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家へ戻ると、
森よりも濃い静けさが
ふたりを包んだ。
エリオットはなるべくいつものように笑って
木の実を机へ置き、
「……少し、休むね」
と囁くように言った。
イチは彼の袖を掴んだまま一度うなずく。
エリオットは身体の重さを隠しながら
ソファへ腰を下ろした。
木は壁に立てかけられ、
浅く息を吸うたび胸が僅かに上下する。
イチは
ソファのそばに立ち、
じっと彼を見つめていた。
どうすればいい――?
その問いだけが
心の中で何度も反響している。
けれど
声は出ない。
表情も動かない。
だから代わりに
イチは視線を
部屋の中へゆっくりと巡らせた。
見慣れない物ばかり。
小さな棚に、乾いた薬草の束。
細い紐でまとめられ、
ところどころ色が薄い。
イチは近づき、
手を伸ばそうとして――
指先を木の縁にとどめた。
勝手に触れてはいけない気がした。
だから
触れないまま、見る。
(これを使えば……助けられる?)
けれど
その使い方を
知るはずもない。
彼女は本を読まない。
いや、本の存在に興味すら抱かない。
何かを学ぶためではなく、
ただ
その場の“手ざわり” だけで
世界を感じている。
だから
机の上の古い書物へ
手を伸ばすことはなかった。
イチはゆっくりと振り返り、
エリオットをもう一度見つめる。
彼は目を閉じ、
浅い呼吸で眠っていた。
苦しそう、ではない。
ただ、
静かすぎる。
呼吸が止まってしまいそうで、
イチは彼の胸元へ視線を落とした。
規則的な上下。
かすかな息。
生きている。
そう確かめて、イチはすこしだけ
その場で膝を折った。
床に座ると
エリオットに近くなる。
それが、今できるいちばんのこと。
しばらく
ふたりは動かないまま時間が過ぎた。
夏の光は
ゆっくりと傾き、
窓から差す風は
まだ温かかった。
イチは何度もエリオットの呼吸を見た。
手は伸ばさない。
けれどほんの少し
膝が彼の足に触れる距離にいた。
それだけで、安心できた。
そのとき――
エリオットは少しだけ目を開けた。
「……近くに
いてくれたんだね」
かすれた声。
イチは小さくうなずいた。
その動作だけが
返事のすべて。
エリオットは弱々しく笑い、
「ありがとう」
と呟いてまた目を閉じた。
その言葉が
イチの胸に
静かに沈んでいく。
“ありがとう”
初めて誰かの気持ちが自分の中に
やさしく流れ込んできたようだった。
感情はまだ
外へ出ない。
表情は動かない。
それでも――
心が、ほんの少しだけ
熱を持った。