小雨が降っていた。
しとしとと、静かに、優しく、けれど確かに体温を奪っていく細かな雨粒。
空は一面の雲に覆われ、灰色のフィルターが街を鈍く包んでいた。
光を反射したアスファルトは冷たく濡れ、信号の赤や青が水たまりに滲んで、まるで現実が夢の中のようにぼやけている。
スタジオでの練習を終えた直弥は、手提げのバッグを肩にかけたまま、建物の前に立ち尽くしていた。
傘は持っていなかった。
朝は晴れていたはずだ。
予報も確認しなかった。
薄手のパーカーのフードを深く被り、雨粒から逃げるように足を踏み出す。
湿った空気が頬にまとわりつき、冷気が襟元から忍び込んだ。
夜の街は、どこか静まり返っていた。
車のタイヤが水を切る音と、遠くから聞こえるクラクション。
人影はまばらで、誰もが足早に帰路を急いでいる。
けれど、直弥はその雑踏の中で、また、感じていた。
――視線。
交差点の反対側、閉まりかけのコンビニの前。
建物の陰。
何気ない通行人の顔の向こう側。
確信にはならないほど曖昧で、けれど振り払えない感覚が、喉元をじっとりと濡らす。
(また……だ)
じわりと指先が冷えていくのは、雨のせいだけではなかった。
最近の直弥には、“偶然”とは思えない出来事が重なっていた。最初は気のせいで済ませた。
でも、それは次第に薄く滲んだ染みのように、日常を侵食し始めたのだ。
帰り道を変えても、どこかから視線が追ってくる。
夜道を歩けば、後ろから足音がついてくる。
駅のホームでは、数メートル先からレンズを向ける誰かの姿がある。
シャッターの音すら聞こえない。
けれど、確かに“見られている”のだと肌が訴える。
プレゼントも、増えていった。
最初は、楽屋のロッカー。
次は、練習スタジオのドアノブ。
しまいには、自宅マンションの郵便受けの中に。
ラッピングされた小さな箱、封筒、香りのするカード。
《頑張ったね。今日はよく眠れるように、ラベンダーを添えて》
――手書きの文字。
整った字。
綺麗な直線と、柔らかなカーブ。
心がざわついた。
なぜ、こんなにも知っている?
直弥がどんな香りを好み、どんなスケジュールで動いているのか。
今日どの振り付けに苦戦していたか、声が少しかれていたこと。
誰にすら言っていない、たった一言の独り言さえも、誰かの手の中にある。
(これ、普通じゃない)
けれど、誰にも言えなかった。
この恐怖を誰かに打ち明けるには、確信がなさすぎる。
笑われたくなかったし、誰かを巻き込みたくもなかった。
マネージャーに話しても、きっと最初は気のせいだと受け流される。
仲間には……言えなかった。
言ってしまった瞬間、日常の何もかもが崩れてしまいそうで。
だから、ただ、黙っていた。
スタジオでは、いつも通りの空気が流れていた。
音楽が鳴り、鏡の前でステップを踏む仲間たちの笑い声が響いていた。
その中心にいるのは――永玖。
端整な顔立ちに柔らかな笑顔。
誰にでも平等に接し、誰からも慕われていた。
その存在は、安心感と信頼の象徴だった。
今日も、彼は変わらず、明るい声で周囲を笑わせていた。
「なおや、最近ちょっと元気ないんじゃない?」
突然の問いかけに、直弥は肩を跳ねさせた。
永玖が、すぐ隣に立っていた。
まっすぐな瞳が、真剣にこちらを見つめている。
「無理してない? 悩みがあるなら言ってよ。俺、頼りにされたいし」
(まさか……)
喉元まで込み上げた疑念は、言葉になる前に飲み込まれた。
永玖の笑顔は、いつもと変わらない。
けれど、どこか――ほんの少し、違和感があった。
その目の奥に、何かを押し殺すような深さがある気がした。
穏やかで、優しくて、それでいて……底知れない。
その夜、直弥は部屋の明かりもつけず、真っ暗な中でスマホを握っていた。
画面に浮かぶのは、自分だけが使っている鍵付きアカウント。
誰にも教えていない。
友達にも、メンバーにも。
そこに、そっと呟きを投げた。
《誰にも言えない不安がある。誰か、助けて》
ほんの3分後、通知が鳴った。
《僕は知ってる。君の不安も、孤独も。全部、そばで見てきた》
背中に冷たいものが走る。
この文体。
このリズム。
静かに囁くような、けれど心の奥まで突き刺すような文面。
直弥は、それを既視感として感じていた。
永玖の声に――似ている。
話し方の癖。
言葉の選び方。
句読点の位置さえも。
今まで気づかないふりをしていた。
でも、今はもう、目を逸らせなかった。
(まさか……永玖が……?)
胸が締めつけられるようだった。
信じたくなかった。
けれど、心の奥に根を張った疑念は、静かに広がっていく。
――まるで、永玖は最初から、すべてを知っていたのではないか?
直弥はスマホを胸に抱き、ベッドの端にうずくまった。
暗闇の中で、時計の秒針だけが規則的に音を刻む。
その音が、まるで誰かの足音のように感じられた。
コメント
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何故こんなに上手いのか不思議になるくらいほんとに書き方がどタイプ過ぎます🥹🥹