テラーノベル
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雨が降ると、昔のことを思い出す。
それに気づいたのは、いつだっただろう。
たぶん。
あの日からだ。
*
「三枝、ちょっといい?」
最初は、本当に小さなことだった。
昼休み。
教室の後ろで、誰かが俺の机を蹴った。
「……何?」
「別に」
笑い声。
俺は振り返らなかった。
気にしなければいい。
そう思った。
次の日。
机の中にゴミが入っていた。
その次の日。
上履きがなかった。
その次の日。
弁当がなくなった。
誰がやったのか。
そんなの、考えなくても分かっていた。
でも、何も言わなかった。
言えなかった。
「三枝くん、最近大丈夫?」
先生に聞かれたことがある。
「大丈夫です」
そう答えた。
「本当に?」
「はい」
大丈夫。
大丈夫。
大丈夫。
そう言っていれば、本当に大丈夫になる気がした。
ある日の放課後。
教室に残っていると、窓を雨が叩き始めた。
ザーッ、と。
大きな音だった。
その音に混ざって。
「……死ねばいいのに」
誰かが言った。
笑い声。
椅子を引く音。
扉が閉まる音。
そして。
静かになった。
俺は一人だった。
窓の外を見る。
雨が降っている。
いつもより、ずっと強い。
「……帰ろ」
鞄を持つ。
でも。
立ち上がれなかった。
手が震えていた。
どうしてなのか分からない。
怖い。
何が怖いのかも分からない。
ただ。
誰にも会いたくなかった。
誰にも見られたくなかった。
こんな自分を。
「……」
机に突っ伏す。
雨音が大きい。
何も考えなくて済むくらい。
そのとき。
教室の扉が開いた。
「……あれ?」
顔を上げる。
そこにいたのが、叶さんだった。
まだ、その頃は名前も知らなかった。
三年生。
生徒会長。
学校にあまり来ない人。
それくらいしか知らなかった。
「まだいたんだ」
「……はい」
「帰らないの?」
「……」
答えられなかった。
叶さんは、俺の顔を見た。
それから。
机の周りを見る。
散らばったゴミ。
床に落ちている教科書。
少し濡れた鞄。
「……何されたの?」
「何も」
「そっか」
叶さんは、それ以上聞かなかった。
ただ。
俺の隣の席を引いて座った。
「……帰らないんですか?」
「傘さすの面倒くさい」
「え?」
「止むまで待つ」
そう言って、窓の外を見る。
俺は何も言えなかった。
しばらく。
二人で雨を見ていた。
やがて叶さんが言った。
「ねえ」
「はい」
「これ、君がやったの?」
「……違います」
「じゃあ、君が悪いの?」
「……」
答えられない。
叶さんは少しだけ首を傾げた。
「なんで黙るの?」
「……分かんないです」
「そっか」
また、雨の音。
「じゃあ、分からないなら僕が決めるね」
「……何を?」
「君は悪くない」
「……」
「少なくとも、これで君が悪い理由にはならないでしょ」
その言葉が。
ずっと頭に残った。
そのとき初めて。
誰かに「お前は悪くない」と言われた。
そのとき初めて。
俺は泣いた。
「……すみません」
「なんで謝るの」
「分かんない……」
「じゃあ、謝らなくていいよ」
叶さんは困ったように笑った。
「僕、泣いてる子にどうしたらいいか分かんないんだけど」
「……」
「だから、もうちょっとだけここにいる」
雨が止むまで。
叶さんは、本当に隣にいてくれた。
*
「明那?」
「……え?」
顔を上げる。
目の前に、緑がいた。
「どうしたの?」
「いや」
生徒会室。
窓の外は、今日も雨だった。
いつの間にか、昔のことを考えていたらしい。
「ぼーっとしてた」
「寝てた?」
「寝てない」
「そっか」
緑は俺の隣の椅子に座った。
「雨、嫌い?」
「……」
少し考える。
「昔は」
「昔は?」
「嫌いだった」
「今は?」
「……分かんない」
緑は何も言わなかった。
ただ、窓の外を見る。
「僕は好きだよ」
「雨?」
「うん」
「意外」
「なんで?」
「だって寝坊するじゃん」
「それ雨関係ないでしょ」
「ないか」
二人で笑う。
そのとき。
扉が開いた。
「ただいま」
「叶くん」
叶さんだった。
「遅い」
緑が言う。
「ごめん」
「何してたの?」
「寝てた」
「また?」
「うん」
「会長がそれでいいの?」
「いいんじゃない?」
「よくないやろ」
楓さんが呆れたように言った。
俺は笑った。
「かなかな」
「ん?」
叶さんがこっちを見る。
「今日、雨すごいですね」
「そうだね」
「傘、持ってきました?」
「持ってるよ」
「ならよかった」
「何?」
「いや……」
なんとなく。
安心した。
叶さんがここにいる。
それだけで。
「……かなかな」
「なに?」
「なんでもないです」
「変なの」
叶さんが笑う。
その声を聞きながら、俺は窓の外を見る。
雨が降っている。
昔は。
雨が降ると、あの日のことを思い出した。
一人だった教室。
濡れた教科書。
誰にも言えなかったこと。
泣くことすら、許されない気がしていた。
でも今は。
雨が降ると。
あの日、隣に座ってくれた人を思い出す。
そして。
今、隣にいる人を見る。
「……」
叶さんは、楓さんに何か言われている。
「かなかな、仕事してや」
「今やってる」
「それ五分前から言っとるやん」
「心の中では進んでるから」
「意味分からん」
緑が笑っている。
俺も笑う。
ここにいると。
雨の音が嫌じゃない。
*
帰り道。
「明那」
「はい?」
「一緒に帰る?」
叶さんが傘を持っていた。
「いいんですか?」
「うん。方向同じだし」
「……じゃあ」
俺は傘を開いた。
叶さんも傘を開く。
二本の傘。
並んで歩く。
「かなかな」
「なに?」
「雨、嫌いじゃないんですか?」
「嫌いだよ」
「え」
「濡れるし」
「じゃあ、なんで一緒に帰るんですか」
「明那がいるから?」
「……」
足が止まりそうになった。
「冗談」
「……びっくりした」
叶さんが笑う。
「明那って、すぐ信じるよね」
「信じますよ、そりゃ」
「そっか」
雨が傘を叩く。
一定のリズム。
不思議と落ち着く。
「僕ね」
「はい」
「昔から雨の日って嫌いだったんだよね」
「……俺もです」
「でも」
叶さんが少しだけ前を見る。
「雨の日って、静かだから」
「静か?」
「うん。みんな早く帰るし」
「……」
「誰かと話すには、ちょうどいいんだよ」
その言葉に。
胸が少しだけ苦しくなった。
昔。
俺が一人だった雨の日。
叶さんは、隣にいてくれた。
今。
俺は、叶さんの隣にいる。
同じ雨なのに。
全然違う。
「……かなかな」
「ん?」
「俺」
「うん」
「かなかなに会えてよかったです」
言ってしまった。
叶さんがこっちを見る。
「急だね」
「……なんとなく」
「そっか」
叶さんは笑った。
「僕も」
「え?」
「明那に会えてよかったよ」
雨音が大きくなる。
俺は前を向いた。
顔を見られたくなかった。
たぶん。
今、すごく嬉しそうな顔をしている。
*
家に帰ってからも。
叶さんの言葉が頭から離れなかった。
『明那に会えてよかったよ』
何度も思い出す。
布団に入っても。
目を閉じても。
「……なんだこれ」
胸が変に熱い。
嬉しい。
それは分かる。
でも。
それだけじゃない気がする。
俺はスマホを手に取った。
叶さんとのトーク画面を開く。
何か送ろうとして。
やめる。
また開く。
やめる。
「……俺、何してんだ」
結局。
何も送らないまま、スマホを伏せた。
窓の外。
まだ雨が降っている。
叶さんを思い出す。
――それが、少しだけ嬉しい。
この頃の俺は。
まだ知らなかった。
憧れと恋の境目なんて、どこにも線が引かれていないことを。
ただ。
叶さんのことを考える時間が。
日に日に増えていることだけは。
もう、気づいていた。
コメント
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第4話、読み終わりました。雨の日が“一人で耐えるだけの日”から“誰かが隣にいてくれる日”に変わっていくの、すごく沁みました。あの教室で叶さんが「君は悪くない」って言った場面、何度も読み返しました。今の明那さんが叶さんの隣で笑えるようになったのが、たまらなく嬉しいです。ラストの「憧れと恋の境目」の一文、心に残りました。素敵な作品をありがとうございます。