カフェの外。……に出るだけでは何だか落ち着かなくて、私はいそいそと愛車に乗り込んで着信履歴を開いた。
よく見ると毎日のように日に数回ずつ、くだんの不動産屋から不在着信が入っていたことに気がついて、ゾクッとする。
いくら仕事がハードだったからって、これはまずいでしょ、と自分でも分かった。
着歴には実家からのものが不動産屋との間に挟まるように幾度となく混ざっていて、「あー、これ……」って思う。
私、不在に気付いたうちの何回か、実家からの着歴を見て、不動産屋からの着信もあったのに、ろくすっぽ確認もせずに「何だ、家からじゃん」って放置していたの。
とりあえず実家は後回しにするとして、不動産屋の方を優先する。
『はい、ペリー不動産です』
コール数回。私のスマートフォンに度々着信履歴を残していた馴染みの不動産屋は、私からの発信に案外すんなり応答した。
いや、まぁ今の今までこの不動産屋さんと話が出来ていなかったのは、私がいつもあちらからの着信に応じなかったからなんだけど。
落ち着いた雰囲気の、柔らかな女性の声音に、内心ホッとしつつ。
「あの、わたくし、こよみハイツの201号室に住んでおります柴田春凪と申します。先日から再三ご連絡をいただいていましたのに……折り返しが遅くなって申し訳ありません」
『――こよみハイツの柴田さん……』
先方のお姉さんがそうつぶやいた途端、『貸して』という男性の声がして。
保留音も『お待ちください』もないままに電話の相手が代わってしまう。
『柴田さん? あー、良かった! やっと連絡がつきました!』
今日も連絡が取れないようなら、直接アパートへ出向こうと思っていたと続けられて、私は本当に申し訳ない気持ちになる。
それと同時、「そこまでして何の用が?」とにわかに不安になった。
お家賃はちゃんと毎月指定の口座にお振り込みしているし、滞納だってないはず。
「あ、あのっ……。もしかして私の知らないうちにお家賃が値上がりしたとか……」
恐る恐る問いかけたら『まさかっ。そんなことはありませんよ』と即座に返されてホッとする。
でも――。
『お家賃は問題ないのですが、更新のお問合せに対するお返事も、更新料のお振り込みもありませんでしたので――』
お振り込みいただいた来月分のお家賃はお返しします、と言われてしまった。
「えっ!?」
その、取り付く島もない物言いに、私はドキッとしてしまう。
「こっ、更新料はすぐにお支払いしますのでっ」
通帳の残高が4桁なことも忘れて慌ててそう食い下がったら、
『申し訳ありません。あまりにも住んでいらっしゃる貴女と連絡が取れなかったため、先日契約主である親御さんにご連絡差し上げました。で、親御さんからも柴田さんに連絡していただいたのですが、繋がらなかったみたいで。結局、〝娘は実家に帰らせますので退去でお願いします〟とお申し出がありました』
優しく諭すように『お父様かお母様からその旨ご連絡はありませんでしたか?』と付け加えられて、私は不動産屋からの電話に混ざり込むように実家からの着信が幾度もあったことを思い出す。
「すみません、実家への連絡も怠っていました……」
つぶやくように言ったら、電話先で息を飲む気配があった。
その上で、とても言いにくそうに
『あの……そんな状況のなか大変申し上げにくいのですが、こよみハイツは立地がいい上に賃料が格安のアパートですので、その……、もう次の入居希望者が決まってしまいまして』
と続けられてしまう。
そんなっ。
現住民である私に何の断りもなく!?
そう思ったけれど、不動産屋さんからの再三の電話を無視して折り返さなかったのは、他でもない私だ。
実家からの電話にしてもそう。
そんな不甲斐ない娘に業を煮やして契約を打ち切る決定を下したのはうちの親――。
不動産屋に非はない。
思えば、両親からはずっと、大学卒業後にはすぐにでも地元に戻って結婚することを強く勧められていた。
実家は、昔気質の田舎体質の強い旧家然としたところがある家だから。
私のアパート更新契約不履行問題は、そんな親にとって私を呼び戻す絶好の機会だと捉えられてしまったに違いない。
自身も短大卒業後20歳やそこらで父と見合い結婚を決めた母からしたら、4年制大学を卒業し、22歳を過ぎてしまった私は、十分行き遅れという感覚みたいだったし。
そんな考え方、今時おかしいからね?と抗議しても、うちはうち、よそはよそと言われて話にならなかったのを思い出す。
〝子は親のもの〟という考えが強いのか、幼い頃からやたらと私の人生に干渉してくる親から逃げたくて、物凄く反対されたのを押し切る形で、奨学金を受けてでもそこに通いたい!と実家から通えないような遠方の大学を選んだ。
幸い学費については1人娘に奨学金を受けさせるなんて見栄が許さなかったのか、出してもらえたのだけれど。
そうして掴んだ実家脱却からの自由を失いたくなくて、私は就職先も親には相談せずに大学を起点に選択したのだ。
これで元カレと結婚出来ていれば鬼に金棒だったのだけれど、そこはうまくいかなかった。
私が、お金のことで親には迷惑をかけない、と頑なに取り決めているのだって、変に隙を見せて口出しされるのを避けたいが故だったのに。
こんな形で干渉されてしまうなんて思いもしなかった。
「……わかり、ました。それで――私、いつまでに退去すれば……」
意気消沈とした声音を隠せないまま。
それでも精一杯頑張ってそう問いかけた私に告げられた猶予は、たったの2週間だった。
***
「話は済みましたか?」
携帯を手に、トボトボと席に戻ると、織田課長の穏やかな声。
何だか分からないけれど、大好きだけど大嫌いなはずの織田課長の顔を見た途端、感情が抑え切れなくなってポロリと涙がこぼれ落ちた。
「……春凪?」
さすがにそれを緊急事態だと悟ったらしい織田課長が、「母さん、この話はまた改めてしましょう。分かってると思いますが、見合いの話はなしですからね?」と告げるなり席を立って。
ああ、織田課長、お見合いを回避したくて私を利用したんだったっけ。
私、お役目を無事に果たせたかしら。
そんなことをぼんやり思っていたら
「――とりあえず外へ」
優しく耳元でそう促されて、織田課長に肩を抱かれる。
いつもならパシッと払いのけたい衝動にかられるところなんだけど、今はその手をかわす気力すら出ない。
いや、まだ葉月さんの前だし、そんなことをしたらいけないのだけれど、さっきまでならそれを甘受しているふりをしながらも、絶対にギュッと手に力を入れて我慢していたと思う。でも、今はそんな気持ちにすらなれないの。
そんな私たちの背後から、「待ちなさい、宗親さん。まだお話が……」と葉月さんの声が追い縋ってきたけれど、それにすら気を配れないほど今の私は自分の目の前の問題で一杯一杯で。
不安がどんどん膨らんで、一度堰を切った涙を止める術さえ見つからないの。
後から後からはらはらと止めどなく溢れてくる涙は、一向に乾いてくれない。
なのにそれを拭う元気すらないとか。
歩くたび、頬を伝い落ち、あごに集まった涙が堪えきれずに床に落ちる。
そんな風にして、パタッ、パタッ……と小粒の水滴を落としながら歩く私に、あちこちから好奇の目が注がれ始めて。
それを察したらしい織田課長が、ご自分が着ていらしたジャケットを脱いで私の頭にふわりと被せて下さった。
実際はそうされた方が連行中の犯人みたいで目立つ気がするのだけれど、これも鬼上司にしては珍しい優しさなのかなと思ったら、大人しく従ってもいいか、と思えてしまう。
実際、織田課長はどうか分からないけれど、私からは周りが遮断されて心地よかったから。
止めどなく涙を落とす私を、織田課長が店内にそのままにしておけないと思われたのも無理はない。
馬鹿みたいに泣いているうちに、冷静に周りを分析するのとは別のところで、息継ぎまで過呼吸さながらに乱れてきて。
ヒックヒックとしゃくり上げるこんなボロ泣きの女、好奇の的でしかないですよね。
同席しておられるのもきっと恥ずかしかったはず。
お母様を守る意味でも、きっと織田課長はあそこを離れざるを得なかったんだ。
そう思い至ったら、止せばいいのに自然謝罪の言葉が乱れた呼吸の合間に溢れ出して。
「ごめっ、な、さっ……ぃ。……っ、おり、たかちょっ、ごめ、な、さ……」
少なくともオフの日に上司に掛けさせる手間ではないのは分かる。
歩きながら、呼吸を乱しつつも一生懸命謝罪の言葉を紡ぐ私に、「まともに喋れていないのが分かりませんか? いいから少し黙っていなさい」って静かな声音が降り注いだ。
***
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