総司のクラスは二年B組だ。懐かしいな。俺もこの高校出身で、同じように二年B組だった。
ドキドキしながら教室のドアを開けて、元気に声を出した。
「おはよー!」
教室にいたクラスメイトたちが一斉にこちらを向いて固まり、何故か鳩が豆鉄砲を食ったような顔になっている。
シーンと静まり返ってしまい、どうすればいいのかわからない。
ていうか総司の席がどこかもわからない。
「おはよう総司君。さっきぶりだね」
「き、君は!?」
とことこ歩み寄ってくれたのは、校門の前で会った美少女だ。
「総司君が自分から挨拶するなんて珍しいね」
「そうなのか?」
社交的な性格ではないにしても、挨拶くらいはしていると思っていたのに。
「えーっと、凛ちゃん……?」
俺がそう呼び掛けると、本人ではなくクラスメイトたちが面白いくらい目を丸くした。
「今、私のこと呼んだ?」
「うん。呼び方ミスった? 苗字のほうがいい?」
苗字知らないんだけど。
「ううん。名前で呼んでくれて嬉しい。『清見』って苗字あんまり好きじゃないから」
「じゃあ凛ちゃんでいいよな」
「何なら呼び捨てでもいいよ」
「あ、そう? そのほうが呼びやすいから凛って呼ぶわ」
俺たちを見ているクラスメイトたちの目玉が、今にも転げ落ちそうになっている。
「総司君っておとなしくて一人が好きなタイプだから、こうやって話してくれて嬉しいな」
「ところでさ、俺の席どこ?」
「ん? 席替えはしていないし、いつもと同じところだよ」
くそっ。やはりこの質問は変に思われるか。
総司の高校生活を深く知らない以上、どうせまた聞かなきゃいけないことは出てくるだろうし、先手を打っておこう。
「実は俺さ、昨日父さんの車に乗ってて事故に遭ったんだ」
「え、本当に!? 大丈夫!? 怪我は!?」
「ああ、うん。俺も父さんもほとんど無傷なんだけど、でも事故のショックで記憶が一部抜け落ちたみたいで席を思い出せなくて」
「普通に学校にきて平気なの?」
「うん。医者にも問題ないって言われてるし」
「そっか。それならいいけど。席はね、こっちだよ」
凛に案内された先は、窓側の一番後ろの席だった。
俺がスクールバッグを置いて机の中を確かめると、信じられないくらいぐちゃぐちゃだった。
くしゃくしゃのプリントやら小さくなった消しゴムやらお菓子のゴミなんかが入っている。
この整理整頓の不得意さは母親譲りだな。
ふと横を見ると隣の席に凛が座っていて、ニコニコしている。
「困ったことがあったら何でも言ってね」
「ありがとな。でもそこまでつきっきりになろうとしなくてもいいぞ。脳は傷ついてないから判断能力は正常だし」
「これも忘れちゃったんだね。私たち隣の席なんだよ」
「へー。そうなのか」
美少女が隣の席だなんて、総司からは一度も聞いたことがないぞ。
高校生ってのは親に秘密にすることも増えてくるものだな。
教科書を机に突っ込んで椅子に腰を下ろしたところで、登校してきた銀髪ギャルが目に留まった。
今時っぽく制服を着崩して、襟のボタンを他の女子より多く外している。その首元には某ブランドのオープンハートのネックレス。けっ。高校生には不相応だろ。金持ちの娘か。
「おはよー」
凛が銀髪ギャルに挨拶すると、彼女はひらひら手を振った。
「凛、おはよ」
俺にとっては初対面の知らない人だが、何も言わないのも失礼と思い彼女の目を見ながら「おはよう」、と言ったが――
「あ、ねえねえ宿題見せてえ!」
ん?
銀髪ギャルはあからさまに目を逸らした。
そして俺の前の席にスクールバッグを投げると、まるで逃げるかのように友達のところに行ってしまった。
ここまで潔く拒絶されると、結構ムカつく。
「なあ、凛」
「なあに?」
「今の子、誰」
「カナンのことも忘れちゃったの?」
「うん。でも本人には言わないでくれ」
「カナンはこのクラスで一番可愛い子」
いや、あんたのほうが可愛いだろ。という言葉を飲み込んで、俺は耳を傾けた。
「明るくて優しくて凄く人気があるんだよ」
「優しい?」
そんな子があんな無礼な態度を取るだろうか。
気持ちを切り替えて、俺は一限目の数学の準備を始めた。
教師は事故の件を知っているからなのか、当てられて答えがわからなくても責められることもなく、様子が多少変でもつっこんでくることもなく、穏やかな時間が流れた。
そうして迎えた昼休み。
俺はトイレに行こうと廊下に出た。
すると廊下でたむろしていた派手な男子グループが声を掛けてきた。
「おい、斉木~。髪をワックスでセットしちゃってぇ。陰キャオタクのくせにイメチェンしたわけぇ?」
「ああ。なかなかいいだろ? 前髪も切ってみた。顔が見えて爽やかになったと思わないか?」
俺はこいつらと総司の関係性を知らないから親しい学友っぽく無難に応えてみたが、外れだったらしい。
派手な男子グループの面々が動揺している。
「お前、どうしたわけ?」
「何が?」
「普通に喋れんの?」
「はあ?」
「いつもは俺たちに話し掛けられたらオドオドビクビクして逃げようとするだろ」
「そうなのか?」
「まるで別人みたいだな」
そりゃあ別人だから仕方ない。
彼らが総司と仲良くないなら、愛想よくする必要はないか。
さっさと立ち去ろうとしたら、様子を見ていた他の生徒たちのひそひそ声が背後から聞こえてきた。
「……斉木君、事故に遭って性格が変わったよね?」
「死に触れる経験をして、人生一度きりだからって生まれ変わろうとしているんじゃない?」
「あの陰キャオタクがそんなに簡単に変われる?」
「そうだよね。ダサい陰キャなのにね」
随分な言われようである。
父親としては彼らの頭をはたいてやりたいが、我慢しなければ。
トイレに向かって舵を切り直したところで、今度は別のチャラい系男子グループが絡んできた。どうしてこうも集団行動なのか。一人では何もできんのか。
「斉木~」
「何か用か?」
「……え? 雰囲気が違くない?」
そういう発言をされるのも飽きてきて、聞き流した。
「で、何か用なのか?」
「ああ……俺たち腹減ってんだよ」
このグループの一人、ヘアバンドで前髪を留めてデコを丸出しにしている色黒のサッカー部っぽい生徒が勝手に肩を組んできた。
「学食か購買に行ってくればいいだろ」
「教室で食べたいんだよね~」
「何か買って教室に戻ればいいだろ」
「……ここまで言えば察してくれるだろ?」
「はあ? 言語化してもらわないとわからんし、俺はトイレ行きたいし――」
「今日はうだうだうるせーな。いいからいつもみたいに焼きそばパン買ってこいよ陰キャ」
いつもみたいに?
俺はヘアバンド男を上から下まで観察した。いかにも中高限定で通用するピラミッド上位者というオーラがプンプンしている。
「断る」
「あ!? てめえ、誰に向かって口きいてんのかわかってんのか!?」
ヘアバンド男は俺から離れると、勢いよく拳を打ちつけて壁ドンしてきた。
汗臭い男子高校生にそんなことされてもまったく嬉しくない。
「斉木なんて俺様の言う通りにしてればいいんだよ。陰キャは陽キャ様にパシリにされる。それが社会ってもんだろう?」
「ふざけんな!」
キッと睨みつけて声を荒げると、ヘアバンド男は一歩後ずさった。
「中学高校で不良ぶって調子に乗ってた奴らっつーのはな、三十代になるとパッとしないことが多いんだ! お前の人生十七歳がピークでいいのか!?」
「はあ?」
「それに人が嫌がることはしちゃいけませんって幼稚園で教わることだろう? 高校生にもなって恥ずかしくないのか!?」
「あ、ああ?」
攻撃一辺倒で反撃には慣れていないのか、ヘアバンド男はしどろもどろになっている。
俺は彼の胸を両手で軽く押して間合いを取り、歩き出した。
トイレの傍には朝に俺の挨拶を無視した銀髪ギャルのカナンが立っていて、心配そうな面持ちで俺を見ている。
いや、見た目の属性的に心配している対象はヘアバンド男か?
「斉木君……」
「へ? 俺?」
朝とは全然違う殊勝な態度で呼び止められて混乱した。
「大丈夫?」
「何が?」
「また絡まれてたみたいだけど」
「あー。平気平気。ていうか俺トイレ――」
やっとトイレに行けると敷居を跨ごうとしたところで、また別の奴に話し掛けられた。総司は人気者だな。
「斉木!」
ガタイのいい、四十代半ばくらいの男性だ。首からホイッスルを提げていて体育教師っぽい。
「また騒ぎを起こしたのか!?」
「はあ? 俺がいつどこでどう騒ぎを起こしたんです?」
「いつも水谷たちとつるんで騒いだりしているだろ!」
「水谷って誰?」
「先生、違います。今日は水谷君たちが騒いでいただけで、斉木君は何もしてません」
よくわからないが、カナンが俺と教師の間に入ってくれた。
「いーや、斉木は根っからの問題児だ」
「ほう?」
「いいか斉木。そんなんじゃ社会に出てからやっていけないぞ」
俺はじとっと、この教師を見つめた。
「先生」
「何だ?」
「社会社会っておっしゃいますけど、先生が知ってる社会はどれくらい広いのでしょうか?」
「俺はもう二十うん年働いてきたベテランだぞ」
「どちらで?」
「え?」
「二十年間ずっと教師をされてきたのですか?」
「え、うん」
「それなら知ってるのは学校だけで、一般社会ではありませんよね?」
「……」
「学校というのは特殊な環境なので、ここしか知らない大人に『社会で通用しない』と言われても説得力がないというか……はっ!?」
マズい、教師が顔を真っ赤にしてプルプル震えている。
「へへっ。いや俺もまだ高校生なので全然社会を知らないんですけどね! はは~」
俺は今にも噴火しそうな教師と困惑しているカナンを放置して、トイレに逃げ込んだ。
「はあ……」
高校生を演じるのも楽ではない。
教室に戻るなり、俺は弁当を持って外に出た。一人になりたいから。
どこもかしこも人生が楽しくて仕方ないという顔の高校生たちで溢れ返っていたが、幸運にも誰もいない場所を見つけることができた。
校庭の外れにある体育倉庫だ。
ここに籠って弁当を食べよう。
束の間のリラックスタイムを過ごし、弁当箱を片付けたところで壁越しに声が聞こえた。
「あのっ、清見さん。僕と付き合ってください」
ほう。昼休みに告白か。青春だな。
大人になるとはっきりと告白しないまま付き合うなんてザラだから、可愛いな。
不良っぽい男子生徒やらパワハラ教師やら、高校生活の嫌な部分を見すぎたからこういうほのぼのとしたもので中和したい。
俺は壁際にある跳び箱の上に膝をついて、上にある小窓からこっそり外を覗いた。
ふむふむ。告白した男子はなかなかのイケメンだ。
女の子のほうは俺の位置だと後頭部しか見えないが――
「ご、ごめんなさいっ」
ん? この声は――
「そ、そんな」
「気持ちは嬉しいけどっ」
鈴を転がすような声。凛だ。
「どうして!? 他に好きな男がいるの!?」
「違うのっ……。私じゃ先輩には釣り合わないから」
「そんなことない!」
「先輩のファンの女の子たちのことを考えると安易な気持ちじゃ付き合えないし」
「それならまずはお友達から」
「ごめんなさい。私男の人に慣れていなくて手を繋いだこともないし、まだ付き合うとか考えられなくて」
「うっ……可愛すぎる……」
男子生徒は自分の制服の左胸を鷲掴みにして悶えている。
あーあ。そんな謙虚な断り方したら男はもっと好きになっちゃうよ。
脈がないならわずかな希望すら持たせないくらいはっきりきっぱり断ってやるのが親切なのに。
まあ女子高生には難しいか。
「俺、自分磨きして出直します!」
男子生徒は逃げるように走り去ってしまった。
ほら、あいつまだ頑張っちゃうじゃん。可哀想に。
とはいえ凛って、本当に優しくていい子だな――
「ちっ、誰があんたなんかと付き合うか。俺モテるんだぜみたいな顔しやがって。調子乗んなっつーの」
――ん?
我が耳を疑って窓越しにキョロキョロしたが、近くにいるのはどれだけ確認しても凛だけだ。
つまり、今の発言をしたのは凛?
頭が真っ白になっていると、凛が動き出したから慌てて窓から離れた。
いやいや、何かの間違いだよな。
事故に遭ったばかりだし、俺もそれなりに疲れているのかもしれない。
ガラガラ
気持ちを落ち着かせようと跳び箱を手でポンポンしていると、体育倉庫のドアが開いた。
最初は逆光で誰かわからなかったが、相手が足を踏み入れたことで顔が見えた。
凛だ。
「ち、ちーす」
俺から変な声が出た。
「総司君……?」
「お、おう」
「どうしてこんなところに?」
「昼飯食べてて」
「体育倉庫で?」
「うん」
「そっか。変わっているね」
「ははは。ていうか凛はどうしてここに?」
「今日当番で、体育の準備をしないといけないから」
「あー、そっか。五時間目は体育か」
「ねえ――」
「ん?」
「何か見たり聞いたりした?」
「別に」
「その反応、見たよね?」
「……」
「ふーん」
跳び箱に腰掛けたままの俺の前にきて、凛が顔を寄せてきた。
「キスでもしたら黙っといてくれる?」
「はあ?」
「キスくらいならいくらでもしてあげるけど」
「待て待て待て! そんなんせんでも黙っとくから、自分を大切にしろ!」
俺は慌てて凛の両肩を掴んで言った。
「いいか。女の子は安易にそんなこと言っちゃダメだぞ。世の中狼とか野獣とか、悪くてどうしようもない男がいっぱいいるんだからな」
凛はぽかんとした顔をしている。
「おっさんの説教みたい」
「悪かったな!」
俺はまだ三十四歳だぞ!
「交換条件なんて出さなくても秘密は守るから!」
「ふーん」
「それにしても意外なギャップだな。教室では清楚の権化みたいな振る舞いのくせに」
「仕方ないよ。演技して上手く世渡りしないと生きていけないし」
「はあ?」
よくわからないが、教室での様子と違ってやさぐれた態度になっている。
「家の奴らがろくでもないから、清楚なイイ子の演技して平和に暮らしたいの」
「大変なんだな……」
「私の演技で騙されている人見るの、嫌いじゃないけどね」
「つまり演技することが好きってことか?」
「そうなのかも? 声優さんのアフレコの様子をミーチューブで観たりするし」
「へー」
「それより、本当にいらないの? こんなに可愛い私からのキスだよ」
「いらん。もうすぐ昼休み終わるし、教室戻るぞ」
俺はつまらなさそうにしている凛を連れて外に出た。
特に会話もない中で距離も取らずに並んで歩いていると、校門傍の創立者の像の前で何かをしているらしき男女が目に留まった。
「あれって……!」
テンションが上がった俺が足を止めると、凛も足を止めた。
踏み台まで用意して、楽しそうに笑い合っている。
俺はその行動に心当たりがある。
「あの人たち隣のクラスのサッカー部の人とその彼女だよね? 何しているんだろ?」
「多分ジンクスだな」
「ジンクス?」
「ああ。あの像の左手の小指に二本の赤い糸を結び付けて、カップルそれぞれの左手の薬指に巻くんだ。そしてキスすれば、そのカップルは結婚するっていう……って、何?」
凛が目を見開いて驚いている。
「どうして知っているの?」
「あの人たちだってやってるんだから、皆知ってるだろ?」
と、思ったら。
「ふー。像を磨き終えたぜ」
「昼休みにこんな罰与えるなんて先生も酷いよね」
像の前で何かしていたカップルは、赤い糸ではなく雑巾を持っていた。
「ジンクスじゃなかったみたい。勘違いだった」
「どうして知っているの?」
「ジンクスのこと? そりゃ昔俺がやった――」
「総司君が?」
「ごめん言い間違い。俺の父さんが彼女とやったらしいんだ」
「総司君のお父さんもこの高校に通っていたの?」
「ああ」
「そっか。このジンクスってだいぶ昔にもやった人がいるんだね」
「だいぶ昔とは失礼な!?」
「だって高二のお父さんって、四十とか五十くらいが多いでしょう?」
「俺の父さんはまだ三十四!」
年齢ネタに反応するのは老いの始まりという説があるが、ムキになってつい強く言いすぎた。
すると凛が黙ってしまったから、俺は慌ててフォローした。
「俺の父さん、中身はおっさんっぽいけどな」
「今年三十四歳なの?」
「うん。若いだろ?」
「総司君は、お父さんが高校生のときの子供?」
「うん」
何だか様子が変だ。心配になったが、チャイムが鳴ったことでそれどころではなくなった。
「やべっ。次体育じゃなかったっけ!? 着替えないと!」
俺は凛の腕を掴んで走った。
「総司君!」
「何!?」
「私は更衣室に体操服置いているから!」
「あ、すまん」
昇降口までの全力疾走につき合わせた後で凛の腕を離し、俺は教室まで駆け上がった。
案の定体育教師には先程の復讐とばかりにネチネチ怒られたが、十年以上会社員をやってきたからこの程度の理不尽には慣れている。
総司のフリは大変だけど何とかなりそうだ。
とはいえ早く元の生活に戻りたいのに、俺の身体はまだ目覚めない――
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