「常務もいらしたんですね~。
全然気がつかなかったです」
職場に戻る錆人の車で月花は言った。
スープ屋を出るとき、常務と出くわして挨拶したのだ。
「まあ、なんにもまずい話とかしてなかったんで、よかったですけど」
と鞠宮来斗が聞いたら、にっこり微笑んで、
「……城沢?」
と言ってきそうなことを月花は言った。
「そういえば、この間、下請け工場の人たちと飲みに行ったんですよ」
「お前……、俺より打ち解けてるよな」
「そしたら、学生時代の友人たちが同じ店にいて、専務と結婚することがバレてしまったんです。
工場の人たちもいたので、誤魔化すこともできず……。
みんなに知れてしまったので、どうしても専務と結婚しなければいけなくなりました」
「結婚しなければならない理由が増えていくな」
と錆人は笑っていたが、
「そういえば、別れる理由もいりますよね」
ふいに思いついてそう言った途端、何故か息を呑んだようだった。
「だって、偽装結婚だとみんなが思っていないのなら、何らかの別れる理由がいりますよね」
「そ、そうだな。
なんだろうな、別れる理由か……」
別れる理由……。
自分で言っておいて、月花は思う。
あれっ?
困ったな、思いつかないぞ、と。
ある日、月花は錆人に誘われた。
「ゴンザレス、見に行かないか?」
「ゴンザレス、誰でしたっけ?」
と言うと、人間の方じゃない、と言う。
「アルダブラゾウガメの方だ。
ゴンザレスが置いていってしまったんで、今、父親の家の裏に住んでるんだ」
あそこが一番暖かいから、と錆人は言う。
母親の家、父親の家と、どれだけ家があるんですか。
あなたのおうちは、と月花は思う。
「ん? アルダブラゾウガメのゴンザレス?
ゴンザレスさんは弟さんでしたか」
そういえば、専務の弟さんはお金を持ち出して、消えたんだったな。
ゴンザレスさんも失踪したと言っていたし。
ゴンタこと、パーソンカメレオンの話のときは、完全に人から聞いた話な感じだったけど。
アルダブラゾウガメの話のときは、自分で見た感じだったな。
「結構可愛いぞ。
見に行ってみないか?」
と錆人が言う。
休みの日、月花は錆人の車で彼の父の家に向かうことになった。
途中、海沿いの道の駅で休憩する。
「アルダブラゾウガメって、なに食べるんですか?」
と言いながら、月花は土産物コーナーの鶏卵せんべいをつかんでいた。
「……いや、草とかかな」
と錆人は鶏卵せんべいを見ながら言う。
そうか、とそれを戻しかけて気がついた。
お父様の家ということは、アルダブラゾウガメだけじゃなくて、専務のお父様もいらっしゃるのではっ?
「いや、むしろ、何故、ゾウガメだけいると思った?」
と三田村か船木辺りに言われそうなことを月花は思う。
ちなみに、西浦だったらたぶん、一緒に鶏卵せんべいをつかんでいる。
「あのっ、お父様もいらっしゃるのでしたら、なにかお土産をっ」
マリコの屋敷を訪ねるときは、錆人が母親の好みそうな手土産を用意してくれていた。
だが、今回は、なにもないようだ。
ふたたび、鶏卵せんべいをつかんだ月花に錆人が、
「いや、父親は今、日本にいないから」
と言ったあとで、
「……なんで今、ゾウガメとうちの親に同じものをプレゼントしようとした」
と言われてしまう。
いや、ちょっと動転してまして――。
なんでだろうな、と鶏卵せんべいを置きながら、月花は思う。
以前、マリコさんちを訪ねたときは、どうせ偽装結婚だから、挨拶も緊張しないや、と思ったのに。
今は相手がアルダブラゾウガメでも、緊張する気がするな、と。
アルダブラゾウガメが住まう屋敷には人も住んでいた。
アルダブラゾウガメ様のお世話と屋敷の管理をするためらしい。
月花たちは、その人用に、ケーキを買ってお邪魔した。
「いや、これはこれは。
申し訳ございません。
どうぞ、ごゆっくり」
愛想よく椅子まで出してもらい、二人でアウトドア用の折り畳み椅子に腰掛け、ゾウガメを眺める。
広い、特になにもない草ばかりの裏庭をゾウガメはゆっくり歩いていた。
「こいつ、三倍速で回したらちょうどいい感じの動きをするな」
そんな錆人の呟きを聞きながら、
「専務は仕事が休みの日でも、ちゃんと休めない人でしょう」
と月花が言うと、何故だ……と錆人は言う。
管理人のおじさんに聞きながら、オヤツにウチワサボテンをやる。
「こういうのが好きなのなら、お前んちの謎の観葉植物とかも好きかもな」
いや、食べさせないでください……。
まったりとした時間が流れていた。
しばらく二人、黙ってゾウガメを眺める。
食べ終えたゾウガメはこちらに向かって歩いてきているようだが、なかなか近づかない。
「……ゴンサレスもこいつの様子は、たまにこっそり見に来てるらしいんだよな」
あなたまで、弟さん、ゴンザレスって呼んじゃってますよ、
と思いながら、いつ、こっちにたどり着くのかわからないゾウガメを見つめていた。
「カメって、長生きするから、時間がゆっくり流れてるんですかね?」
帰りの車で月花は言った。
「アルダブラゾウガメは二百年生きたりするらしいからな」
「冬眠すると長生き、とかあるんですかね?
時が止まってる感じで。
ゴンザレスも冬眠するんですか?」
「いや、ゴンザレスは寒いと中に入ってくるらしいから、しないんじゃないか?」
「そうですか。
寒いと、冬眠、いいですよね」
「……オフィスはあったかいから冬眠できないぞ」
仕事しろ、と言われてしまった。
その晩、月花は夢を見た。
寒い夜眠ったら、冬眠してしまっていて。
結婚式もなにもかも終わっていて――。
「お前が起きてこないから、仕方ないんで、別のやつ探して、錆人のところ連れてっておいたぞ」
と面倒見のいい西浦が言う夢だ。
特に西浦さんの部分が今にもありそうな。
なんて恐ろしい夢……と月花は思った。
なにをしたらいいんだろうな、と錆人は思っていた。
月花のことが気になるような気がする。
だが、これからどうしたらいいのかわからない。
何度目かの仮縫いをしている月花についてきた錆人は悩む。
仲は悪くない気がする。
うちの親戚とも、月花は上手くやっている気がする。
じいさんにも、母親にも、公子さんにも、カメの方のゴンザレスにも紹介した。
あと誰に紹介すれば、お互いのことを知り尽くしている仲になれるのだろうか、と思いながら、錆人はお手洗いに行こうと外に出る。
仮縫い中についているのは、ちょっと恥ずかしかったからもある。
すると、ドアの外に見慣れた顔があった。
気のせいかな?
と思い、ドアを閉める。
だが、向こうから開けてきた。
目鼻立ちの派手な女だ。
スタイルだけは、月花と似ている。
「錆人っ」
と彼女は自分に抱きついてきた。
「真実の愛なんて、何処にもないわっ!」
「紗南っ!?」
いや、なんでお前帰ってきたっ。
っていうか、ないのか、真実の愛って。
あってくれっ、と錆人は思う。
……これは一体、という顔で、月花と女性店員たちがこちらを見ていた。
「あれが私のために用意されてたドレスか~」
「渡さないぞ。
お前は一度逃げたんだからな」
焼き鳥が食べたい、という紗南の要求に応え、錆人と月花は近くの焼き鳥屋に来ていた。
西浦にお薦めの焼き鳥屋を訊いたら、
「うちで焼いてやる」
と言われたのだが。
紗南が戻ってきてしまったことを知られたくなかった。
「いや、いらないわよ、ドレス。
あんまり好みじゃなかったわ。
っていうか、この人に合うように作り直してあるでしょ。
ずいぶんデザインも変更されてるみたいだし」
と月花を見て言う。
「おめでとう、月花さん、錆人。
錆人、私のおかげね、あんたのハッピーエンドは」
と言いながら、紗南は月花のグラスにグラスをカチンと当てる。
いやまだ、ハッピーにもエンドにもなっていないんだがっ。
まだ偽装結婚式すらやってないのに、何故、帰ってきたーっ、
と錆人は心の中で絶叫する。
「……お前は親戚の女性だってことにしといたからな」
「ほんとうに親戚の女だし~」
と紗南は呑んだくれる。
「月花さん、真実の愛なんて何処にもないわよっ。
気をつけてっ」
紗南はそんな余計なことを言いながら、月花の手を握る。
……俺が真実の愛を信じようとしているのに、お前が疑いはじめるな。
「お前が逃げて、唐人が金持って逃げたから、意外と二人で逃げたのかもと思ってたんだが」
「唐人なんて全然好みじゃないわよ。
あんたとそっくりじゃないの、顔は」
「そうか?」
「なんか雰囲気似てるのよ、似てないようで。
唐人は女のために金がいるとか言ってたわよ。
悪い女に捕まってるのよ。
もう今頃、東京湾に浮いてるわよ。
あんたたちが、ハッピーウエディングーとか言いながら、式のあと、船で周遊とかしてたら、唐人が浮いてるのよ」
「すまないが、八つ当たりはやめてくれないか」
はは……と月花は笑っている。
「私、家に帰れないから、月花ちゃんとこに泊まる~」
「いいですよ~。
ベッドとハンモック、どちらがお好きですか?」
「え?
ハンモック?」
と二人は楽しげに話している。
「じゃあね、錆人~」
二人は月花のマンションに、コンビニで買い物してから帰る、と言って、帰っていってしまった。
俺の真実の愛かもしれないものが、真実の愛を信じない女と行ってしまった。
紗南よ、余計なことを言うんじゃないぞ。
月花が偽装といえども、結婚したくないとか言い出すようなことを言ったりするなよ~っ、
と紗南の後ろ姿に念を送る。
「おはようございます」
朝、専務室前の廊下で錆人は月花と出くわした。
「紗南はどうした」
と訊く。
「真実の愛が復活して帰られました」
……偉く短時間で復活したんだな。
まあ、それでよかったんだが。
あいつ、なにしに来た……。
いやいや、まあ、おかげで、月花への愛に自覚が芽生えたかな。
だが、妙に距離が広がっている、と思いながら、錆人は月花に、
「どうした」
と訊く。
月花の態度を妙によそよそしく感じたからだ。
「いえ……なんかいろいろとお聞きしまして」
紗南ーっ!
「同じ学年の子をこっぴどく振った話とか」
「あれは言い寄られていることに気づかなかっただけだっ」
お前をこっぴどく振る予定もないっ。
「同じ寮の子につきまとうなと言ったとか」
「同じ寮ってだけで察しろ。
そいつは男だっ」
「痴話喧嘩はやめたまえ」
と呆れ顔の常務が現れた。
「聞いてください、常務っ」
「常務を味方につけようとするのはやめてください、専務っ」
「私の周りをぐるぐる回るなっ、幼児かっ」
と二人一緒に怒られた。
いや……このフロアあまり人目がないのでつい、と錆人は月花とともに、慌てて去った。
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