。
「サクラ。影の深度を上げすぎないでください」
桜は両手を胸元で重ね、足元へ広がる影を静かに制御する。
「はい」
炎は影へ沈む。
消えるのではない。
暗い土の中で、眠る。
「燃やす火にはしません」
桜は静かに告げた。
「ここなら、誰かを傷つけずに休めます」
メドゥーサの口元に、かすかな微笑が浮かぶ。
「ええ。あなたの影は、もう呑み込むだけの闇ではありません」
亀裂の上空では、虹色の軌跡が幾重にも走っていた。
ヒポグリフ。
世界の表側から外れた幻獣が、空間の境界を蹴り飛ばしながら飛翔する。
その背に立つアストルフォは、追いすがる黒い腕を槍で払いながら叫んだ。
「多すぎるってば! 願いってもっと、ひとつずつ大事にするものでしょ!」
黒い腕がヒポグリフへ迫る。
アストルフォは笑った。
「捕まえられるものなら、捕まえてみなよ!」
手綱が光る。
「世界の裏側まで、ひとっ飛びだ!」
幻馬の姿が一瞬だけ現実から消え、次の瞬間には黒い腕の背後へ抜けていた。
アストルフォは槍を振り下ろし、亀裂を固定している上空の杭を砕く。
さらに奥では、雷鳴と豪放な笑い声が響いた。
「道が閉じるというなら、閉じるより先に踏み越えればよい!」
イスカンダル。
神威の車輪が雷を纏い、黒い根の群れを轢き潰していく。
戦車の傍らで、ロード・エルメロイⅡ世が霊脈図を展開していた。
「ライダー! 亀裂の中心へ突撃するなと言っている! 今は三番支柱の維持が先だ!」
「分かっておる!」
「分かっている者は、私の指定した方角と逆へ走らない!」
「敵が多い方が正面であろう!」
「術式に正面も背面もあるか!」
黒い根が戦車の車輪へ絡みつく。
エルメロイⅡ世が即座に杖を振り、地脈の流れを反転させた。
雷が術式の内部へ流れ込み、根を内側から焼き切る。
イスカンダルは満足そうに笑う。
「さすがは我が臣下よ!」
「臣下ではない!」
亀裂の別の縁には、リチャード一世が立っていた。
剣を裂け目へ突き立て、その光で崩れかけた通路を支えている。
「道があるなら進む。物語が続きを求めるなら、最後の頁まで剣を振るう。それが王というものだろう!」
ギルガメッシュが鼻を鳴らした。
「雑種の王が、勝手に王の定義を語るな」
「では、英雄王の定義もいずれ聞かせてもらいたい!」
「貴様に語る価値があればな」
その傍らで、エルキドゥが空へ両手を伸ばした。
緑の鎖が幾重にも広がり、暴れる亀裂の縁を縫い止めていく。
「神杯核が到達を認めた」
エルキドゥは静かに言った。
「外縁を支えていた僕たちにも、炉心へ進むための道が開き始めている」
アルトリアが聖剣の柄へ手を添える。
「ここまで彼らが支えてくれたからこそ、私たちは白き器へ辿り着くことができた」
さらに外側。
グレイは、山の翁の傍らに立っていた。
亀裂から灰色の炎が漏れ出している。
死者の願い。
既に終わった命を、もう一度願望燃焼炉へ引き戻そうとする残響。
グレイはロンゴミニアドを抱え、唇を噛んだ。
「眠っていたはずの人たちまで……」
山の翁が大剣を静かに地面へ下ろす。
重い音が響いた。
それだけで灰色の炎が止まる。
「鐘はまだ鳴らぬ」
髑髏の仮面の奥から、深い声が響く。
「眠れる死者を炉へ戻すは、死への冒涜。終えた者より終わりを奪うこと、許されぬ」
灰色の炎は、その声を恐れるように道を空けた。
だが、亀裂はそれでも閉じようとする。
裂け目の中央で、黒い根が互いに捻れ始めた。
一本。
十本。
百本。
絡まり合った根は、やがて巨大な螺旋の杭へ変わる。
その切っ先が狙ったのは、亀裂の入口ではない。
白い少女だった。
原初願望の持ち主。
彼女を再び炉へ呑み込み、開かれた道ごと閉ざすつもりなのだ。
アルターエゴが警告する。
「高密度願望杭、形成。原初願望との再結合を目的とした攻撃と推定」
イリヤが少女を庇うように前へ出る。
「させない!」
黒い螺旋杭が放たれた。
アルトリアが聖剣を抜こうとする。
ギルガメッシュの門が開く。
メディアが防壁術式を編む。
だが、そのどれよりも早く、アーチャーが一歩前へ出た。
左腕を掲げる。
「下がれ」
魔力が収束する。
赤い外套が、大気の圧力に大きくはためいた。
「投影開始」
空間に、一枚の花弁が生まれる。
続いて二枚。
三枚。
四枚。
五枚。
六枚。
七枚。
紫色に輝く七枚の花弁が重なり、白い少女とイリヤ、その背後にいる全員を覆う巨大な盾へ変わった。
「熾天覆う七つの円環――ロー・アイアス!」
アーチャーの声が、黒い夜へ響く。
螺旋杭が、第一の花弁へ激突した。
轟音。
紫色の光が弾ける。
第一層が砕けた。
第二層。
第三層。
願いを束ねた杭は、ただの投擲ではない。
捨てられた願い。
変えられなかった願い。
叶わなかった願い。
それらを一本の攻撃へ押し固めた、歪んだ投槍。
ロー・アイアスは、一枚ずつ花弁を失いながら、それを受け止めていく。
アーチャーの腕から血が流れた。
士郎が叫ぶ。
「アーチャー!」
「前を見ろ」
第四層が砕ける。
「盾とは、壊れぬものではない」
第五層。
「守るべきものが退く時間を作るものだ」
第六層に亀裂が入る。
白い少女が、アーチャーの背中を見つめていた。
「どうして……」
アーチャーは振り返らない。
「理由が必要か?」
最後の第七層へ、黒い杭が食い込む。
花弁が大きく歪む。
「守りたいと思った者がいる。それだけで、盾を出すには十分だ」
七枚目が砕ける直前。
アーチャーは右手を開いた。
一本の剣が投影される。
刀身が大きく捻れた、奇怪な螺旋剣。
それを弓へ番える。
士郎は息を呑んだ。
「それは……」
「本物ではない」
アーチャーは弦を引き絞る。
「だが、この場では本物以上に都合がいい」
螺旋剣へ魔力が注ぎ込まれる。
剣として使うのではない。
矢として放つ。
投影した宝具を、限界を超えて励起させる。
一撃の後に崩壊することを前提とした、贋作者の破壊術。
「偽・螺旋剣――カラドボルグII」
螺旋の刀身が、赤い光を帯びる。
黒い杭と、アーチャーの螺旋剣。
二つの螺旋が、互いを見据える。
弦が放たれた。
赤い流星が、ロー・アイアスの最後の花弁をすり抜ける。
黒い螺旋杭の中心へ、真っ向から突き刺さる。
一瞬の静寂。
アーチャーが小さく告げた。
「壊れた幻想――ブロークン・ファンタズム」
爆発した。
赤と黒の螺旋が、互いを抉りながら崩壊する。
ただ爆風を撒き散らすのではない。
螺旋する刃が、願望杭を構成する術式の層を一枚ずつ穿ち、内側へ潜り込み、中心だけを破壊する。
外へ逃げようとした願望火は、砕けかけたロー・アイアスの最後の花弁が受け止めた。
穿つ剣。
守る盾。
二つが同時に役割を果たしたことで、黒い杭は白い少女へ届くことなく消滅した。
最後の花弁が光の粒へ変わる。
アーチャーは膝をつきかけた。
士郎が肩を支える。
「無茶しすぎだ」
「お前にだけは言われたくない」
「今の、あとで俺にも教えろ」
「断る」
「何でだよ」
「お前は威力を抑えるという発想を持たない」
凛が険しい顔で二人へ近づく。
「どっちも大概よ。炉心に入る前から魔力を使いすぎ!」
アーチャーは砕けたロー・アイアスの光を見た。
「必要な出費だ」
士郎も、黒い杭が消えた空間を見つめる。
螺旋剣は中心を穿った。
七枚の盾は、周囲の願いを守った。
壊すだけでは届かない。
守るだけでも終わらない。
穿ち。
受け止める。
その両方がなければ、願いを炉から切り離すことはできない。
士郎は無意識に、自分の贋作の剣を見た。
この剣にも、足りないものがある。
ただ斬るのではなく。
斬った後に零れるものを受け止める仕組み。
アーチャーは士郎の視線に気づいた。
「見ていたか」
「ああ」
「なら覚えておけ」
「何を?」
「剣を届かせることと、その剣で生まれる結果を守ることは、別の仕事だ」
アーチャーは立ち上がる。
「両方を果たせない攻撃は、ただの破壊だ」
士郎は答えなかった。
だが、その言葉は贋作の剣より深く、内側へ刻まれた。
彼らは突然、この場所へ現れたのではない。
神杯核への道を開くため、外側で戦い続けていた。
冬木へ逆流する残滓を押し留め。
退路を維持し。
崩れ落ちる霊脈を繋ぎ。
神杯が現世へ根を下ろすことを防ぎ続けていた。
そして今。
炉心が彼らの到達を認めた。
亀裂の外側にいた者たちの足元へ、白と黒の道が伸びる。
クーが槍を肩へ担いだ。
「ようやく中へ入れるってわけか」
バゼットが答える。
「外縁維持班をすべて突入させるのは、戦術的には推奨できません」
「お前も行く顔してるけどな」
「当然です」
アストルフォがヒポグリフから身を乗り出す。
「ボクも行く! ここまで来てお留守番なんて絶対嫌だからね!」
エルメロイⅡ世は胃を押さえるような顔をした。
「全員を炉心内部へ入れるなど、魔力効率だけで考えれば悪夢だ」
イスカンダルが笑う。
「ならば、悪夢を征服するぞ!」
「問題を増やすな!」
ジャンヌが静かに旗を握った。
「ですが、願いの炉心は力だけでは止まりません。異なる答えを持つ者たちが必要です」
ランスロットが黒剣を構える。
「ならば、我が罪も剣も、そのために」
メディアは全員の霊基を素早く見渡した。
「神杯核へ入れば、全員が自分の願いへ干渉される。過去も、後悔も、失ったものも見せられるでしょう」
誰も退かなかった。
士郎は周囲を見渡した。
アルトリア。
凛。
アーチャー。
イリヤ。
ジャンヌ。
メディア。
ギルガメッシュ。
エルキドゥ。
ランスロット。
クー・フーリン。
バゼット。
桜。
メドゥーサ。
リチャード一世。
イスカンダル。
エルメロイⅡ世。
アストルフォ。
グレイ。
山の翁。
アルターエゴ。
そして、白い少女。
ここにいない神格たちの力も、亀裂を支えている。
デメテルの黄金の根が、裂けた空を大地へ繋ぎ止める。
セレーネの月光が、黒い道の輪郭を照らす。
アポロンの太陽光が、願望火に混じった虚偽を焼く。
アルテミスの矢羽が、神杯の追跡術式を逸らす。
ポセイドンの潮流が、亀裂を通路に変える。
アテナの智慧の羽根が、彼らの記憶を改竄から守る。
ハデスの鐘が、死者の願いを炉へ戻さぬよう、遠く静かに響いている。
ここまでの戦いで得たすべてが、一本の道へ繋がっていた。
士郎は贋作の剣を握り直した。
「行こう」
誰も異論を唱えなかった。
黒と白の亀裂へ。
彼らは同時に踏み込んだ。
◆
神杯核の内部は、炎の海だった。
だが、熱くない。
むしろ寒い。
骨の内側へ染み込むような冷気が満ちている。
無数の願いが燃えているのに、その火には温度がない。
光だけがある。
声だけがある。
形になれなかった祈りだけが、揺れている。
足元には、白い石とも黒い灰ともつかない道が続いていた。
左右には無数の小さな炎。
ひとつひとつが願いだった。
母に会いたい。
謝りたい。
もう一度だけ笑いたい。
帰りたい。
忘れられたくない。
強くなりたい。
許されたい。
守りたい。
眠りたい。
生きたい。
小さな願いもあった。
明日の朝も目を覚ましたい。
好きな人に名前を呼んでほしい。
一度でいいから、自分で作った料理を美味しいと言ってほしい。
誰かと同じ食卓を囲みたい。
一人ではないと信じたい。
大きな願いもあった。
国を救いたい。
世界を変えたい。
神へ届きたい。
あらゆる死を終わらせたい。
誰も泣かない明日を作りたい。
神杯は、それらを区別しない。
善も悪もない。
大きさも小ささもない。
生者の願いも、死者の願いもない。
英雄の悔恨も、神の未練も、子どもの祈りも同じ。
燃えるか。
燃料になるか。
ただ、それだけだった。
ジャンヌは旗を胸元へ抱き寄せた。
「祈りが……」
声が掠れる。
「どうして、こんな形に」
ギルガメッシュは、炎のひとつを見て不快そうに目を細めた。
「宝を宝として扱うだけの知性もない。所有者の名も、願った意味も削り、ただ熱量として積み上げる」
黄金の瞳に冷たい怒りが浮かぶ。
「これは蔵ではない。宝を呑み込むだけの下劣な炉だ」
エルキドゥは、小さく揺れる炎へ視線を向けた。
「でも、炎になる前の願いは本物だ」
炎の中から、帰りたいという微かな声が漏れる。
「だから、壊すだけじゃ駄目だね」
アルターエゴの瞳に、炉心の構造が展開される。
「願望燃焼炉、多重積層構造を確認。第一層から第九層までは、願望の個体識別が可能。第十層以降、所有者情報が急速に欠落しています」
凛が聞き返す。
「奥に行けば行くほど、誰の願いだったか分からなくなる?」
「肯定。最終炉心において願望は名前、記憶、対象を失い、純粋な衝動へ変換されています」
士郎は息を呑んだ。
生きたい。
帰りたい。
助けたい。
終わりたい。
それすら、まだ言葉を持っている。
言葉になる前の衝動。
ただ求めるだけ。
ただ拒むだけ。
持ち主の存在しない、裸の願望。
メディアが杖を強く握った。
「急ぎなさい。長く留まるほど、私たち自身の願いも炉に引かれる」
エルメロイⅡ世も霊脈図を確認する。
「炉心は、侵入者の願望を解析している。既に全員の精神へ接続を試みているぞ」
その瞬間。
炎の海が、一斉に揺れた。
『到達を認める』
全員が足を止めた。
白い少女とよく似た声。
しかし、そこには温度がない。
幼さもない。
迷いもない。
ただ命令を読み上げるためだけに存在する、空虚な声。
『神杯核への到達を認める』
道の先で、炎が盛り上がる。
巨大な杯の影が浮かんだ。
黒い杯。
その表面には、無数の顔がある。
泣く顔。
笑う顔。
怒る顔。
苦しむ顔。
祈る顔。
諦めた顔。
誰かを求める顔。
それらが重なり、潰れ、混ざり合い、ひとつの器を作っている。
『願いを提示せよ』
凛が睨みつけた。
「私たちの願いを叶えるつもり?」
『肯定』
杯が答える。
『到達者には、願いを叶える権利が与えられる』
士郎は贋作の剣を構えた。
「俺たちは、願いを叶えてもらいに来たんじゃない」
『否定』
黒い杯が震える。
『すべての存在は、願いによって行動する』
周囲の炎が、彼らへ手を伸ばす。
『願いのない行動は存在しない』
次の瞬間。
世界が変わった。
◆
士郎の前に、赤い空が広がった。
かつての冬木。
大火災の夜。
けれど、炎に焼かれている者はいない。
倒れている者もいない。
泣き叫ぶ声もない。
誰も助けを求めていない。
人々は家族と手を取り合い、燃える街から無事に逃げていく。
切嗣がいた。
煤に汚れていない顔で笑っている。
その隣には、アイリスフィールがいる。
イリヤがいる。
誰も失われていない。
誰も壊れていない。
『救いたかったのだろう』
神杯が囁く。
『ならば、救われた過去を与えよう』
士郎の手が震えた。
分かっている。
これは偽物だ。
起きたことを消して作られた、都合のいい幻。
それでも。
胸が痛かった。
見たかった。
ずっと、見たかった景色だった。
自分が生き残るために、誰かが倒れる必要のなかった世界。
切嗣が、救えなかったものに潰されずに済んだ世界。
「士郎」
幻の切嗣が呼ぶ。
「もう、誰かを救わなくていい」
その声は優しかった。
だからこそ、残酷だった。
イリヤの前には、雪の城があった。
白い庭。
暖炉の灯る部屋。
切嗣がいる。
アイリスフィールがいる。
ヘラクレスもいる。
幼いイリヤは両親の間で笑っていた。
置いていかれない。
待ち続けなくていい。
憎まなくていい。
『欲しかったのだろう』
神杯が囁く。
『失われなかった家族を与えよう』
イリヤの瞳から涙が溢れた。
「……ずるい」
声が震える。
「それは、ずるいよ」
凛の前には、幼い姉妹がいた。
遠坂の家で、凛と桜が並んで笑っている。
引き離されなかった。
暗い地下へ送られなかった。
姉が妹を知らないふりをする必要もなかった。
桜の前には、虫も、闇も、苦痛もない幼少期があった。
普通の少女として笑う自分がいる。
メドゥーサの前には、怪物と呼ばれなかった自分がいた。
姉たちと共に暮らし、誰にも恐れられず、誰も傷つけずに済んだ日々。
アルトリアの前には、滅びなかった国があった。
カムランは訪れない。
円卓は割れない。
民は笑い、騎士たちは王のもとへ集い続ける。
ランスロットは裏切らない。
モードレッドは憎悪に沈まない。
王は孤独にならない。
ランスロットの前には、罪を犯さなかった騎士がいた。
敬愛する王へ、曇りのない忠誠だけを捧げている。
ジャンヌの前には、戦場へ立たずに済んだ少女がいた。
故郷の村で、家族と共に静かな一生を送っている。
炎も、裁判も、処刑台もない。
アーチャーの前には、後悔しなかった未来があった。
誰かを救うたび、別の誰かを切り捨てる必要のなかった世界。
正義の味方という理想が、誰も傷つけないまま成就した未来。
クー・フーリンの前には、定められた死へ追い込まれなかった戦場があった。
誓約にも、策略にも縛られず、最後まで己の望む戦いを貫く英雄。
バゼットの前には、奪われなかった契約があった。
背後から裏切られることもなく、戦う権利も未来も奪われなかった自分。
ギルガメッシュの前には、友を失わなかったウルクがあった。
エルキドゥが隣にいる。
王は孤独を知る必要がない。
都は滅びず、民は永遠に王を讃える。
エルキドゥの前には、神々の道具として造られなかった自分がいた。
初めから自由で。
初めから人を知り。
別れを知らずに済んだ存在。
イスカンダルの前には、敗北のない征服があった。
軍勢はどこまでも続き、誰も倒れず、世界の果てへ辿り着いている。
エルメロイⅡ世の前には、少年のまま王の隣に立ち続ける自分がいた。
何も失わない。
背負わない。
教える者にならなくていい。
ただ憧れだけを抱き、王の背中を追い続けられる。
アストルフォの前には、迷わない自分がいた。
失敗せず。
間違えず。
誰かを困らせることもなく、常に正しい道を選べる騎士。
リチャードの前には、傷のない英雄譚があった。
誰からも疑われず、挫折せず、物語の中の王として永遠に輝き続ける自分。
グレイの前には、自分の顔を恐れる必要のなかった少女がいた。
誰かの器として育てられず。
故郷を追われず。
普通の名前と、普通の未来を持っている。
白い少女の前には、器ではなかった自分がいた。
小さな家。
柔らかな朝日。
誰かが少女の名前を呼んでいる。
普通に食事をして。
普通に笑って。
普通に泣いて。
普通に明日を待つ少女。
その少女には名前があった。
だが、神杯はその部分だけを聞かせなかった。
白い少女は手を伸ばす。
「欲しい」
初めて、自分から欲しいと口にした。
「私、これが欲しかった」
イリヤは少女の手を握った。
「うん」
否定しなかった。
「欲しかったよね」
白い少女は泣きながら尋ねた。
「でも、これを選んだら……今の私はどうなるの?」
イリヤは答えられなかった。
士郎も、すぐには答えられない。
それらは、偽物であると切り捨てるには、あまりにも本物の願いだった。
失わなかった家族。
滅びなかった国。
犯さなかった罪。
苦しまなかった少女。
後悔しなかった未来。
欲しくないはずがない。
誰だって戻りたい。
やり直したい。
救えなかった誰かを、今度こそ救いたい。
士郎は目を閉じた。
切嗣の声が蘇る。
自分の答えを選びなさい。
イリヤの声が蘇る。
私は、生きるから。
桜の声が蘇る。
影も、私です。
アルターエゴの声が蘇る。
未完成のままでも、私でいたい。
そして。
先ほどのアーチャーの言葉が蘇る。
剣を届かせることと、その剣で生まれる結果を守ることは、別の仕事だ。
士郎は目を開けた。
「それは、願いじゃない」
幻の切嗣が笑みを消す。
神杯が問う。
『なぜ』
「願いの形をした命令だ」
士郎は一歩前へ出た。
「叶える代わりに、今まで生きてきた俺たちを消そうとしてる」
『苦しみを消去する』
「苦しみだけじゃない」
士郎は剣を握り締めた。
「ここまで来た全部を消すんだ」
イリヤが涙を拭った。
「家族がいる過去は欲しいよ」
雪の城を見ながら、震える声で続ける。
「切嗣に置いていかれなくて、お母様と一緒に暮らして、バーサーカーもずっと隣にいる。そんな世界、欲しくないわけない」
幻の切嗣が手を伸ばす。
イリヤは、その手を見つめた。
「でも、それで今の私が消えるなら嫌」
雪の庭へ亀裂が入った。
「お兄ちゃんにおはようって言った私も、切嗣に怒った私も、卵焼きを失敗した私も、生きたいって言った私も」
イリヤは士郎の隣へ立った。
「全部なかったことになるなら、そんな願いはいらない」
凛も拳を握る。
「桜と別れなかった過去なんて、欲しくないわけないじゃない」
桜が姉を見る。
凛は涙を堪えながら続けた。
「私がもっと早く手を伸ばしていればって、何度思ったか分からない。でも、あの過去を消すために、今の桜の怒りも、強さも、選んだ未来も消すなら、それは救いじゃない」
桜は静かに頷いた。
「私も、暗い地下のない過去を見たいです」
メドゥーサが傍らへ立つ。
「一度だけでも、普通だった私を知りたい」
桜は自分の影へ視線を落とす。
「でも、今ここにいる私を消してまで欲しいわけではありません。怖かった私も、憎んだ私も、先輩を好きになった私も、全部私です」
メドゥーサは幻の姉たちを見つめた。
「怪物にならなかった私を、美しいと思う気持ちはあります」
鎖を握る手へ力が籠もる。
「ですが、怪物と呼ばれた私がサクラを守ることを選んだ。その選択を奪う権利は、神にも杯にもありません」
アルトリアは、滅びなかった国を見つめていた。
眩しい。
あまりにも眩しい。
生涯を懸け、死後さえ求め続けた景色。
「私は、その願いを捨てたわけではありません」
聖剣の柄へ手を添える。
「国を救いたかった。その思いは今も消えてはいない」
ランスロットが彼女の前へ跪く。
アルトリアは静かに首を振った。
「ですが、過去を消すことでのみ救われる国は、私の国ではない」
幻の円卓に亀裂が入る。
「滅びを受け入れることは、過ちを肯定することではありません。過ちから目を背けず、その先を選ぶことです」
ランスロットは黒剣を握った。
「罪を犯さなかった私がいるなら、会ってみたいと願います」
苦しげに、それでも確かな声で続ける。
「しかし、罪を抱えた今の私が、再び王のために剣を取ることを選んだ。その忠誠まで偽物にはしたくない」
アーチャーは、後悔しなかった未来を見て苦く笑った。
「実に魅力的だ」
士郎が彼を見る。
「喉から手が出るほどにな」
幻の中では、理想を貫いた男が誰にも憎まれず、誰も殺さず、笑っていた。
「だが、そんな未来を与えられても、それは私ではない」
アーチャーは幻へ背を向ける。
「後悔は消えん。私の選択が正しかったとも言わん」
赤い外套が翻る。
「だが、後悔だけではなかったと知ったばかりだ。それを今さら、都合のいい結末と取り替える気はない」
ジャンヌは、故郷の少女を見つめた。
「祈りが苦しみから生まれることはあります」
旗を抱き締める。
「ですが、祈りは苦しみをなかったことにするためだけにあるのではありません。苦しみの中でも、人が誰かを思えた証です」
クー・フーリンは、自由な戦場の幻に笑った。
「そいつは悪くねえ」
赤い槍を肩へ乗せる。
「誓約も策略もなく、好きなだけ戦って、好きなように死ぬ。確かに理想的だ」
幻の自分が槍を掲げる。
クーはその姿を見て、鼻で笑った。
「だが、決められた死に方をしたからって、俺の戦いまで偽物になるわけじゃねえ」
バゼットが隣で拳を握る。
「未練がないと言えば、嘘になります」
奪われなかった自分を見つめる。
「ですが、奪われた過去だけが私ではありません。返す一撃を待つだけではなく、今この瞬間、自分から前へ出ることを選んだ私もいる」
クーが笑う。
「いい答えだ」
イスカンダルは、終わらない遠征を前に豪快に笑った。
「敗北なく、誰も欠けず、果てまで征くか!」
王の軍勢が歓声を上げている。
「素晴らしい! だが、つまらぬ!」
神杯の炎が揺れる。
「果てがあるからこそ、彼方を望む! 別れがあるからこそ、共に駆ける一瞬が宝となる! 終わらぬ遠征など、征服ではなく停滞よ!」
エルメロイⅡ世は、少年の自分と王を見ていた。
何も背負わなくていい世界。
失敗を教訓に変えなくていい世界。
誰かを導く責任もない。
「戻りたいと思わないわけではない」
苦い息を吐く。
「だが、戻れば私は、あの戦いの後に出会った者たちを失う」
グレイが師を見る。
「私が背負ってきたものも、教えたものも、教えられたものも消える」
イスカンダルが満足げに笑う。
「よく言った、我が臣よ!」
「だから臣下扱いはやめろ!」
アストルフォは、常に正しい自分の幻を見て首を傾げていた。
「間違えなくて、迷わなくて、いつも賢くて……」
少し考え、ぱっと笑う。
「うん、ボクじゃない!」
幻が揺らぐ。
「迷って、転んで、たまに失敗して、それでも楽しい方へ飛んでいくからボクなんだよ!」
リチャードは、完璧な英雄譚を眺めていた。
「傷がなく、敗北もなく、疑われることもない王か」
剣を肩へ担ぐ。
「だが、傷のない物語は誰の心にも残らない。語り継がれるのは、傷ついてなお立ち上がった者の話だ」
グレイは、普通の少女の幻を見つめる。
「この私も、きっと幸せなのでしょう」
アッドを抱き締める。
「でも、今の私が出会った師匠や皆さんまで、いなかったことにはしたくありません」
山の翁の前には、幻が現れなかった。
彼は黒い杯だけを見ている。
「人は終わりを知る。ゆえに願う」
大剣を持ち上げる。
「終わりを奪い、願いを永久に固定することは、生を奪うことに等しい」
ギルガメッシュは、友を失わなかったウルクを見ていた。
一瞬だけ。
黄金の王から、すべての傲慢が消えた。
エルキドゥも、同じ景色を見ている。
二人が並び。
都があり。
別れが訪れない。
ギルガメッシュは目を閉じた。
そして、笑った。
悲しみを隠さない、不遜な笑みだった。
「愚かな杯よ」
乖離剣の柄へ手をかける。
「我の宝を、偽物で飾るな」
エルキドゥが穏やかに言う。
「悲しいけれど、失ったことも僕たちの本当だ」
アルターエゴの前には、完成された自分がいた。
迷わない。
欠けていない。
機能として完璧で、未定領域を持たない自分。
アルターエゴは静かに首を横へ振った。
「私は未定を選択しました」
完成された幻へ告げる。
「完成済みの私は、現在の私ではありません」
白い少女は涙を流し続けていた。
「じゃあ、私の願いはどうなるの?」
士郎は贋作の剣を握った。
「これから作る」
「作る?」
「過去を作り直すんじゃない」
士郎は少女を見る。
「これから先、お前が自分で願うんだ」
「これから……」
「名前も、やりたいことも、好きなものも、嫌いなものも」
イリヤが笑った。
「全部これから決めればいい」
アルターエゴが小さく呟く。
「未定領域」
白い少女は、涙を拭った。
「私にも、ある?」
「あるよ」
イリヤは即答した。
「誰にだってある」
少女はゆっくり頷いた。
「うん」
その瞬間。
すべての幻へ亀裂が走った。
赤い空が砕ける。
雪の城が崩れる。
滅びなかった国が光の粒へ変わる。
後悔しなかった未来が消えていく。
神杯の声が初めて、怒りを帯びた。
『なぜ拒む』
炎の海が黒く染まる。
『願いを叶える』
無数の声が重なる。
『苦しみを消去する』
『失ったものを戻す』
『正しい過去を構築する』
『なぜ拒む』
士郎は剣を構えた。
「それは、今を燃やして作る願いだからだ」
神杯が震える。
「俺たちは――」
士郎は黒い杯を睨んだ。
「今を、燃料にはしない」
◆
願いの炉心が、怒りを持った。
炎の海が空まで持ち上がる。
無数の手。
無数の口。
無数の瞳。
無数の糸。
誰かへ伸ばされた手が、他者を縛る腕へ変わる。
助けを求めた口が、願いを強制する牙へ変わる。
願いの怪物。
神杯炉心そのもの。
『叶えろ』
『戻せ』
『消すな』
『忘れるな』
『保存しろ』
『燃やせ』
『変えるな』
『永遠に固定せよ』
凛が宝石を構えた。
「来るわよ!」
メディアが杖を掲げる。
「力任せに炉を壊せば、中の願いがすべて逆流する! 外殻を削り、十三の支点を露出させ、願いと燃焼機構の接続だけを切るのよ!」
クーが槍を回す。
「相変わらず注文の多い敵だな!」
バゼットが構える。
「精密さを失えば、勝利しても意味がありません」
「分かってるよ!」
最初に前へ出たのは、アルトリアだった。
金色の髪が、黒い炎の中で輝く。
無数の腕が襲いかかる。
アルトリアは風王結界を解いた。
圧縮された風が爆ぜ、願望糸を弾き飛ばす。
その手に現れたのは、星に鍛えられた聖剣。
「願いを燃やす夜に、道を失う者がいるのなら――」
黄金の光が刀身へ集う。
「この光で、夜明けへの道を開きます」
聖剣を振り上げる。
「約束された勝利の剣――エクスカリバー!」
世界が光に満ち。
黄金の奔流が、願いの怪物を正面から貫いた。
ただ破壊する光ではない。
闇の中に、進むべき一本の道を刻む光。
黒い炎が左右へ割れ、怪物の胸部に巨大な傷が走る。
しかし、炉心は即座に無数の糸を伸ばし、傷口を塞ごうとする。
ギルガメッシュが笑った。
「我の前で、閉ざすことを語るか」
背後の空間が黄金に染まる。
門が開く。
十。
百。
千。
万。
無数の宝具が星のように展開される。
剣。
槍。
盾。
斧。
鎖。
鏡。
船。
碑文。
名を失った原典。
英雄たちが手にするより遥か以前から、王の蔵へ収められていた宝の数々。
「開け、王の財宝――ゲート・オブ・バビロン」
黄金の門が、一斉に牙を剥く。
宝具の豪雨が降り注いだ。
神杯の無数の手を撃ち抜く。
黒い糸を断ち切る。
外殻へ亀裂を刻み、アルトリアの開いた道をさらに広げる。
炉心から巨大な腕が伸び、宝具群を呑み込もうとする。
エルキドゥが両手を広げた。
「君の宝を勝手に奪わせるわけにはいかないね」
緑の鎖が、炎の海から噴き上がる。
天の鎖。
神性を帯びた存在を強く縛る、神々の楔。
「繋ぎ止めよう」
鎖が巨大な腕へ絡みつく。
「天の鎖――エルキドゥ」
神杯は神ではない。
だが、無数の神格と願望を炉へ取り込んだ結果、歪な神性を帯びている。
その神性が、鎖を強固にする。
怪物の動きが止まった。
ランスロットが駆ける。
手にした黒剣アロンダイトが、聖剣の光を受けて輝いた。
「我が罪」
一閃。
「我が悔恨」
二閃。
「そして、今も捨てきれぬ忠誠」
黒い炎が切り裂かれる。
「縛鎖全断・過重湖光――アロンダイト・オーバーロード!」
湖光が爆発した。
アルトリアの開いた道を塞ごうとしていた巨大な腕が、内側から砕ける。
ランスロットは振り返らない。
ただ王へ告げる。
「道を、王よ」
アルトリアは頷いた。
「感謝します、我が騎士」
リチャード一世が笑い、二人の横を駆け抜けた。
「聖剣の光に、湖の騎士の剣! ならば、獅子心王も一節を加えよう!」
手にした剣へ、彼が愛した数多の伝説が集う。
本物の聖剣ではない。
神造兵装でもない。
だが、憧れと物語を束ね、一瞬だけ聖剣の輝きを再現する王の一撃。
「遥かなる英雄譚よ!」
白銀の光が刀身を覆う。
「我が手に集い、勝利への道を示せ!」
リチャードは剣を振り下ろした。
「永久に遠き勝利の剣――エクスカリバー!」
白銀の極光が黒い糸の群れを薙ぎ払う。
本物と同じではない。
だからこそ、それはリチャード自身の光だった。
偽物であることを恥じず、憧れを力へ変える一閃。
神杯が叫ぶ。
『贋作』
リチャードは笑った。
「物語は受け継がれるものだ!」
イスカンダルが轟くように笑う。
「よい! 王どもが道を開くならば、余はその道を軍勢で踏破する!」
炎の海に砂塵が舞った。
世界が塗り替えられる。
乾いた大地。
青い空。
果てへ続く地平線。
かつて王と共に駆けた者たちが、再び姿を現す。
王の軍勢。
主従の契約ではない。
願いを同じくした者たちとの、永遠の絆。
イスカンダルは剣を掲げた。
「集え、我が同胞!」
軍勢が鬨の声を上げる。
「敵は願いを燃やし、過去を餌に今を奪う炉!」
戦士たちが武器を掲げる。
「ならば示せ! 我らが共に駆けた一瞬は、永遠に固定されずとも消えはしないと!」
王の剣が振り下ろされる。
「王の軍勢――アイオニオン・ヘタイロイ!」
軍勢が突撃した。
願望火の中を。
終わりを知る者たちが、終わらぬ炉へ向かって駆け抜ける。
エルメロイⅡ世は固有結界の端へ術式を接続した。
「全隊、私が示す線から外れるな! 願望火へ直接触れれば、記憶を抜かれるぞ!」
イスカンダルが笑いながら振り返る。
「余の軍勢を指揮するとは、偉くなったものだな!」
「誰のせいでこうなったと思っている!」
霊脈図が光る。
軍勢の足元へ、安全な道が刻まれる。
「前方右、第七支点! 三秒後に位相がずれる!」
「聞いたか者ども! 三秒以内に踏み砕け!」
歓声と共に、軍勢が第七支点へ殺到する。
巨大な杭が砕けた。
アストルフォがヒポグリフと共に空へ舞い上がる。
「みんな地上ばっかり見てるけど、上にもいっぱいあるよ!」
黒い翼の群れが襲いかかる。
アストルフォは腰の角笛を掲げた。
「うるさいのは、ボクも得意だからね!」
大きく息を吸う。
「恐慌呼び起こせし魔笛――ラ・ブラック・ルナ!」
角笛から放たれた衝撃が、空を覆う黒い翼を吹き散らした。
続けて、ヒポグリフの手綱を強く握る。
「境界なんて、飛び越えちゃえ!」
虹色の光が幻馬を包む。
「この世ならざる幻馬――ヒポグリフ!」
現実と幻想の境界を越え、黒い炎を無視して上空の支点へ迫る。
ヒポグリフが蹄を叩き込む。
空の支点が砕け落ちた。
ジャンヌが旗を掲げる。
炉心から放たれた願望火が、軍勢と英霊たちを一斉に呑み込もうとしていた。
「祈りよ」
白い旗が光を放つ。
「誰かを裁くためではなく、今を選ぶ者たちを守る盾となってください」
神聖な光が全員を包む。
「我が神はここにありて――リュミノジテ・エテルネッル!」
絶対防御の輝きが、黒い奔流を正面から受け止める。
旗が軋む。
ジャンヌの腕が震える。
それでも退かない。
「願いは、他者を縛るための命令ではありません!」
黒い奔流が左右へ逸れる。
その隙を縫い、アーチャーが後方へ跳んだ。
弓を投影する。
炉心の左肩。
複数の支点が螺旋状の装甲に覆われ、通常の斬撃では内部へ届かない。
メディアが叫ぶ。
「第八支点は多層圧縮! 表面を壊しても、すぐ内殻へ逃げる!」
アーチャーは答えず、右手に再び螺旋剣を投影した。
偽・螺旋剣。
カラドボルグII。
だが、先ほどと同じ撃ち方ではない。
標的の背後には、無数の小さな願望火が漂っている。
そのまま撃てば、支点を破壊できたとしても、爆発に巻き込まれた願いが消えてしまう。
士郎は気づいた。
「後ろに願いがある」
「ああ」
アーチャーは螺旋剣を弓へ番えたまま、左手を標的の背後へ向ける。
投影の光が走る。
第八支点の向こう側。
願望火と装甲の間に、七枚の花弁が咲いた。
ロー・アイアス。
先ほどは攻撃を正面から受け止めた盾。
今度は、攻撃の反対側へ展開されている。
凛が目を見開く。
「爆発の受け皿にするつもり?」
「それだけではない」
アーチャーが弦を引く。
「外へ逃げる衝撃を盾で押し戻し、螺旋の中心へ収束させる」
エルメロイⅡ世が即座に理解した。
「爆圧を往復させるのか! 支点だけを内側から抉り、周辺の願いを盾で隔離する!」
「そういうことだ」
士郎は、二つの宝具を見つめた。
カラドボルグIIが穿つ。
ロー・アイアスが受け止める。
剣と盾は、別々の宝具ではない。
願いを壊さず、炉だけを壊すためのひとつの術式として噛み合っている。
アーチャーが告げる。
「穿て――偽・螺旋剣、カラドボルグII」
赤い螺旋が放たれた。
螺旋剣が第八支点へ突き刺さる。
アーチャーは目を細める。
「壊れた幻想――ブロークン・ファンタズム」
爆発。
支点の内部へ赤い螺旋が広がる。
爆風は背後へ抜けようとする。
だが、ロー・アイアスの七枚の花弁がそれを受け止め、押し返す。
一度。
二度。
三度。
盾と装甲の間で圧縮された破壊力が、支点の中心だけを繰り返し抉る。
外側の願望火は、花弁に守られたまま揺れている。
やがて、装甲の奥で小さな音がした。
第八支点が、外殻をほとんど散らすことなく内側から崩壊した。
ロー・アイアスが消える。
守られていた願望火は、その場に残った。
ひとつとして消えていない。
士郎は息を呑んだ。
「こんな使い方もできるのか」
アーチャーは弓を消した。
「宝具の逸話を再現するだけなら、投影屋で終わりだ」
士郎を見る。
「構造を知り、役割を組み替え、必要な結果を作る。それが贋作者の戦い方だ」
士郎の手の中で、名のない剣が微かに震えた。
剣だけではない。
守る場所まで投影する。
切り離した願いが零れ落ちる先まで作る。
その発想が、未完成の剣へ新しい意味を与えていく。
クー・フーリンが低く腰を落とした。
怪物の胸部。
無数の腕と宝具の光に隠されているが、一瞬だけ赤い核が見える。
メディアが叫んだ。
「第三支点! あれを破壊すれば、願望固定の因果が崩れる!」
クーが笑う。
「因果を壊せってんなら、俺向きだ」
赤い槍を逆手に持つ。
槍の周囲で因果が軋む。
刺すから心臓を貫くのではない。
心臓を貫いたという結果を先に確定し、その結果へ現実を従わせる魔槍。
クーは標的を睨んだ。
「その心臓――」
炉心が無数の盾を生み出す。
クーは構わず踏み込んだ。
「貰い受ける!」
赤い閃光。
「刺し穿つ死棘の槍――ゲイ・ボルク!」
槍が放たれる。
盾を避けたのではない。
距離を越えたのでもない。
既に刺さっているという結果が、炉心へ押しつけられた。
赤い支点の中心から、魔槍の穂先が現れる。
神杯が絶叫した。
第三支点が弾け飛ぶ。
クーは槍を引き抜き、にやりと笑った。
「願いに心臓があるかは知らねえが、核があるなら同じことだ」
神杯が怒りに任せて、黒い槍を生成する。
それはクーの一撃を模倣した反撃。
因果逆転の呪いが、バゼットへ向けて放たれる。
バゼットは退かなかった。
左腕の礼装が光る。
「後より出でて、先に断つもの」
赤い光が収束する。
神杯の槍が放たれた瞬間。
バゼットの宝具が起動した。
「斬り抉る戦神の剣――フラガラック!」
光が遡る。
黒い槍が放たれるより先に、その発動者である炉心へ結果を返す。
願望固定術式が、起動前の状態で切断された。
バゼットは拳を下ろす。
「過去から返される一撃ではありません」
静かに告げる。
「今を守るために、私が選んだ反撃です」
桜の影が広がった。
戦場から零れ落ちる小さな願望火を、ひとつずつ受け止める。
「大丈夫です」
誰に向けたものか分からない声。
「暗い場所でも、怖くないようにしますから」
メドゥーサが桜の前へ立つ。
怪物が生み出した巨大な眼球が、桜の影を燃料として吸い上げようとする。
メドゥーサは眼帯を外した。
宝石のような瞳が開く。
「見つめることしか知らないのなら」
石化の魔眼が輝く。
「そのまま、動きを止めなさい」
巨大な眼球と周囲の腕が、灰色に硬直した。
メドゥーサは天馬へ跨がる。
純白の翼が広がり、月光が手綱へ集う。
「サクラの影は、貴方の炉ではない」
天馬が嘶く。
「騎英の手綱――ベルレフォーン!」
白い流星が炎の海を駆け抜けた。
石化した眼球を正面から粉砕し、その奥に隠されていた第五支点を貫く。
桜は影を広げ、砕けた願望火を優しく受け止める。
「眠ってください」
炎は土へ変わる。
メディアは、その光景を横目に神代文字を展開した。
「凛! 十三支点の同期を反転させる! そちらで霊脈の位相を固定して!」
「命令しないで! もうやってる!」
凛の宝石が宙へ舞う。
赤。
青。
緑。
黄。
紫。
遠坂家が蓄積してきた魔力が、一斉に解放される。
「五大元素、同時展開!」
宝石が砕け、五色の奔流が願いの炉心へ走る。
メディアはその魔力へ神代術式を重ねた。
「こんな粗雑な願望術式を、魔術と呼ばせるものですか」
黒い杯から、無数の契約線が伸びている。
願いと炉を繋ぐ線。
願った者から所有権を奪う契約。
メディアは奇怪な形をした短剣を取り出した。
「契約を騙り、願いを奪ったすべての接続へ告げる」
短剣が紫色に輝く。
「破戒すべき全ての符――ルールブレイカー!」
メディアは術式の中心へ短剣を突き立てた。
願いと炉を繋ぐ契約線が、一斉に明滅する。
いくつもの線が切れた。
炎が種へ変わり、桜の影へ降りていく。
しかし、神杯は新たな契約を再構築しようとする。
凛が両手を合わせた。
「させない!」
五色の魔力が網となり、切断された線を炉心から遠ざける。
「士郎! その剣へ流すわ! あと三回以上は絶対に振るんじゃないわよ!」
「三回も振れるなら十分だ!」
「普通は一回で決めるの!」
「努力する!」
「絶対分かってない!」
山の翁は、燃え盛る戦場を静かに歩いていた。
神杯が、死者たちの願いを盾として集める。
もう一度会いたい。
死にたくなかった。
終わりたくない。
忘れられたくない。
灰色の炎が巨大な壁となる。
山の翁は大剣を振り上げた。
「死は終わりにあらず」
炎が震える。
「されど、終わりを奪われし魂に安息はない」
髑髏の仮面の奥で、青い光が灯る。
「その羽根、我が剣にて断つ」
大剣が死の気配を纏う。
「死告天使――アズライール」
一閃。
灰色の炎が斬られた。
願いが消えたのではない。
炉へ縛りつけていた永続性だけが、死を与えられた。
死者たちの願いは、静かな光へ変わる。
山の翁は告げる。
「眠るがよい。死は汝らを捨ててはいない」
グレイがアッドを掲げた。
「人格封印、解放」
アッドが変形する。
巨大な槍。
最果てにて輝く塔。
世界の表層を留める光。
グレイは師の背中を一度見た。
エルメロイⅡ世が頷く。
「やれ、グレイ!」
「はい!」
封印が一段階ずつ外れる。
「十三拘束、円卓議決開始」
光が集う。
完全な解放ではない。
それでも、死者の願いに出口を作るには十分だった。
「最果てにて輝ける槍――ロンゴミニアド!」
灰色の光が、山の翁の斬撃で開かれた道を貫く。
死者の願いが、炉心の外へ解き放たれていく。
それらは天へ消えるのではない。
誰かに叶えられるのでもない。
ただ、終わることを許される。
その時。
炉心の底から、巨大な咆哮が響いた。
イリヤが顔を上げる。
「バーサーカー……?」
神杯が、イリヤの願いを引きずり出していた。
家族と共にいたい。
守られたい。
置いていかれたくない。
その願いを炉へ固定し、巨大な黒い人影へ変える。
ヘラクレスの姿。
だが、違う。
神杯がイリヤの記憶から作った、願望の人形。
黒い巨人が斧剣を振り上げる。
イリヤは震えた。
「違う」
巨人が迫る。
「バーサーカーは、そんな顔しない」
黒い巨人の一撃が振り下ろされる。
その直前。
イリヤの胸元で、豊穣の種が光った。
神杯へ還らず。
座へも完全には戻らず。
イリヤとの縁の中に残っていた、ごく僅かな霊基。
白い光が少女を包む。
黒い巨人の斧剣を、別の巨大な手が受け止めた。
ヘラクレス。
本物の英雄が、ほんの一瞬だけ姿を現した。
肉体は半透明。
現界と呼べるほど強くない。
それでも、イリヤには分かった。
「バーサーカー!」
ヘラクレスは振り返らない。
ただ、黒い偽物と向かい合う。
神杯が生んだ巨人が咆哮する。
ヘラクレスもまた、大地を震わせるような声を上げた。
斧剣を構える。
一撃の中へ、九つの猛攻が重なる。
「■■■■■■■■――!」
人の言葉ではない咆哮。
それでも、宝具の名は確かに響いた。
「射殺す百頭――ナイン・ライブズ」
一瞬。
九つの斬撃が同時に走った。
黒い巨人が粉砕され、その背後に隠されていた第十一支点までもが打ち砕かれる。
ヘラクレスの姿が薄れていく。
イリヤは手を伸ばした。
「待って!」
英雄は振り返った。
言葉はない。
だが、その目は確かに告げていた。
守る。
生きろ。
帰ってこい。
イリヤは涙を流しながら頷いた。
「うん」
笑おうとして、少しだけ失敗する。
「帰ったら、卵焼き作るから」
ヘラクレスの霊基が、淡い光へ変わる。
その光は豊穣の種へ戻り、イリヤの胸元で静かに眠った。
「だから……待ってて」
炉心が、最後の防壁を形成する。
残る支点は二つ。
中心核。
そして、白い少女の最初の願いが刻まれた原初支点。
アーチャーが士郎の隣へ立った。
「ここから先は、お前一人では届かん」
士郎は頷いた。
「ああ」
アーチャーがわずかに驚く。
士郎は苦笑した。
「俺だって少しは学んだ。一人で全部救えるなんて思ってない」
「ならば、多少はマシになったな」
アーチャーは弓を消した。
両手を空へ向ける。
「炉心のすべてを塗り潰す必要はない。支点の構造を剣として解析し、届く道を作ればいい」
「二人で?」
「不満か」
「まさか」
士郎も贋作の剣を下ろし、左手を胸元へ添えた。
二人の魔術回路が軋む。
だが、神杯はそれを見逃さなかった。
最後の防壁から、数千の黒い槍が生成される。
固有結界を展開しようとする二人を先に貫き、心象世界そのものを燃料へ変えようとしている。
凛が叫んだ。
「士郎!」
アーチャーは詠唱へ入る前に、左手だけを前へ出した。
紫色の光が弾ける。
一枚。
二枚。
三枚。
七枚の花弁。
「ロー・アイアス」
巨大な盾が、士郎とアーチャーの前へ展開される。
黒い槍が降り注ぐ。
第一層へ無数の亀裂が走った。
アーチャーの表情が歪む。
固有結界の展開と、宝具級の盾の維持。
二つを同時に行えば、霊基そのものが削られる。
士郎が言う。
「俺が盾を持つ」
「まだ無理だ」
「構造なら見た!」
「見ただけだ」
第二層が砕ける。
「だが、投影は見ることから始まるんだろ!」
士郎は左手を伸ばした。
魔術回路が焼ける。
骨の中へ灼熱の棒を通されたような痛み。
それでも。
第一の工程。
創造の理念を鑑定する。
第二の工程。
基本となる骨子を想定する。
第三の工程。
構成された材質を複製する。
第四。
第五。
第六。
士郎の左腕の前へ、歪な花弁が一枚だけ現れた。
紫色ではない。
赤と白が混ざった、不安定な盾。
アーチャーが目を見開く。
「馬鹿が」
「一枚だけだ」
士郎は歯を食いしばる。
「一枚だけでも、お前の負担を減らせる」
黒い槍が、その未完成の花弁へ突き刺さる。
花弁はすぐに砕けた。
だが、一瞬だけ。
確かに一撃を止めた。
アーチャーは小さく笑った。
「酷い出来だ」
「知ってる」
「だが――」
第三層が割れる。
「今は、それでいい」
二人は並んだ。
背後では凛とメディアが魔力路を繋ぐ。
ジャンヌの旗が側面からの黒炎を防ぐ。
アルトリアとランスロットが、ロー・アイアスへ届く前の槍を斬り払う。
アストルフォとヒポグリフが上空の敵を引きつける。
イスカンダルの軍勢が、崩れる足場を支える。
ギルガメッシュの宝具群が、槍の発生源を次々と撃ち抜く。
エルキドゥの鎖が、黒い杯を逃がさない。
皆が作った時間。
皆が守った余白。
その中央で。
士郎とアーチャーは、自分たちの内側へ手を伸ばした。
士郎の内側にある風景。
アーチャーが生涯を懸けて鍛え上げた荒野。
同じ始まりから生まれ、異なる痛みを経てきた二つの心象世界が重なっていく。
アーチャーが静かに口を開いた。
士郎も、その言葉へ声を重ねた。
「――体は剣で出来ている」
炉心内部へ、赤い風が吹く。
ロー・アイアスの第四層が砕けた。
「血潮は鉄で心は硝子」
炎の海の上へ、錆びた歯車が浮かぶ。
第五層へ亀裂が走る。
「幾たびの戦場を越えて不敗」
黒い空に、巨大な歯車が回り始める。
「ただ一度の敗走もなく」
荒野が広がる。
第六層が砕けた。
最後の花弁だけが、二人の詠唱を守る。
「ただ一度の勝利もなし」
無数の剣が、地平線の果てまで突き立っていく。
黒い槍が最後の花弁を埋め尽くす。
「担い手はここに独り」
士郎とアーチャー。
二人の声が、ひとつになる。
「剣の丘で鉄を鍛つ」
最後の花弁が半ばまで裂ける。
アーチャーの腕が崩れ始める。
士郎の魔術回路も、限界へ近づく。
それでも詠唱は止まらない。
「ならば、我が生涯に意味は不要ず」
剣の墓場へ、ここまで得た答えが降り注ぐ。
黄金の根。
白銀の月影。
海の錨。
智慧の羽根。
死の鐘。
豊穣の種。
願いを眠らせる黒い土。
砕けかけたロー・アイアスの花弁。
穿つために投影されたカラドボルグIIの螺旋。
攻める剣。
守る盾。
どちらも贋作。
どちらも、本物と同じではない。
それでも誰かへ届き。
誰かを守った。
「この体は」
最後の花弁が砕ける。
黒い槍が二人へ迫る。
世界が切り替わる。
「無限の剣で出来ていた!」
赤い空が開いた。
無限の剣製――アンリミテッド・ブレイド・ワークス。
黒い槍は、二人へ届かなかった。
荒野から飛び上がった無数の剣が、槍の群れを迎撃する。
さらに、剣の丘の上空には七枚の巨大な花弁が咲いていた。
士郎が見たロー・アイアス。
アーチャーが使ったロー・アイアス。
二人の記録が重なり、固有結界の一部として再構築された盾。
完全な宝具の再現ではない。
だが、この荒野を守る天蓋としては十分だった。
赤い空の下。
無数の剣が墓標のように突き立つ荒野。
けれど、以前とは違う。
剣だけではない。
剣の間には、願いの種が眠っている。
桜の影から生まれた黒い土がある。
デメテルの黄金の根が剣へ絡みつき、剣の丘を崩壊から守っている。
セレーネの月光が、錆びた刀身を静かに照らしている。
空には、願いを守る七枚の花弁。
地には、偽・螺旋剣を模した無数の螺旋の杭。
それらは敵へ無差別に放たれる兵器ではない。
炉心の支点を穿つための楔。
切断した願いが零れ落ちる前に、花弁が受け止める。
剣と盾。
穿つものと、守るもの。
二つを持つ荒野。
士郎の固有結界と、アーチャーの固有結界。
理想を信じる未熟な少年の世界と。
理想に破れ、それでも捨てきれなかった男の世界。
二つが完全に同じになることはない。
それでも今だけ。
願いを燃やさないという答えのもとで、重なる。
神杯が叫んだ。
『贋作が、本物の願いに触れるな』
士郎は荒野を走る。
アーチャーも並んで走る。
地面から、無数の剣が飛び上がる。
それらは神杯を攻撃するためだけの剣ではない。
炉心の構造を写し取った楔。
燃焼機構と願いの接続へ打ち込まれ、両者を切り離すための贋作。
「贋作だから、届くんだ!」
士郎が叫ぶ。
「本物を壊さず、間にある偽物の接続だけを斬れる!」
螺旋の剣が、支点の中心へ突き刺さる。
ロー・アイアスの花弁が、その背後へ展開される。
剣が内側を穿つ。
盾が外へ零れる願いを受け止める。
無数の小さなカラドボルグIIと、無数の小さなロー・アイアス。
先ほどアーチャーが示した戦法を、固有結界そのものが再現していく。
穿つ。
受け止める。
斬る。
守る。
願いを壊さず、炉だけを壊す。
アーチャーが両手へ干将・莫耶を投影した。
「構造解析、完了」
白と黒の双剣が、願望糸を斬り裂く。
士郎の手には、最初の贋作の剣が戻っていた。
アーチャーの手にも、同じ形の剣が投影される。
士郎の剣は未完成。
アーチャーの剣は、その欠陥を理解した上で補強されている。
二本で一本。
過去と未来。
理想と後悔。
未熟と錬磨。
二人は同時に黒い杯へ斬りかかった。
神杯が、無数の願いを盾にする。
泣き声。
助けを求める声。
生きたいという声。
『斬れば、願いは消える』
士郎の剣が止まりかけた。
それは脅しではない。
実際に願いが外殻へ組み込まれている。
力任せに斬れば、消える。
だが。
士郎の背後で、ロー・アイアスの花弁が咲いた。
切り離された願いを受け止める場所。
アーチャーが言った。
「止まるな」
「でも」
「剣だけでは届かん」
士郎の隣に立つ。
「だから、盾も作った」
士郎は上空の花弁を見た。
皆が守った時間。
桜の影。
イリヤの豊穣。
ジャンヌの旗。
アルトリアの光。
メディアの術式。
凛の魔力。
そのすべてが、願いを受け止める盾の一部になっている。
「斬って終わりじゃない」
士郎は呟いた。
「斬った後、返すところまでやる」
アーチャーが頷く。
「ようやく理解したか」
その時。
白い少女が叫んだ。
「違う!」
士郎が振り返る。
少女は涙を拭い、黒い杯を見上げていた。
「消えない」
神杯が震える。
「燃やさなくても、願いは消えない!」
『お前が願った』
黒い杯から、少女と同じ声が響く。
『消えないでほしいと』
「願ったよ!」
少女は叫び返した。
「大切だったから! 忘れたくなかったから! なくなるのが怖かったから!」
白い手を胸元へ当てる。
「でも、燃やしてほしいなんて願ってない!」
一歩前へ進む。
「閉じ込めてほしいなんて願ってない!」
さらに一歩。
「変わっちゃ駄目なんて、永遠に同じままでいろなんて、願ってない!」
イリヤが少女の隣へ立つ。
「願いは変わっていい」
アルターエゴも一歩進む。
「願望保存命令の再定義を提案」
瞳に無数の術式が展開される。
「保存ではなく、返還」
神杯の外殻へ新たな文字列が走る。
「燃焼ではなく、休眠」
黒い炎が揺らぐ。
「固定ではなく、未定」
白い少女が杯へ手を伸ばす。
「返して」
小さな声。
だが、その声は炉心全体へ届いた。
「私の願いを、私に返して」
黒い杯へ亀裂が入る。
メディアが叫んだ。
「原初支点が露出した!」
アルターエゴが高速で告げる。
「十三支点中、十二支点の破壊を確認。最終支点切断可能時間、七秒」
ギルガメッシュが笑う。
「七秒もあるのか」
王の財宝が最大まで開く。
「十分すぎる」
黄金の宝具が、残る外殻へ一斉に放たれる。
エルキドゥが鎖を伸ばし、黒い杯を空間へ固定する。
「ギル」
「ああ」
ギルガメッシュは、王の財宝の奥から一本の剣を取り出した。
剣と呼ぶには異質な形。
三つの円筒が回転する、世界そのものを切り裂く乖離剣。
エア。
空間が悲鳴を上げる。
赤い風が吹き荒れる。
「神でも杯でもない炉ごときが、王の前で永遠を語るな」
乖離剣が回転する。
「原初を語る。天地は分かれ、無は開闢を言祝ぎ。世界を裂くは我が乖離剣。星々を廻す臼、天上の地獄とは創世前夜の終着よ。死をもって鎮まるがいいッ!」
「天地乖離す開闢の星――エヌマ・エリシュ!」
世界を裂く力が収束する。
赤い断層が黒い杯を覆う偽りの世界を剥がした。
空間そのものが開かれ、原初支点までの道が露出する。
だが、神杯は最後の抵抗として、炉心を世界の外側へ逃がそうとする。
エルキドゥが両手を地面へ触れた。
「逃がさない」
神性を縛る鎖ではない。
世界そのものへ、己の存在を返す一撃。
エルキドゥの全身が緑の光へ変わる。
「人よ、神を繋ぎ止めよう――エヌマ・エリシュ!」
大地なき固有結界に、星の息吹が満ちる。
緑の光が乖離剣の赤い断層と衝突する。
破壊するためではない。
崩れゆく空間を、士郎たちが進める道として固定するため。
ギルガメッシュが世界を剥がし。
エルキドゥが世界を繋ぎ止める。
二つのエヌマ・エリシュが、最後の道を作った。
アルトリアが聖剣を掲げる。
「光は、私が」
リチャードも剣を掲げる。
「ならば、影を払う一節は私が!」
ランスロットが黒剣を構える。
「道を塞ぐものは、私が斬ります」
三人の剣光が重なる。
黄金。
白銀。
湖の蒼光。
神杯の最後の腕が切り払われる。
だが、黒い杯の中心から、最後の願望奔流が放たれた。
原初支点を守るため、炉に残るすべての願いを一度に燃やそうとする光。
受ければ、固有結界ごと焼き尽くされる。
避ければ、背後にいる白い少女とイリヤが呑み込まれる。
士郎は剣を構えたまま動けない。
アーチャーは前へ出た。
「剣を離すな」
「アーチャー?」
「最後まで役割を分けるぞ」
左腕を掲げる。
固有結界の空に浮かぶ七枚の花弁が、ひとつへ重なる。
さらに、荒野に突き立っていた無数の盾の記録が集まる。
名もない盾。
壊れた盾。
一度だけ誰かを守った鉄板。
英雄たちの防具。
ジャンヌの祈り。
桜の影。
豊穣の根。
すべてが、ロー・アイアスの七枚の花弁へ重なっていく。
「熾天覆う七つの円環――ロー・アイアス!」
巨大な盾が、最後の願望奔流を受け止めた。
第一層が砕ける。
ジャンヌが旗を掲げ、盾へ光を送る。
「支えます!」
第二層が砕ける。
アルトリアが聖剣の光を壁へ重ねる。
「士郎は、前へ!」
第三層。
桜の影が盾の根元を支える。
「零れた願いは、私が受け止めます!」
第四層。
イリヤの豊穣の種が光り、花弁の亀裂を一瞬だけ繋ぎ直す。
「帰る場所は、ここにある!」
第五層。
メディアと凛が魔力を流し込む。
「あと少し!」
「持たせなさい、アーチャー!」
第六層が砕ける。
アーチャーの左腕が、光の粒へ変わり始める。
最後の一枚。
七枚目の花弁が、黒い奔流に押される。
士郎が叫ぶ。
「アーチャー!」
「振り返るな!」
アーチャーの声が荒野へ響く。
「私は盾だ!」
最後の花弁へ、無数の亀裂が走る。
「お前は剣になれ、衛宮士郎!」
士郎は歯を食いしばった。
ロー・アイアスの向こう側に、原初支点がある。
盾が作った一瞬。
皆が守った一瞬。
その一瞬に、剣を届かせる。
アーチャーが右手を開く。
最後のカラドボルグIIが投影される。
それを上空へ放つ。
狙いは原初支点ではない。
士郎の進む道を塞ぐ黒い環。
螺旋剣が環の中心へ突き刺さる。
「偽・螺旋剣――カラドボルグII」
アーチャーが指を閉じる。
「壊れた幻想――ブロークン・ファンタズム」
爆発。
黒い環へ、螺旋状の道が開いた。
カラドボルグIIが穿つ。
ロー・アイアスが守る。
その間を、士郎が走る。
ジャンヌが旗を掲げ、願いの逆流を受け止める。
メディアがルールブレイカーを原初契約へ突き立てる。
凛の宝石がすべて砕け、最後の魔力が士郎とアーチャーへ流れ込む。
クーのゲイ・ボルクが、原初支点の因果を固定する。
バゼットのフラガラックが、炉心の自己修復を起動前に断つ。
イスカンダルの軍勢が、崩れ落ちる足場を支える。
エルメロイⅡ世の術式が、その衝撃を固有結界全域へ分散する。
アストルフォとヒポグリフが、白い少女を士郎のもとまで運ぶ。
メドゥーサのベルレフォーンが、炉心から噴き上がる黒炎を押し返す。
桜の影が、零れ落ちる願いを受け止める土となる。
山の翁のアズライールが、燃焼機構の永続性へ死を与える。
グレイのロンゴミニアドが、願いの逃げ道を照らす。
イリヤの豊穣の種が、戻る場所を作る。
アルターエゴが、すべての術式をひとつの命令へ束ねる。
「返還経路、確立」
士郎とアーチャーは、原初支点の前へ立った。
アーチャーのロー・アイアスは、最後の一枚だけを残している。
その一枚も、今にも砕けそうだった。
黒い杯が最後に問う。
『叶わなかった願いは、どこへ行く』
士郎は贋作の剣を振り上げた。
「持ち主へ返す!」
アーチャーが同じ剣を構える。
「持ち主が既にいないのなら、眠らせる!」
イリヤが叫ぶ。
「いつか、違う願いに変わってもいいように!」
桜が続ける。
「暗い土の中で、休めるように!」
ジャンヌが祈る。
「誰にも強制されず、自分の声を取り戻せるように!」
アルトリアが光の道を開く。
「未来を選ぶ者へ、返されるように!」
白い少女は涙を流しながら、最後に叫んだ。
「燃やさなくていい!」
士郎とアーチャーの声が重なる。
「投影、完了」
二本の贋作が、ひとつの軌跡を描いた。
刃が落ちる。
願いを斬るのではない。
願いと炉を繋いでいた命令だけを斬る。
切断された願いが、原初支点から溢れ出す。
その瞬間。
ロー・アイアスの最後の花弁が、両者の間へ滑り込んだ。
願いを受け止める。
燃焼炉へ戻さない。
破壊の余波へ巻き込ませない。
七枚目の花弁は、無数の願いを抱えたまま砕けた。
だが、抱えられた願いは消えない。
桜の影へ。
イリヤの豊穣へ。
白い少女の胸へ。
それぞれの帰る場所へ降っていく。
原初支点が切断された。
黒い神杯が、割れた。
◆
音はなかった。
世界が一瞬、白くなった。
次の瞬間。
燃えていた無数の願いが、小さな光へ変わり始めた。
炎が縮む。
熱量として失われていた形を取り戻す。
ひとつ。
またひとつ。
小さな種へ。
黒い炉から、数え切れないほどの種が生まれていく。
天へ昇るのではない。
誰かに無理やり叶えられるのでもない。
消滅するのでもない。
種は静かに降っていく。
無限の剣製の荒野へ。
剣と剣の間にある、黒い土へ。
桜が作った眠りの場所へ。
イリヤが育てた豊穣の地へ。
砕けたロー・アイアスの花弁は、土へ降りる種を包む光へ変わった。
崩壊したカラドボルグIIの螺旋は、願いが炉へ戻らないための水路のように、黒い土へ深い溝を刻んでいる。
穿つ剣が道を作り。
守る盾が、そこを通る願いを抱いた。
やがて固有結界が解ければ、それらは冬木の霊脈へ運ばれる。
願いの畑へ。
叶わなかった願い。
忘れられかけた願い。
持ち主を失った願い。
変わることを許されなかった願い。
誰にも届かなかった祈り。
それらは、もう燃えていない。
眠っている。
いつか別の形に育つかもしれない。
誰かの心へ戻り、まったく違う願いに変わるかもしれない。
芽吹かないかもしれない。
土の中で静かにほどけ、そのまま世界へ還るだけかもしれない。
それでもいい。
永遠に炉で燃やされるより、ずっといい。
白い少女は、その光景を見つめていた。
「消えてない」
イリヤが隣へ立つ。
「うん」
「燃えてもいない」
「うん」
「眠ってる」
「うん」
少女は胸元へ手を当てた。
命令として燃え続けていたものが、そこへ戻ってきている。
温かくはない。
冷たくもない。
ただ、自分のものだと分かる。
「私の願いも?」
士郎は頷いた。
「ああ」
「もう、命令じゃない?」
「違う」
「変えてもいい?」
「いい」
「忘れたくなったら?」
士郎は少しだけ考えた。
「忘れてもいい」
少女の瞳から、また涙が落ちた。
「そっか」
長い長い時間。
保存という名のもとで、永遠に燃やされ続けていた願い。
その願いが、ようやく休んだ。
神杯核の内部が崩れ始める。
凛が顔を上げた。
「全員、脱出! 炉心構造が崩れる!」
固有結界の赤い空へ、黒い亀裂が走る。
剣の丘が崩れ、願いの種が冬木の霊脈へ吸い込まれていく。
ギルガメッシュが舌打ちした。
「最後まで騒がしい炉だ」
エルキドゥの鎖が伸び、全員を繋ぐ。
「はぐれないように」
メディアと凛が転移術式を展開する。
「座標は衛宮邸!」
「柳洞寺じゃないのか!?」
「崩壊する地下へ戻ってどうするのよ!」
しかし、崩壊する神杯核が、最後の黒い塊を彼らへ落とした。
転移術式が完成するまで、数秒。
ジャンヌの旗は限界に近い。
アルトリアたちも、それぞれ宝具を解放した直後。
アーチャーは、左腕を見た。
ほとんど光へ変わりかけている。
それでも、手を上げた。
「まだ一枚、残っている」
士郎が振り返る。
「アーチャー」
空に、小さな紫色の花弁が現れた。
七枚ではない。
一枚。
先ほど士郎が投影したものよりも薄く。
本来のロー・アイアスより、遥かに脆い。
それでも。
落下する黒い塊と、皆の間へ咲いた。
アーチャーだけの盾ではない。
士郎の記憶。
凛の魔力。
ジャンヌの祈り。
桜の影。
イリヤの豊穣。
アルトリアたちが作った道。
そのすべてが混ざり合った、最後の一枚。
黒い塊が激突する。
花弁が軋む。
士郎が隣へ並び、左手を掲げた。
「一人で持つな」
「これは盾だぞ」
「だからだ」
士郎は歯を食いしばる。
「一人で全部守れるなんて、思うな」
アーチャーは一瞬黙った。
それから、小さく笑った。
「言うようになったな」
二人の魔力が盾へ流れ込む。
薄い花弁が、転移術式の完成まで持ち堪える。
メディアが叫ぶ。
「術式完成! 全員、飛ぶわよ!」
ジャンヌの旗が、崩壊の衝撃を受け止める。
ランスロットとアルトリアが剣で落下する破片を弾く。
イスカンダルが神威の車輪へ飛び乗った。
「退却もまた遠征の一部! 生きて帰るぞ、者ども!」
エルメロイⅡ世が怒鳴る。
「私の示した経路に従え! 勝手に走るな! 特にライダー!」
「道が見えているのだから、最短を征く!」
「それが崩壊区域だと言っている!」
「ならば崩れる前に走り抜ける!」
「理屈を聞け!」
アストルフォがヒポグリフを旋回させる。
「乗れる人は乗って! 帰ったらご飯だからね!」
クーが走りながら笑う。
「そいつは賛成だ!」
バゼットが淡々と答える。
「消費魔力量を考慮すれば、早急な栄養補給が必要です」
「お前が言うと訓練後みたいになるな!」
メドゥーサは桜を抱き寄せ、崩れる足場から守る。
「サクラ、離れないでください」
「はい、ライダー」
グレイはロンゴミニアドを抱え、山の翁を見上げた。
「私たちも、帰れるでしょうか」
山の翁は頷いた。
「生者は帰るがよい」
崩壊する死の層を、大剣で斬り開く。
「死は、まだ汝らを呼んではいない」
士郎はイリヤへ手を伸ばした。
「イリヤ!」
「うん!」
イリヤが手を掴む。
士郎は白い少女へも手を伸ばした。
少女は一瞬、自分に差し出された手を見つめた。
命令ではない。
強制でもない。
掴んでもいい。
掴まなくてもいい。
自分で選べる手。
少女は、自分から士郎の手を取った。
「帰りたい」
士郎は強く握り返した。
「ああ。帰ろう」
その声は、もう空っぽではなかった。
最後の花弁が砕ける。
同時に、転移の光が全員を包んだ。
◆
冬木の空から、黒い神杯が消えた。
夜明け前の空に巨大な亀裂だけが残る。
黒と白の傷は、しばらく冬木の街を見下ろしていた。
やがて端から光の粒へ変わり、薄れていく。
星が戻る。
月光が街へ降りる。
雲が、再び夜空を流れ始める。
冬木の街は静かだった。
何事もなかったように。
けれど、霊脈の奥では変化が起きている。
無数の種が、静かに土へ降り積もっていた。
願いの種。
誰かの祈りが、燃料ではなく眠りとして還った証。
衛宮邸の庭へ、光が降った。
ひとり。
またひとり。
士郎たちが転移術式から投げ出されるように帰還する。
士郎は地面へ膝をついた。
贋作の剣は、役目を終えた瞬間に崩れ始めていた。
歪な刀身が光の粒となり、朝の風へ消える。
その光の中に、螺旋状の赤い欠片と、紫色の花弁が混じっている。
カラドボルグII。
ロー・アイアス。
士郎自身が投影したものではない。
けれど、アーチャーが見せた二つの答えは、確かに士郎の内側へ刻まれていた。
穿つだけでは足りない。
守るだけでも終わらない。
切り開き。
受け止め。
返す。
それが、贋作の剣が最後に得た形だった。
アーチャーがその様子を見て鼻を鳴らした。
「最後まで酷い出来だったな」
士郎は息を切らしながら笑った。
「役には立っただろ」
「一度きりの道具としてはな」
「それで十分だ」
アーチャーは少しだけ目を細めた。
「ああ」
士郎は、アーチャーの左腕を見る。
外套の下から覗く腕は、既に半透明になっている。
「ロー・アイアス」
「何だ」
「今度は、もっと上手く投影する」
「勝手にしろ」
「カラドボルグIIも」
「ブロークン・ファンタズムにするな」
「何でだよ」
「お前は加減を知らん」
「一回くらい試してみないと分からないだろ」
「だから断ると言っている」
凛が庭へ座り込みながら怒鳴った。
「帰ってきた直後に次の爆発の相談をしないで!」
士郎とアーチャーは同時に黙った。
凛は白み始めた空を見上げる。
「終わった……?」
メディアも珍しく大きく息を吐く。
「主炉心は停止。願望燃焼機構も崩壊した」
「じゃあ」
「少なくとも、願いを燃やす炉は二度と動かない」
イリヤは胸元の豊穣の種へ手を添えた。
淡い光が、一度だけ返る。
「バーサーカー……」
姿はない。
声もない。
だが、縁は残っている。
完全に現界しているわけではない。
それでも、願いの畑の奥で守る意志が眠っている。
イリヤは小さく笑った。
「卵焼き、もっと上手くなるからね」
メドゥーサの姿も、既に薄れ始めていた。
桜が不安そうに手を伸ばす。
「ライダーさん」
メドゥーサはその手へ自分の手を重ねた。
完全な肉体の感触ではない。
影に近い。
「私は、まだあなたの影に縁を残しています」
「完全に、いなくなるわけではないんですか?」
「ええ」
メドゥーサは微笑む。
「あなたが影を夜の土として選び続ける限り、私は境界にいます」
桜は涙を浮かべながら頷いた。
「はい」
メディアも自分の半透明になりかけた腕を見た。
「私も完全帰還には至っていないようね」
凛が眉を寄せる。
「何で?」
「願録聖堂の管理権限と、柳洞寺の術式へ霊基が接続されたままだからでしょう」
「つまり?」
「残務処理よ」
「随分長い残務処理になりそうね」
「誰のせいだと思っているの?」
「神杯じゃない?」
「半分は貴女よ」
「何で私!?」
クーが肩を回した。
「派手だったな。結局、何発宝具が飛んだ?」
アストルフォが指を折り始める。
「エクスカリバーが二種類でしょ、ゲート・オブ・バビロン、エヌマ・エリシュが二つ、アイオニオン・ヘタイロイ、ゲイ・ボルク、フラガラック、ベルレフォーン、ロンゴミニアド、アズライール、それからロー・アイアスが何回かと、カラドボルグIIも――」
凛が叫ぶ。
「数えないで! 魔力収支を考えたくない!」
エルメロイⅡ世は地面へ片膝をつき、額を押さえていた。
「神杯核内部で、複数の固有結界、対城宝具、対界宝具、軍勢召喚、神代魔術、因果逆転、概念契約解除、宝具の爆発運用と多重防御を同時展開……」
顔色が悪い。
「時計塔で報告したら、内容以前に私の正気を疑われる」
イスカンダルが豪快に笑った。
「だが、勝ったぞ!」
「そういう問題ではない!」
リチャードは満足げに剣を納める。
「素晴らしい物語だった。百年は語り継げる」
ギルガメッシュが不機嫌そうに空を見た。
「炉は砕けた。だが、残滓は残っている」
アルターエゴが解析を始める。
「神杯戦争システム、主炉心停止。願望燃焼機構、完全崩壊。周辺霊脈へ願望種子の分散を確認」
凛が立ち上がる。
「危険性は?」
「現時点では低。願望種子は休眠状態です。ただし、適切な管理を行わなければ、新たな願望術式へ利用される可能性があります」
「管理が必要ってことね」
「肯定」
アルターエゴは続ける。
「また、神杯崩壊に伴う召喚基盤の消失を確認。現界中の英霊、神格、派生霊基への影響は個体差があります」
庭の空気が静かになった。
アルトリアが士郎を見る。
その視線には、別れを知る者の穏やかな覚悟があった。
アーチャーも。
ジャンヌも。
ランスロットも。
クー・フーリンも。
ギルガメッシュも。
エルキドゥも。
イスカンダルも。
アストルフォも。
リチャードも。
山の翁も。
彼らは英霊。
炉が止まった以上、この現界が永遠に続くことはない。
別れは近い。
だが、まだ夜明けは完全には来ていなかった。
今すぐ、別れを口にする必要はない。
士郎はそう思った。
イリヤは白い少女の手を握ったまま、明るく言った。
「ねえ」
少女が見る。
「名前、考えなきゃね」
「名前」
「うん。ずっと白い子じゃ変だし」
凛が疲れ切った顔で言う。
「さすがに白い子は雑すぎるわ」
アルターエゴが静かに手を上げた。
「私も名称未定です」
イリヤは二人を交互に見る。
「じゃあ、二人とも考えよう」
白い少女は戸惑う。
「自分で決めていいの?」
「もちろん」
「変えても?」
「いいよ」
「決めなくても?」
「決めたくなるまで待ってもいい」
少女は、朝焼けを見た。
自分で選べる。
今すぐ決めなくてもいい。
変えてもいい。
それは、彼女が初めて手にした余白だった。
「考える」
少女は小さく笑った。
「これから、考える」
士郎はその光景を見て、肩の力を抜いた。
神杯を砕いた直後にする話が、名前を決めること。
世界を救う話ではない。
根源へ至る話でもない。
ひとりの少女が、自分の名前を考える話。
それが、ひどく正しいことのように思えた。
◆
朝日が冬木の街へ差し込む。
神杯戦争、第二十一夜。
衛宮士郎たちは神杯核へ到達し、願いを燃やす炉を砕いた。
聖剣の光が夜を裂いた。
英雄王の財宝が外殻を穿った。
乖離剣が偽りの世界を剥がし、天の鎖が崩壊する道を繋いだ。
湖の騎士が罪を抱えたまま王の道を開いた。
獅子心王の憧れが贋作の光となった。
征服王の軍勢が終わらない炉を踏破した。
聖女の旗が願いの逆流を受け止めた。
光の御子の魔槍が炉心の因果を穿った。
戦神の剣が反撃の結果を返した。
魔女の短剣が願いを奪う契約を破った。
騎兵の天馬が影を守り、月光の道を駆け抜けた。
最初の山の剣が永続する苦しみへ死を与えた。
最果ての槍が、終わりを失った願いに出口を作った。
狂戦士は一瞬だけ帰還し、少女を守るために九つの斬撃を振るった。
赤い弓兵の偽・螺旋剣が、願いの炉の中心だけを穿った。
熾天覆う七つの円環が、その破壊から願いを守り抜いた。
そして。
二人の贋作者が、無限の剣製を重ねた。
それでも、本当に炉を止めたのは、宝具の威力だけではない。
願いは変わっていいと認めたこと。
叶わなかった願いを、燃料にしないと決めたこと。
過去を消すのではなく、傷を抱えた今を選んだこと。
誰かの願いを、誰かが勝手に完成させてはならないと知ったこと。
剣を届かせるだけではなく。
剣によって零れ落ちるものを、盾で受け止めると決めたこと。
願いは、叶うだけではない。
変わる。
眠る。
忘れられる。
別の誰かへ受け継がれる。
まったく違う形へ育つ。
芽吹かず、静かに土へ還ることもある。
それでもいい。
燃やされ続けるより。
永遠に同じ願いであることを強制されるより。
ずっといい。
だが、物語はまだ終わらない。
神杯の炉は止まった。
願いの種は冬木の霊脈へ残った。
イリヤの命は、まだ完全に安定したわけではない。
白い少女とアルターエゴは、まだ名前を持っていない。
召喚された英霊たちは、やがて座へ還らなければならない。
ヘラクレス、メディア、メドゥーサは、完全な帰還とは異なる形で冬木へ縁を残した。
そして――。
柳洞寺地下大空洞。
崩壊した祭壇。
誰もいないはずの暗闇で、僅かな衣擦れの音がした。
黒い法衣の男が、瓦礫の下から立ち上がる。
鷺宮玄礼。
神杯を現代の冬木へ接続した監査役。
頬には亀裂のような傷が走り、法衣の半分は焼け落ちている。
それでも、その瞳には狂気ではなく、冷たい理性が残っていた。
玄礼は瓦礫の中へ手を伸ばす。
指先が、黒い欠片を拾い上げた。
砕けた神杯の一片。
炉心は死んでいる。
願望燃焼機構も動いていない。
それでも、欠片の奥には小さな光があった。
炎ではない。
ひとつの種。
まだ誰のものでもない願い。
玄礼はそれを見つめた。
「炉は止まった」
静かに呟く。
「だが、願いは消えていない」
欠片の表面には、細い螺旋状の傷が刻まれていた。
カラドボルグIIが穿った痕。
その周囲には、花弁に似た紫色の薄膜が残っている。
ロー・アイアスが、破壊から守った願いの欠片。
穿たれながら。
守られたもの。
壊された炉と。
残された願い。
玄礼は、その矛盾した欠片を指先で転がした。
「破壊と保護」
欠片の光が、男の瞳へ映る。
「剣と盾」
小さな種は、消えない。
誰かに叶えられてもいない。
ただ、眠っている。
「叶わずとも残る」
朝日が、崩壊した大空洞の奥へ差し込んだ。
玄礼の口元へ、微かな笑みが浮かぶ。
「ならば、証明はまだ終わっていない」
彼は黒い欠片を懐へ収めた。
終わりではない。
炉を砕いたことが答えではない。
願いを返された者が、その後に何を選ぶのか。
名前を得た者が、何を願うのか。
別れを知った者が、それでも明日を迎えられるのか。
剣で道を開いた者が、次に何を守るのか。
盾で誰かを守った者が、最後に何を託すのか。
それこそが、神杯戦争の最後に残された問いだった。
冬木の朝が始まる。
願いの炉心は砕けた。
贋作の剣は消えた。
七枚の花弁も、螺旋の剣も、朝の光へほどけていった。
けれど。
剣が切り開き。
盾が守り抜いた余白には。
まだ誰にも書かれていない明日がある。
第二十二話へ続く。
コメント
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読了しました…🌙 神杯が差し出す“叶わなかった過去”の幻、すごく苦しかったです。誰だって欲しいと思う。でも「それで今の自分が消えるなら嫌だ」って全員が拒むところ、本当に胸が熱くなりました。特にイリヤと白い少女の「名前、考えよう」が、戦いの後にぽっと灯る優しさで…そこが一番好きです。 願いを永遠に燃やさない、眠らせるという選択、重くて美しかった。続きも読みます🤍