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#溺愛
「……ん、はぁ……っ」
「ギシッ……ギシッ……」
壁の薄い格安ラブホテルの隣室から漏れ聞こえるのは、耳を汚すような声と、安物スプリングの悲鳴だった。俺(王子谷)は、壁にボイスレコーダーを押し当てたまま、込み上げる吐き気を必死に抑えていた。
(……なんで、俺が人生最悪のASMRを聞かされてるんすか。マジで有給3ヶ月分くらい上乗せしてほしいっすよ、これ……)
***
一時間前。定時を少し過ぎた頃、会社の駐車場。外回りから帰ってきた俺は、相棒のポンコツ(社用車)を停めたところだった。エレベーターから現れたのは、仕立てのいいスーツを完璧に着こなした蓮常務と、ケバい化粧のコンサル。二人は常務の高級車に乗り込んだ。
俺はすぐさまポンコツのエンジンをかけ直し、慎重に距離を空けて後を追った。辿り着いたのは、港区の華やかさとは無縁の裏通り。
「なるほど。高級ホテルじゃ足がつくし、何より安上がりに『処理』できるってわけっすか。……つくづく、ゲスな野郎っすね」
フロントには、毒キノコのような紫のパーマの、推定年齢70歳のばあちゃんが座っていた。
「あら。こんな男前が一人で……? 」
ねっとりとした熱烈な目配せに、背筋を凍りつくような悪寒が走る。でも、ここで引くわけにはいかない。俺は悲劇のヒーローの演技を全力で披露した。
「ばあちゃん……実は今、俺の愛する妻が、別の男とここに……」
「……まあ! なんてこと! こんなイケメンを放っておくなんて、その女、眼が節穴だねぇ」
ばあちゃんは同情を装いながら、カウンター越しに俺の手をギュッと握りしめてきた。カサついた掌の感触に鳥肌が止まらない。
「いいよ、隣を使いな。……でもさ、もし奥さんに逃げられたら……アタシなんてどうだい?♡」
深すぎるシワに挟まれた、執拗なウインク。俺は引きつった笑顔のまま、命からがら鍵を奪い取ると、背後から飛んでくる「投げキッス」を振り切って階段を駆け上がった。
そうして俺は今、ばあちゃんの魔の手から逃れ、この薄汚れた部屋で壁にレコーダーを押し当てているわけだ。
荒い呼吸の合間に、本性が剥き出しになった「声」が混じり始める。
「……んっ、それで? 会社の売却、順調なの?」
会社で見せる姿はどこへやら、涼香の甘ったるく、粘りつくような声が聞こえる。
「……ああ。他の役員共には裏金を握らせた。専務が不在の今が、絶好のチャンスだ」
常務の、エリートの仮面が剥がれ落ちた傲慢な独白。
「製造データはすべて買収先に横流しして、この会社は『もぬけの殻』にする。その金で海外支社の損失を隠蔽(デリート)して、高飛びだ」
「……ひよりとかって子との結婚は?」
「籍だけ入れて、社長の椅子を奪って会社を売り飛ばしたら即ポイだ。専務は娘を溺愛してるからな、ひよりさえ飼い慣らせば、どうとでもなる。もし買収に反発してきたら人質にする。親なら娘のために、悪いようにはしないだろうよ」
「ふふ、あなたも相当性格が悪いわね……っ。あはは!」
二人の下卑た笑い声が聞こえた。 俺は、怒りに震える指で、レコーダーの停止ボタンを――引導を渡すためのスイッチを、強く押した。
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