テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
志摩重蔵は、薄く開けたブラインド越しに、
灰色の雲が垂れ込めた空を眺めていた。
「……顔を削ぐ、ね」
先日、監視官が漏らしたあの一言が、脳裏を離れない。
矢代洸一は、すでに次の聞き込みへ向かおうと
上着を手に取っていた。
「志摩さん、俺、もう一度現場回ってきます。
何か見落としがあるかもしれません」
「洸一、待て」
低く唸るような志摩の声に、矢代が動きを止めた。
「無駄足になるぞ。今まで何度足で稼いでも、
掴めたのは『記録に映っていた顔のない何者か』だけだ。
外に出りゃ変わるってもんじゃねぇ」
「けど、じっとしてても進まないでしょうが!」
「だからこそ、だ」
志摩は古びた資料ファイルを机に叩きつけた。
「手元にある証拠、もう一度、俺たちの目で精査するんだ。
現場で拾えるもんがねぇなら、机の上で拾うしかない」
白々とした蛍光灯の光が、
天井から二人の刑事に降り注いでいた。
志摩は、分厚い捜査資料の束を
無造作に机上に投げ出し、唇を歪める。
無遠慮な紙擦れの音が、
静まり返った室内に虚しく響いた。
資料を再確認しながら、志摩と矢代は言葉を交わす。
憶測の域を出ない議論の形。
結局、議論は平行線のまま。
だが、それでも志摩は構わなかった。
今は、空回りでも進むべき道がある。
議論も早々に切り上げ志摩は矢代を外に連れ出した。
その場所は都内某所、都立監察医務院。
ここに今回の遺体見分に立ち会った医師がいるからだ。
迎えたのは、薄い色の縁無し眼鏡をかけた男性
――解剖医、桂木真澄(かつらぎ ますみ)。
四十代後半に差し掛かったばかりの男で、
目元には慢性的な疲労が色濃く刻まれていた。
「また、ですか」
開口一番、桂木は心底うんざりした表情を浮かべる。
「すまんな。他の連中も聞いてるのは知ってる。
でも、俺たちなりに噛み砕かないといけないんでね」
志摩の謝罪に、桂木は肩を落とす。
「……何度でも言いますよ。
あの遺体に施された損壊は“人為的なものではない”。
刃物の類じゃないし、動物に襲われた痕跡とも合致しない。
皮膚組織の断裂面は、組織自体が
“内側から削ぎ落とされた”かのような異常な状態で、
現行の医学的知見では説明不能です」
眉間を押さえながら、桂木は続ける。
「まるで『肉の形状を理解した上で、選択的に剥離された』
ような痕跡なんですよ。
……だが、そんなことが自然現象で起こるわけがない」
無機質な言葉の裏に滲む、理知ゆえの苛立ちと恐怖。
「なら……“痣”の方はどうです?」
矢代が問う。
桂木は溜息を吐き、机上のデータを示した。
「これこそ、一番不可解です。遺体の各部位に浮かぶ痣は、
皮膚表面だけでなく、皮下組織、筋肉層にまで及んでいる。
ところが内出血によるものではなく、
『細胞そのものが変質して黒ずんでいる』。
これは外力による損傷とは全く別種の現象です」
桂木は腕を組み、志摩をまっすぐ見据えた。
「この痣は、“何か”が細胞に作用した結果としか思えない。
“何か”が、何なのかは分かりませんがね」
神妙な面持ちで呟くその姿に、志摩もまた口元を引き結ぶ。
「ありがとう、桂木。……十分だ」
二人は次に監視カメラ映像を確認した警視庁監視官室を訪れるが、
該当の監視官は席を外していた。
肩透かしを食らった形となり、矢代は苛立ちを隠さない。
「……やっぱり外に出た方が良かったんじゃ」
「さっきの解剖医の話を、もう少し咀嚼する時間が必要だ」
志摩は低く応じ、廊下の窓から夕焼けを眺めた。
その日の夕刻、刑事本部による記者会見が開かれた。
都心に位置する警視庁庁舎。
その一室、煌々とした照明の下壇上に立つのは
刑事部長の大原誠司(おおはら せいじ)。
五十代半ば、志摩とほぼ同年代。
切り揃えた白髪交じりの頭髪と鋭い眼光が印象的な男だ。
「皆様、報道陣の皆様。
まず今回の事件に関し、多大なるご心配をおかけしておりますことを、
警視庁として深くお詫び申し上げます」
定型の謝罪が終わると、淡々とした口調で会見は続けられる。
「現在、都内にて発生しております“顔面皮膚削脱事件”に関し、
警視庁はこれを“連続猟奇事件”として捜査を進めております」
壇上のスライドに、被害者遺体の検証結果が示される。
「損壊部位は顔面を中心に極めて精密な削脱処置が施されており、
現行の医療技術では説明困難な様相を呈しております。
さらに、遺体各部に認められた黒色痣についても、
通常の内出血とは異なる組織変質が確認されております」
フラッシュの嵐。記者たちが一斉に身を乗り出す。
「まず、被害者の身元はすべて判明しており、
事件現場は八王子市内の複数の心霊スポット付近に集中しております。
現場に残された証拠物件、及び目撃証言から、被害者たちは生前、
共通して『何か』を目にしていたと推測されます」
「その『何か』とは?」
「現在、捜査中であり、詳細は控えさせていただきます」
「痣についての見解は?」
「遺体に見られた痣のような痕跡についても、
現在専門機関にて解析を進めておりますが、現時点では
物理的な外傷とは断定できておりません」
「それはつまり、オカルト的な要素を含んでいると?」
「捜査はあくまで事実に基づいて行っております」
記者たちの質問は次第に過熱し、矢代が思わず顔をしかめた。
「……あれじゃ、世間のガス抜きにしかならない」
「洸一、ああいう場はそういうもんさ」
引き続き、記者たちの怒涛の質問が飛ぶ。
「犯行に使用された凶器は特定されていますか?」
「加害者像について、現時点で何か手がかりは?」
「痣の正体は、ウイルス性のものではないのですか?」
矢継ぎ早に投げかけられる問いに対し、
大原は慎重に言葉を選びながら応じる。
「現時点で“凶器”と断定できる物証は確認されておりません。
また、加害者像についても捜査を継続中であり、
詳細は控えさせていただきます」
冷静沈着な応答。その裏に滲むのは、
警察組織全体が掴みかねている“何か”への戸惑いだった。
一方、その記者会見を別の場所で見つめる人物がいた。
編集社の一室、古びたソファに身を沈めた男
――佐伯彰人(さえき あきと)。
梓が勤める会社の編集長である。
窓の外、夕闇に沈む都市の灯りを眺めながら、
ぽつりと呟く。
「世間様のご機嫌取りも大変だねぇ……」
会見で語られた“事実”は、警察が掴み得た断片に過ぎない。
「……やっぱり、思ってた通りただの事件じゃない。
おそらく、また死人が出る」
誰に聞かせるでもない独白。
だが、その声音には確信めいた響きが宿っていた。
夜の帳が、音もなく降り始めていた。
(→ 次話に続く)