東京の空は、朝から重たい雲に覆われていた。
その曇天は、まるで都市全体にうっすらと灰色のフィルターをかけたかのようで、どこか気怠く、そして不穏な空気を漂わせていた。
風が、細く長く鳴いた。
肌寒い空気が街路樹の枝葉を揺らし、舞い落ちた数枚の葉が舗道に転がる。
人々の吐く息が白く曇り、急ぎ足の通行人のコートの裾が忙しなく翻る。
その中に、ひときわ目立つでもなく、埋もれるでもなく、どこか浮いたように歩く一人の青年がいた。
直弥。
肩に掛けた重たいトートバッグの中には、大学で使う教科書やノートがぎっしり詰まっている。
時間割通りの講義を終え、いつものように練習スタジオへ向かう道すがら、彼はふと足を止めた。
商業ビルの間から覗く空を、しばらく無言で見上げる。
「今日も……うまくいくかな」
自分に向けているのか、それとも誰かに届けたいのか。
つぶやきは、白い吐息とともに空に溶けていった。
直弥の瞳には、ほんの少しだけ、不安と期待の入り混じった光が揺れている。
普通の大学生。
そして、もう一つの顔。
彼はアイドルだった。
ステージに立ち、ライトの海を浴びながら、全身で歌い、踊る。
仲間たちと過ごす時間はかけがえのないものだったし、ファンの笑顔や声援は、何よりも自分を支えてくれる源だった。
「なおや、今日も最高だったよ!」
「やっぱ、君のダンス、キレが違うよね!」
そんな言葉をもらうたびに、直弥はこの道を選んだことに小さな誇りを持てていた。
けれど、最近――。
心のどこかに、引っかかるような違和感があった。
はじまりは些細なものだった。
誰かの視線。
どこかから、自分を見つめる気配。
最初は、思い過ごしかと思った。
疲れた日常のせいで神経が過敏になっているのかもしれない。
でも、その“気のせい”は、日を追うごとに形を持ち始めた。
ある日、大学からの帰り道。
通い慣れた路線の電車に揺られていたときのことだった。
後ろの座席から、じっと感じる視線。
スマホの画面に視線を落としているふりをしながら、背筋がうっすらと粟立つのを感じていた。
(……なんか、見られてる)
振り返ると、そこにはスーツ姿のサラリーマンが座っているだけ。
一見、何の変哲もない光景。
でも、その目が、まっすぐこちらを見ていた気がした。
心臓が、ひとつ脈打つ。
そのあとも何度か同じようなことがあった。
何気なく立ち寄ったカフェで。
夜遅くにスタジオからの帰り道で。
人混みの中でふと振り返ると、視線の主が消えた後だった。
怖かった。
けれど、その中には、ほんの僅かな興奮も混じっていた。
そんな日々の中で、ある夜、決定的な出来事があった。
楽屋のロッカー。
いつも通りのレッスン後、汗をぬぐって着替えようと扉を開けた直弥は、そこに一つの包みを見つけた。
小さな、丁寧にリボンが結ばれた包み紙。
宛名はなかった。
誰からのものかもわからない。
中には、手書きのメモと、小瓶に詰められた純粋な蜂蜜が一つ。
──「なおや の喉、今日は少し乾いてたよね。ちゃんと蜂蜜のお湯飲んで」
その文章を読んだ瞬間、心が凍りついた。
(……どうして……?)
今日は確かに、リハーサルの後半で喉に違和感があった。
水を何度か含みながら、音を外さないように神経を尖らせていた。
けれどそれを、誰にも言っていない。
マネージャーにも、メンバーにも。
気づかれないように、平然を装っていたはずだった。
次の日には、また違うメモが。
──「足、左だけちょっと引きずってたよ。ステップのとき気をつけてね」
小さな捻挫をしていた左足首のこと。
家で湿布を貼り、誰にも言わずに過ごしていたはずだった。
ゾッとした。
けれど、背中が痺れるような甘い熱もあった。
自分の些細な変化を、誰かが、見ている。
自分のことを、誰よりも理解してくれている。
夜。
一番弱くなる時間。
布団の中、スマホの光だけが部屋を照らしていた。
誰にも知られていない、自分だけの鍵付きアカウント。
そこに、ほんの一言だけ呟いた。
《今日、ちょっとだけ辛かった。ファンの前じゃ笑えたけど、本当は泣きたかった》
その数分後。
通知が鳴る。
知らないユーザー名。
フォローもしていない。
鍵アカウントだから、見えているはずがない。
《君はちゃんと見られている。誰よりも、深く》
言葉が、体の奥に刺さるようだった。
恐怖と興奮が入り混じる。
スマホを握る手が震えた。
続けざまに、もう一つ。
《ずっと君だけを見てきたよ、なおや》
電気を消した部屋の中。
たった一人なのに、どこかに視線を感じる気がして、思わずカーテンを閉めた。
けれどその時には、すでに彼は、知らず知らずのうちに――その視線の主の“世界”に、足を踏み入れていたのだった。
コメント
2件
最高すぎます😭😭😭神すぎる🥹💖