テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
翌朝
雨上がりの澄んだ空気が社を包み込んでいた。
格子戸の隙間から差し込む朝陽が、私の頬を優しく撫でる。
私は、蒼様に貸していただいた古びた小部屋の畳の上で、ゆっくりと身を起こした。
昨夜までの、あの泥にまみれた忌々しい白無垢はもうない。
代わりに、社で見つけた藍色の古着を身に纏う。
少し丈が長く、袖をまくり上げなければならなかったが、その重みが不思議と心地よかった。
村で「厄災の子」として物置に閉じ込められていた時とは違う、自由な朝。
「さて……まずは腹ごしらえ、かな」
生贄として捧げられた私が、この場所でまず最初にしたこと。
それは、社の隅にある台所の掃除だった。
台所といっても、煤けた竈があるだけの殺風景な場所だ。
けれど、私にとっては宝の山に見えた。
村の家では、私は家族の残り物か
冷めきって固まった粥しか口にすることを許されなかったからだ。
自分の手で火を熾し、自分のために、あるいは誰かのために料理を作る。
それは幼い頃からの、密かな、けれど何よりも贅沢な憧れだった。
私は裸足のまま社の裏手へ回り、雨露に濡れて瑞々しく輝く山菜をいくつか摘んできた。
棚の奥を覗けば、カチカチに乾燥して石のようになった干物を見つけた。
竈に火を入れ、丁寧に干物を炙る。
パチパチとはぜる音と共に、香ばしい醤油と潮の香りが、煤けた天井へと立ち上っていった。
「……お前。朝から、何の騒ぎだ」
低く、涼やかな声が背後から降ってきた。
振り返ると、そこには寝起きのせいか
いつもより少しだけ髪を乱した蒼様が立っていた。
宝石のように鋭い緑の瞳が、眩しそうに細められている。
「あ、蒼様!おはようございます。勝手に台所をお借りしてすみません。朝餉ができたんです。よろしければ、一緒にいかがですか?」
蒼様は、板の間に並べられた質素な献立───
山菜の和え物、炙った干物
そして湯気を立てる炊きたての麦飯を、無表情に、けれどどこか居心地悪そうに見つめた。
「……おい、神が、人間の食い物など口にすると思うか?」
拒絶の言葉。
けれど、その視線は隠しきれない好奇心で揺れている。私はあえて明るく返した。
「えっ……でも、とっても美味しくできたんですよ?」
「毒なんか入れようものならすぐに分かるからな?」
「毒なんて入ってませんし……!それじゃあ蒼様は人間でも食べて生きているんですか?」
「馬鹿を言え。そんな不味そうなものは喰わん」
蒼様は呆れたように大きな溜息をつくと、観念したようにのそりと板間に腰を下ろした。
私が差し出した塗り箸を、彼は大きな、けれど不器用そうな手つきで受け取る。
「……毒味だ。変なものを置いておかれて、社が汚れるのも不快だからな」
そんな言い訳を呟きながら、彼は山菜を一口、口に運んだ。
私は、自分の心臓の音が聞こえるのではないかと思うほど緊張して、彼の横顔を見つめた。
もし口に合わなかったら。もし怒らせてしまったら。
「………………」
咀嚼の音が止まり、蒼様はふっと視線を落とした。
「……悪くない」
「本当ですか!?」
「お前は毎回声が大きいな……味付けが少し濃いが、食えなくはない、と言っただけだ」
ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、彼の手は止まらなかった。
石のように固かった干物も、彼が噛みしめるたびに旨みが溢れ出しているようで
気づけば一膳のお茶碗は綺麗に空になっていた。
「ふふ、良かったです。村では『厄災』だなんて散々言われてましたけど、料理だけは自信があったんです。明日はもっと美味しいものを作りますね!」
「明日も作るつもりか……」
「もちろんです! 私、ここにいさせていただける間は、蒼様の専属料理人になりますから!」
「そんなことをしてお前になんの得がある、ご機嫌取りのつもりか?無駄だぞ」
「そ、そうじゃなくて!生かしてもらっている限りは…自分にできることをしなきゃと思ったんです。もちろん、蒼様のご要望があれば何でも聞きます」
「なら、俺に死ねと言われたら死ぬのか?」
「…はい。でも、言われないように…尽力します」
私が屈託なく笑うと、蒼様は一瞬だけ、毒気を抜かれたような顔をした。
「……勝手にしろ。ただし、焦がして火事を起こすなよ。…それと」
#ハッピーエンド
#婚約破棄
蒼様は立ち上がりざまに、私の頭を大きな手で「ポン」と軽く叩いた。
それは、村の誰も私にしてくれなかった、優しい仕草。
「……ごちそうさん、だ」
低く呟かれたその言葉と、頭に残る掌の温かさに、私の胸はトクンと跳ねた。
厄災の子として疎まれ、誰の役にも立てないと思っていた私が、生まれて初めて誰かに「必要」とされ、感謝されたのだ。
頬が熱くなるのを感じながら、私は空になったお茶碗をぎゅっと抱きしめた。
この不器用な龍神様の隣なら、私は「小春」という一人の人間として生きていけるかもしれない。
そんな予感がした。