「あなたはパスタが好きですか?」
2話
――その日、店でパスタを食べることになったのは、予定外だった。
「ねえ、ここのお店すごく美味しいんだって!」
休日、彼女に連れられて訪れたのは、隠れ家的なイタリアンレストランだった。
「今日はね、特におすすめのメニューがあるの!」
そう言って彼女が指差したのは、「シェフ特製ボロネーゼ」の文字。
僕は一瞬だけ眉をひそめたが、それを悟られないよう、自然に微笑んだ。
「いいね、美味しそうだ。」
注文を終え、しばらくして料理が運ばれてくる。
目の前に置かれた皿からは、濃厚なトマトソースの香りが立ち上る。
僕はフォークを手に取り、ゆっくりとパスタを巻き取った。
――どうせ、彼女の前では美味しそうに食べるしかないのだから。
「おや、奇遇ですね。」
その時、不意に声がかかった。
振り返ると、後ろに男が立っていた。
細身のスーツを着こなし、静かな微笑を浮かべている。
篠宮圭吾。
僕が知らないふりをしている男。
「……どちら様でしたか?」
彼は薄く笑いながら、
「これは失礼。篠宮圭吾と申します。」
名刺を差し出される。僕はそれを受け取るふりをしながら、視線だけを合わせた。
「ご存知ないかもしれませんが、私はある事故の調査をしていましてね。」
篠宮は、フォークを持ったまま固まる僕を見つめた。
「五年前の事故……覚えておられますか?」
彼の目は、まるで僕の心を見透かすかのように、深く暗い色をしていた。
「…すみません。食べ終わってからでも?」
「構いませんよ。失礼しました。」
・・・
食事を終え、店を出ると、彼女が満足げに笑った。
「ね、美味しかったでしょ?」
僕は柔らかく微笑み、彼女の手をそっと握る。
「うん、君の言う通りだった。」
当然だ。彼女の前ではそう言うしかない。
けれど、フォークに絡みつく麺の感触は、まだ口の中に残っている気がした。
「今日はありがとうね。じゃあ、私はこっちだから。」
別れ際、彼女は軽く手を振る。僕も笑顔を作り、彼女の姿が見えなくなるまで見送った。
さて――
背後から、篠宮が歩み寄る気配がした。
「お付き合い、順調なようですね。」
落ち着いた声が耳に届く。振り返ると、篠宮は薄い笑みを浮かべながら立っていた。
「探偵さんがこんなところで何をしているんですか?」
僕は努めて軽い調子で問いかける。
「たまたまですよ。偶然、あなたを見かけたものですから。」
篠宮はそう言いながら、ポケットから小さな封筒を取り出し、僕に差し出した。
「五年前の事故について、少しお話ししませんか?」
僕はそれを受け取るふりをして、封筒の中身を覗く。
――写真だ。
暗い路地。倒れ込む人影。その傍らに、ぼんやりと映るもう一人の影。
篠宮はじっと僕の顔を見つめている。
「これは?」
「あなたは、この現場をご存じでは?」
彼は微笑を崩さぬまま言った。
僕は封筒を閉じ、篠宮の目を真っ直ぐに見返した。
「いいえ、初めて見ました。」
嘘をついた。これは好奇心で僕がやった。
篠宮の目がわずかに細まる。
「そうですか。では、これについても?」
彼はスマートフォンを取り出し、ある映像を再生した。
街灯の下、誰かが倒れる瞬間。
そして、その場を立ち去る人影。
――なるほど、興味深い。
僕は心の中で冷静に状況を整理する。
篠宮は確信している。僕が関与していると。
だが、僕が犯人だと決定的な証拠はない。だからこそ、こうして揺さぶりをかけてきているのだろう。
「ふむ……怖いですね。こういう映像は、映画のワンシーンのようだ。」
僕は軽く肩をすくめた。
「ですが、残念ながら僕ではないですよ。」
「……本当に?」
「ええ、本当に。」
篠宮は僕をじっと見つめる。
僕もまた、微笑を崩さずに彼を見返した。
こういう駆け引きは、僕にとって呼吸するのと同じくらい自然なことだ。
「篠宮さん。あなたはなぜ、こんなにもこの事件にこだわるのです?」
僕は穏やかに尋ねた。
篠宮は少しだけ息を吐き、目を細める。
「……亡くなったのは、私の友人だったんですよ。」
その言葉に、僕は一瞬だけ眉を動かした。
なるほど。ならば、彼の執念深さも納得がいく。
「それは……お気の毒に。」
僕は、本気でそう思った。可哀想な人だ。
篠宮の目が、ほんの少し鋭くなる。
「それでは、今日はこの辺で。」
僕は封筒を篠宮に返し、踵を返した。
「…またお会いしましょう。」
背後から篠宮の声が聞こえた。
「ええ、きっと。」
――さて。
この探偵をどう処理するか。
僕は夜の街を歩きながら、ゆっくりと考え始めた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!