テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
昼の光景が、
脳裏から離れなかった。
仕事用の服を着て、
鏡の前で整えても。
ネクタイを締めても、
髪をセットしても。
思い出すのは、
夜の女じゃない。
——R。
そして、
その隣にいた男。
カフェの窓越しに見えた、
楽しそうな横顔。
肩の力が抜けた笑い方。
俺の前では、
見せない顔。
「レイ」
そう、
あいつは呼んでいた。
自然に。
説明もなく。
俺は、
その名前を知らない。
胸の奥が、
ざわつく。
余裕が、
なくなっている。
自分でも、
はっきり分かる。
——くっそ。
女には困らない。
選ぶ側だ。
遊ぶ側だ。
笑えば、
金も時間も
勝手に差し出される。
それが、
当たり前だった。
なのに。
Rは違う。
思い通りに、
ならない。
距離も、
名前も、
踏み込めない。
そして何より。
俺以外の男が、
彼女の名前を呼んでいた。
Rは、
カフェのあと、
カラオケに行っていた。
特別じゃない。
ただの友達。
そう、
頭では分かっている。
男の子と別れて、
一人で帰る道。
夜風が、
少し冷たい。
その背中に、
声をかけた。
「……R」
振り向く前に、
手首に触れる。
強くない。
乱暴でもない。
包み込むみたいな、
優しい触れ方。
——一番、
警戒されないやつ。
「……なに?」
Rの声は、
いつもと同じだった。
驚きも、
動揺もない。
それが、
腹立たしい。
「昼、見た」
言葉が、
少しだけ早くなる。
「カフェ」
「一緒にいた男」
Rは、
否定しない。
「友達だよ」
それだけ。
説明もしない。
「……レイって、
呼んでたな」
喉の奥が、
熱くなる。
「俺は、
知らない」
情けない言い方だと、
分かっている。
それでも、
止まらない。
「なんで、
俺には教えない」
Rは、
少しだけ間を置いた。
それから、
静かに言う。
「それ、
知る必要ある?」
胸が、
きしむ。
——ああ。
俺は今、
越えようとしている。
大人が、
一番やっちゃいけない線を。
「……なあ」
声が、
低くなる。
「大人を、
弄ぶんじゃねぇぞ」
頭の中では、
もっと汚い言葉が渦巻いている。
——くっそガキが。
——調子、乗ってんじゃねぇ。
でも、
口には出さない。
ホストだから。
Rは、
一歩も引かない。
「弄んでない」
「ただ、
感情を売らないだけ」
その言葉は、
冷静だった。
Rは知っている。
自分の周りの、
同い年の子たちが。
“大人の恋”に憧れて、
どんな目に遭ってきたか。
「好き」
「君だけだよ」
そんな言葉で、
縛られて。
期待させられて、
捨てられて。
未成年を、
都合よく
“育てる”恋愛商法。
Rは、
それを嫌というほど見てきた。
だから、
決めている。
——感情を入れない。
——壊れない。
自分を守るために。
「私は、
飼われない」
その言葉が、
胸に刺さる。
俺は、
笑えなかった。
まさか。
自分が、
こんなふうになるなんて。
女に、
本気になるなんて。
選ぶ側だった。
遊ぶ側だった。
なのに。
選ばれない。
名前も、
距離も、
奪えない。
手首から、
そっと手を離す。
Rは、
何も言わずに歩き出す。
背中に、
最後の言葉を投げる。
「……レイ」
Rは、
その名前を
聞かなかったふりをして、
歩き出した。
夜の路地裏で、
夜空を見上げながら、
タバコに火をつける。
ライターの音が、
やけに大きく響いた。
煙を肺に入れて、
ゆっくり吐き出す。
それでも、
胸の奥は
何も変わらない。
——奪われたんじゃない。
——俺が、
選ばれない側に
落ちただけだ。
「……くっそ」
声が、
漏れる。
「なんで、
俺じゃないんだよ」
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!