確かに聞こえた。ユーアが泥濘族の集落で吹いていた音楽の一節だった。荒野の無聊を慰めるような物悲しい調べだ。
底なし沼に沈んでいくユカリの気持ちを引き上げるようにネドマリアがその肩を掴んだ。
「どこにいくの? ユカリ。そんな顔、駄目だよ、この広場から出るつもりならね。行きたいところにいけなくなる」
「今、ユーアがいたんです」
「ユーア?」
掻い摘んで話す。ユーアという少女と出会って、別れたこと。幼いながらにとても強力な魔法を使えるから滅多なことにはならないだろうけれど、心配であること。
ネドマリアがしかめっ面を浮かべる。「ちょっと待って。その子、口がきけないの?」
「はい。原因はよく分からないですけど。聞いた話では幼い頃から……」そこまで言ってユカリは己の愚かしさに気づく。「ああ! そうだ。私はなんて馬鹿なんだろう。ユーアは笑い声の呪文なんて唱えられない。どうしよう。ネドマリアさん。このままじゃユーアは『深み』に!」
「落ち着いて」と言ってネドマリアはユカリの頬を両の掌で優しく包む。「難しいだろうけれどね。どんな時でも思い出せるようにして、楽しい気持ち、嬉しい気持ち。ユカリまで迷い込んでしまう」
その手の温かさを感じてユカリは落ち着き、ネドマリアを心配させまいとぎこちなく微笑みを浮かべる。「はい。すみません。もう大丈夫です」
応えるようにネドマリアも微笑みを浮かべる。「よし。すぐに見つかるからね。我らが迷宮都市ワーズメーズの大黒柱、迷わずの魔導書にかかればね。どこにだってたどり着くことが出来るんだから」
「でも自分が道に迷わなくなるだけですよね。人を探すことは出来るんですか?」
ネドマリアは頭を横に振って答える。「直接は出来ない。けど工夫次第。メーズワーズにかけられた呪いを逆用する。人探しなんて容易いよ。私は迷子のよく導かれる場所を巡るから、ユカリはユーアを探すことに専念して」
そう言ってネドマリアの温かい手に引かれるままに歩いていく。今までで最も奇妙な散策だった。いや、目的があるのだから探求と言った方が良いだろう。
十一代目委員長の石像を半周すると議事堂の前にたどり着き、逆回りするとどこかの食堂に入る。扉を開けると壁があり、その壁を蹴って扉を閉めると既にどこかの裏路地にいた。
いつの間にか水の中にでも潜っているかのように二人は無言で歩いている。歩くにつれ、すれ違う人々が遠くに行ってしまうようにユカリには感じられた。すぐそばにいながらお互いに別の存在になってしまったかのようだ。
少し動物に変身した時の感覚に似ている、とユカリは思った。普段自分の持っていない感覚で観る世界は違って観えた。意味のある言葉で記された立て看板がただの壁になり、逆にただの壁は己が挑むべき試練のように思えた。意味が有ることと意味が無いことの境目が薄れていく。これがいわゆる『深み』にはまっていく状態なのだろう、とユカリは実感した。見えない呪いに絡めとられ、絡めとられるほど異界へと沈んでいくのだ。
それでも研ぎ澄ました自分の目と耳は探求の果てにユーアの姿を捉えた。ネドマリアを制止して、ユーアの方に指をさす。ミーチオン地方にある無数の神話を屋根に彫り刻んだ巨大な橋を、渡ろうとしているところだった。そのまま真っすぐに行ってたどり着けるのか、ユカリにはちっとも分からないので全てネドマリアに任せる。
「良かった」とネドマリアは言って安心したように溜息と共に笑う。
ユカリはその言葉の意味があまりにも薄いように思え、同時にあまりにも多様なように思えた。良かった、というのは天気が良かったという意味だろうか。ユーアが可愛らしいという意味だろうか。この街は複雑だという意味だろうか。それとも、それとも。
ネドマリアがぎゅっとユカリの手を握る。そこには決して手を離さないという意味が込められている。
「お昼寝橋だね。大丈夫、すぐに追いつくよ。さあ、ユカリ。楽しいことを思い浮かべて」
今度は魔導書の力で、笑い声の呪文で迷いの呪いを切り開いて突き進む。ネドマリアの言う通り、呆気ないくらいすぐに追いついてしまう。
幅広く人通りの多いお昼寝橋が跨いでいる水道は、元はこの街の地の底に魔性の輩と共にわだかまっていた地下水だ。引き上げられ、清められ、数多の噴水として地上に飛び出すと、無理に喜びと共に一つにまとめ上げられて、この街では珍しいくらいに真っすぐに西へと流れていく。
ユカリはユーアの小さな背中を見つけ、ネドマリアの手を引いて駆け出す。後ろから近づき、ユーアの肩を掴む。驚かせてしまい、ユーアは跳ねるように振り向いた。そうして冷たい目線をユカリとネドマリアに向ける。
肩を弾ませて息をしつつ嬉しさを隠さない抑揚でユカリは言う。「良かった。ユーア。元気みたいだね」
ユーアが口笛でごく短い音を奏でると、「しばらくぶり」とネドマリアが言った。
ユカリは驚いてネドマリアの方を見る。ネドマリアも驚いて自分の口を押えている。
人形遣いの魔法でネドマリアを喋らせたらしい。ユカリがパディアたちと実験した時にも人間を動かすことは出来たが、それは完全に無抵抗の脱力状態の相手だけだ。少しでも抵抗すると糸が千切れるみたいに容易く魔法は解けてしまう。
今ユーアがやったことは抵抗される前に一言喋るだけだったから可能だったのだろう。
「一つだけ教えて」と言ってユカリはユーアと同じ目線まで屈み、その両手を包む。「そもそも最初の時点で、私たちが泥濘族の村を訪れた時点で、誰が生きていて誰が死んていたの?」
ユーアはネドマリアの方を見ているがネドマリアは何も言わない。
「私を操っていいから」と言ってユカリは出来る限り力を抜く。そうしてユカリの口は勝手に語りだす。「そもそもあの盗賊が村を襲ったんだってば。皆が殺されて、あたしを含めた何人かが捕まったんだ。そこで魔導書を盗み見て会得した。村のみんなを生き返らせて反撃した。まあバダロットを倒せなかったから、いつまで経っても決着がつかなかったけどね。質問の答えはこう。あんたたちが村に来た時に生きてたのはあたしとバダロットだけ。ああ、そうね。盗賊たちの方はあくまで推測だけど。何でそんなことが知りたいの?」
そこまで言ってユカリは黙り、そして再び自分の意志で口を開く。
「その答え次第で私のユーアへの考え方が変わってしまうからだよ」
ユカリとユカリが会話を続ける。
「なるほどね。あたしの罪深さを測ったってわけだ。それで、あたしは合格した?」
ユカリはそれには答えず、再び尋ねる。「ユーアはこれからどうするの?」
「一つだけって言ったのはユカリでしょ。あたしはもう行くから」
ユカリにそう言わせて、ユーアはユカリの手を振りほどいた。
ネドマリアがユーアの背中に忠告する。「それ以上進まない方が良いよ。特に君はね。どこにも行きつけなくなる」
「別に行きたいところなんてないから、ちょうどいいね」とユーアはユカリの口を借りて答えた。
ユカリはユーアの背中をじっと見据えたままネドマリアに言う。「すみません。ネドマリアさん。私、あの子のそばにいます」
「私も付き合うよ?」
「ありがとうございます。でも、私がユーアの力になりたいんです」
ネドマリアは小さくため息をつく。「分かった。楽しいことだけ、忘れないようにしてね」
ユカリは頷き、ユーアを追いかける。
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