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Side 美緒
果歩に絡まれてから数日後。
宮里医院で診察を終えた私の顔は、だらしなく緩んでいた。
なぜなら、やっと、ギブスが取れたのだ。
片手の生活は本当に不便だった。
顔を洗うのも、洋服を着替えるのも、何もかも思い通りにならなくて、時間ばっかり掛かってしまっていた。
今日からは、そんなイライラからは解放されるし、着たい服も着れる。
それに、お風呂にゆっくり入れるのは、うれしい。
「そうだ、入浴剤を買って帰ろう!」
軽い足取りで駅に向い、駅ビルの中に入っているコスメショップに立ち寄った。
入浴剤と一口で言っても、バラの香りやヒノキの香りなど色々ある。
優柔不断な私は、どれを選ぼうか迷ってしまう。
香りだけじゃなく、ハート形やお花の形の可愛いパッケージのギフトセットも気になる。
「そうだ、三崎君と里美にもプレゼントしようかな」
いつもお世話になっているふたりにお礼がしたい。
入浴剤なら、プレゼントしても気を使わせずに済むはずだ。
三崎君には、小瓶に入っている落ち着いたデザインの物。里美には、お花の形の華やかな物を選んだ。
それをレジに持って行き、ギフト用にラッピングしてもらう。
包装が出来上がるのを待って居る間、周りが気になってしまうのは、この前デパ地下で野々宮果歩に声を掛けられたから。
買い物中に声を掛けられたのは、ショックだった。
何時、また、どこで、遭遇するのかと思うとトラウマになっている。
でも、あの時会ったおかげで、決心がついた。
果歩に突き落とされた一件は、示談などにせず、告訴することを。
引っ越し先の部屋に帰り着き、玄関のカギをしっかりを施錠する。
いくらオートロックがついているマンションとはいえ、なにかと物騒だから気をつけるに越したことはない。
初めてのひとり暮らしは、楽しみも多い反面、不安もある。
キッチンでコーヒーを淹れ、マグカップを両手で包み込むように持つと、その温かさにホッとして、緊張が解けた。
何の気なしにテレビをつけてしまうのは、寂しさからなのかもしれない。
今の時期は、日が暮れるのも早くて、窓の外は真っ暗で月も見えなかった。
「はぁー、せっかくギブスがとれたのに、独りだとごはん作るの、面倒くさい」
健治と暮らしていた時は、夫婦共働きだから手の込んだ物など作らなかったけれど、それでもなるべく手作りの物を食卓に並べるようにしていた。
生活が落ち着き、いい意味でも悪い意味でも『ひとりなんだ』と実感が湧いてくる。
すると、スマホから着信音が鳴りだした。
画面には、『健治』と表示されている。
健治とは、緑原総合病院の病室で離婚届を渡したとき以来、会っていなかった。
条件反射のように心臓が早く脈打つ。
私は、恐る恐るスマホの画面をタップした。
「もしもし……」
「……美緒、電話に出てくれてありがとう」
健治の声を聞くだけで、胸がギュッと苦しくなる。
それが、過去への思いなのか、自分ではわからなかった。ただ、上手く言葉が出てこない。
「……うん」
「具合はどう?」
「ギブスが取れたの」
「……良かった。美緒の都合が良い時でいいんだ。会って、話しがしたい」
日曜日、私は自宅マンションのエントランスホールの呼び出しスイッチを押した。
「開けたよ」と健治の声が聞こえて来る。
エレベーターに乗っている間、緊張で指先が冷えているのか、無意識のうちに両手をすり合わせていた。
健治に会ったら何を言おうか、考えが上手くまとまらなかった。
玄関前まで辿り着き、私はインターフォンを押した。
家の鍵も持っているけれど、勝手に入るのは、おかしい気がしたからだ。
ガチャと玄関の扉が開いた。
「おかえり」と言う健治の声に反射的に「ただいま」と返していた。
笑顔を向けようとしても、顔が引きつっているみたいで、上手く笑えているのかわからなかった。
少し悲しそうに眉を下げる健治の顔をみると、訳もなく胸が苦しかった。
ダイニングテーブルを挟んで、向かい合わせ座る。久しぶりに正面から見た健治の顔は、疲れの色が浮かんでいた。
「美緒……体調はどう?」
「……おかげ様でこの通り。ギブスも取れて、明日から仕事にも復帰するの」
「そう、順調に回復したみたいで良かった」
「……うん」
「引っ越し先の部屋で、不便はない?」
「とりあえず、なんとかやっている」
離婚届を書いてくれたのか、荷物を持ち出してもいいのか、言わなければならない事があるのに、言葉がでない。
ぎこちない空気がふたりの間に流れ、沈黙が落ちてくる。
すると、硬くなった空気をほどくように健治がメモリスティックをテーブルの上に置いた。
「まず、これを渡しておくよ」
「……何の?」
「先日、野々宮がこのマンションに現れて……」
この前、デパ地下で果歩に呼び止められた時、確かに果歩は健治と会ったと自慢げに言っていた。
ただ、今の健治の口ぶりだと、果歩が一方的に押しかけて来たのだというのが伝わってきた。
「果歩がこのマンションに?」
「ああ、待ち伏せされていて……。その時に車のドラレコで撮れた映像と音声だ。野々宮が美緒を押したと言う証言が入っている」
果歩本人の証言が、このメモリスティックに……。
これから、告訴に動こうとしているタイミングで、これは大きな証拠になる。
手を伸ばし、それを握りしめた。
「……ありがとう、健治」
「いや……。俺の責任なのに、こんな事しか出来なくて、すまない」
そう言って、健治は頭を下げる。
そして、テーブルの上にゆっくりと封筒を置いた。
「……これ、この前、美緒から渡された離婚届だ。サインしてある」
離婚届……。
自分が望んでいた事なのに、健治の言葉に衝撃を受ける。
視線が、封筒から動かせない。
とうとう、健治との結婚生活が終わるのかと思うと、鼻の奥がツンとして、視界が歪んでくる。
「今まで……ありがとうございました」
やっと言葉を絞り出した。
泣かないつもりだったのに、涙がこぼれ落ちていく。
健治とは、長い片思いの末にやっと結ばれた。
そして、永遠の愛を誓ったはずだった。
「俺こそ、美緒には感謝している。本当に……結婚出来て幸せだった。美緒が与えてくれていた居心地の良さに甘えすぎてしまって……悪かったと思っている」
「……私はこの先、一生、健治と添い遂げるものだと思ってた。それに……健治と過ごした時間を、全部忘れるつもりはないの。たくさん笑ったし、たくさん幸せだと思えた。でも……もう、無理なの。ごめんね」
果歩との不倫を知って、本当に辛かった。けれど、一度は許そうと思った。
でも、心の中に根付いてしまった疑念は晴れなくて、ずっと苦い気持ちを引きずっていた。そして、2度目の裏切りと果歩からの攻撃に、疲弊してしまった。
「いや、謝らないでくれ。俺は本当に……美緒がいなくなる未来なんて考えもしなかった。でも、俺はそれを自分で壊したんだよな……」
「うん、信頼を失った状態で結婚生活を続けるのは、もう私には無理なの。どんなに頑張っても、心の中に残る疑念が消えない」
「……ごめん」
「健治のこと、大好きだったんだよ」
「……過去形なんだな」
そう言って、健治は私を真っすぐに見つめた。
その瞳は、赤く充血していて、涙を必死に堪えているようだった。
離婚届を出したら、別々の道を進む。
本当に好きだった。だからエールを送る。
「私、頑張るから……健治も頑張って……お互い幸せになろうね」
置きっぱなしにしていたキャスターバッグに、荷物を詰めている間も、楽しかった思い出がよみがえり、胸が苦しくなる。
このキャスターバッグを持って、健治と海辺のホテルに泊まったとか、この服を着て、一緒に映画を見に行ったとか、一つ一つの物が過去の記憶と重なる。
前を向いて進むと決めたのに、どうしても振り返ってしまう。
泣きたい気持ちをグッと堪えて、唇を噛みしめていると、健治の声が聞こえて来る。
「他に持って行くものある?キッチン用品は?」
家具とかは、新しい部屋に合わせて少しづつそろえて行くつもりでいる。
今日は、自分の服をキャスターバッグに入る分だけ持って行こうと思っている。
キッチン用品は、圧力鍋とかブレンダーとか、こだわりって買った物は持ちだしたい。けれど、服で手一杯だし、配送するにも段ボールの用意がない。
「……また、別の日に取りに来ていい?」
「ああ、いつでもいいよ。今日は退院したばかりだし、荷物あるなら車で送ろうか?」
私は、首を横に振った。
離婚するのに送ってもらうのは、違う気がしたから。
「タクシー拾うから大丈夫」
「……そうか、じゃあ、タクシーの手配するよ」
「ありがとう」
キャスターバッグいっぱいに洋服を詰め込んだ。それでも、コートやジャケットはハンガーにかかったまま、手に持つとかなりの大荷物だ。
それに見かねた健治が、手を差しだした。
「マンションの前にタクシーが来るから、そこまで持つよ」
「ごめんね。ありがとう」
それから、少しして私はマンションの前で、健治に見送られながら、タクシーに乗り込み、車の窓から健治を見上げた。
健治は昔のような優しい瞳で私を見つめる。
「今度、荷物取りに来る時、連絡するね」
「……わかった。連絡待ってるよ」
車がゆっくりと走りだし、私は前を向いた。
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