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最初は、ただ眠っているはずの布団に、重みがかかってきた。
静かな音でドアが開き、誰かがそっと入り込んできた。それが「いつものこと」になったのは、いつからだったのか──思い出そうとすると、記憶がすりガラス越しになる。
誰の手だったのか。
なぜその夜、言葉が出なかったのか。
「兄だから」「遊びだから」と、繰り返されてきた言葉が、心のどこかに染みついて、問い返す力を奪っていた。
あの手は、ただ優しかったのか、それとも。
「ほら、弟なんだから、これくらい普通だろ?」
そう言われるたびに、違和感は胸の奥に沈んでいった。
それが”特別なこと”ではなく、”家族の中の役割”のようにすり替えられていく。
やがて、その違和感が鈍い痛みに変わった頃には、言葉にすることさえ思い出せなくなっていた。
中学に入る頃には、彼らは躊躇しなくなった。
「今日は俺が先な」「静かにしろ、目が覚めるだろ?」
その言葉を聞くたびに、悠翔は眠ったふりをする術を身につけていった。
声を出さないこと。動かないこと。
「そうしていれば、早く終わる」と知っていたから。
布団のなかの沈黙が、いつしか夜のルールになった。
触れる指の冷たさ、衣擦れの音、窓の外の夜風。
それら全てが、心をどこか遠くへ連れて行こうとするようだった。
「お前さ、変な顔するのやめろよ。気持ち悪い」
その言葉に、少しだけ安心した。
気持ち悪いのは、きっと自分じゃない──そう思える一瞬が、唯一の逃げ場だった。
彼にとって、「いつから」始まったのかを問うことは、
「いつから壊れていたのか」を思い出す作業と同じ。
明確な境界線はなく、
兄たちの笑い声とともに、ただ夜が上書きされていった。
布団のなか、風呂場の蒸気のなか、夏の帰省の夜、冬の電気毛布のぬくもり。
どれもが、ひとつの記憶の中で絡まりあっていて、
思い出すたびに、どれが現実でどれが夢だったのかがわからなくなる。