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七夕の祭りが終わり
江戸の町に静寂が戻ったその夜。
八百万堂の裏手に広がる古びた井戸の周りだけが、異様な冷気に包まれていた。
「……あ、がっ……!」
瑞樹さんが突然、胸を押さえてその場に崩れ落ちた。
彼の体から、取り戻した「神宝」が凄まじい光を放ち
周囲の湿気をすべて吸い上げるように渦巻いている。
「瑞樹さん!どうしたの?!しっかりして!」
駆け寄ろうとした私の足を、目に見えない「水の壁」が阻んだ。
瑞樹さんの碧色の瞳が、深い、深い水底の色へと沈んでいく。
彼の頭の中に、失われていた数千年の月日が濁流となって流れ込んでいた。
(…見つけた。やっと、見つけた……)
私の耳に、誰の音でもない、瑞樹さんの「懐かしい声」が響き渡る。
それは、今の彼のものではない。
もっとずっと古く、狂おしいほどに誰かを求めていた「水神」の絶叫だった。
瑞樹さんの脳裏に、かつての光景が蘇る。
そこは江戸よりも遥か昔、名もなき時代の村だった。
酷い旱魃が続き、大地はひび割れ、人々は飢え死にゆくのを待つばかり。
天界の法は「人の運命に干渉すべからず」と定め、雨を降らせることを禁じていた。
けれど、若き日の瑞樹さんは見てしまったのだ。
枯れ果てた村の片隅で
自分に捧げるはずの最期の水を、泥まみれの犬に分け与えて微笑む一人の娘を。
(……この娘を、死なせたくない)
たった一度の、神にあるまじき「情」。
瑞樹さんは天界の禁を破り、その村に三日三晩
慈雨を降らせ続けた。
村は救われた。
けれど、その代償として彼は神籍を剥奪され
すべての力を封じられたまま地上へと叩き落とされたのだ。
そして───彼が雨を降らせてまで守り抜いたその娘こそが
数多の輪廻を巡り、今、目の前で泣き出しそうな顔をしている私だった。
「……やはり俺が、この江戸に辿り着いたのは、偶然ではなかったのだな」
光が収まり、瑞樹さんがゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、すべてを思い出した「完全な神」としての叡智と
そして、ひとりの男としての痛切な愛が宿っていた。
「瑞樹、さん……?思い出して、くれたんですか?」
「ああ。さよ。お前が、俺のすべてを狂わせ、そして俺に『心』をくれたのだ」
瑞樹さんは震える手で私の頬を包み込んだ。
今度は、心の声がはっきりと聞こえる。
(……お前だったのか。何百年も、ずっとお前を探していた。お前が笑っている世界を、俺は守りたかったんだ……)
「瑞樹さん、私……なにが、なんだか…」
「お前は何も知らなくていい。ただ、俺がお前を愛しているということ。それだけが、俺の唯一の真実だ」
けれど、感動に浸る時間は与えられなかった。
瑞樹の記憶が戻ったということは、天界が「罪人の覚醒」を察知したことを意味する。
突如、夜空が真っ二つに裂け
黄金の光を纏った軍勢が雲の間から姿を現した。
「罪深き水神・瑞樹よ。そして、神を惑わした人の娘よ。その因果、今度こそ完全に断ち切ってくれよう」
瑞樹さんは私を背中に隠し、腰の刀───
いや、もはやただの鉄塊ではない、水の霊力を纏った神剣を静かに構えた。
「さよ。俺がかつてお前を救うために雨を降らせたこと、一度だって後悔したことはない。……今度こそ、最後までお前の傍にいる」