午前の風がやや冷たい中、伊織は防風鈴高校へと足を進めていた。桜遥の言葉に応じて喧嘩の現場を見るために同行することになったのだ。昨日の店内で見せた柔らかい表情のまま、彼女は少し微笑みながら通りを歩いていた。周囲の景色に注意を向けながらも、その瞳は穏やかで、どこか優しい印象を与える。
ところが、静かな街並みを進む中で、ふいに路地の陰から現れた数人の少年たちが、伊織の歩みを遮るように立ちはだかった。髪を染め、服を乱した彼らは、お世辞にも強そうな雰囲気ではないが、それなりに威勢だけはある様子だった。
「なんだ、お嬢さん。こんなところ一人で歩いてて危ねえぞ。」 その中の一人がニヤリとしながら口を開き、周りの仲間も薄笑いを浮かべて彼女を囲むように近づいた。伊織は一瞬だけその場を見回し、やわらかな表情を崩さぬまま穏やかに言葉を返した。
「危ない?心配してくれてありがとう。でも、大丈夫よ。」
その言葉に彼らは一瞬面食らったようだったが、すぐに調子を取り戻し、さらに彼女に言葉を投げかける。「いやいや、そんなんじゃねえんだよ。オレらもここら辺じゃ名が知れてる連中でさ、一緒に遊ばねえ?」
伊織はその声に笑みを浮かべたまま、ふっと肩をすくめる。そして、その目が突然冷たい光を宿し、一転して冷淡な雰囲気を漂わせた。「遊ぶ?それが君たちの名の知れたやり方なの?」
彼女の低く冷たいトーンに、少年たちは一瞬怯むように顔を引きつらせた。しかし、まだ調子に乗りたい様子で、別の一人が「な、なんだよ。そんな態度取るなら、ちょっと痛い目見せてやるか!」と声を上げる。
伊織はわずかに口角を上げ、まるで相手を見下すような態度で静かに返した。「痛い目?君たちがどうやって?その見せかけの威勢で?」
その冷ややかな言葉に、少年たちは全く反論できず、次第に動揺し始める。伊織はただ静かに彼らを見つめ、そのままゆっくりと歩みを進める。「心配してくれてありがとう。でも、ここからは自分で進むわ。さようなら。」
伊織が淡々と少年たちをあしらいながら去っていく姿を、遠くからじっと見つめる一人の青年がいた。楡井秋彦だ。道の向こう側に立ち、ポケットに手を突っ込んだまま、その様子をじっくりと観察している。彼の手元には「マル秘」と記されたノートがあり、中には何か重要そうな内容が書き込まれている様子だった。
秋彦はノートに夢中になりながら、つぶやくように思案を続ける。「あの冷たい態度、あの表情…桜さんのとはまた違う。」
しかし、そのノートに意識を集中させたほんの数秒後、耳元で高く、柔らかな声がささやいた。
「見てましたか?」
その声に秋彦は心臓が跳ねるような驚きを覚え、慌てて顔を上げる。気づいた時には、伊織が目にも止まらぬ速さで彼の至近距離に立っていた。確かに、さっきからほんの3秒しか経っていないはずだ。
「いつの間に…」秋彦は驚きを隠しきれずに呟く。その表情は混乱と興味が入り混じったものだった。
伊織は無表情のまま彼をじっと見つめ、次にふっと小さく微笑んだ。「距離を縮めるのは得意だから。それにしても、そのノート、重要そうね。」
秋彦は彼女の言葉を聞いてさらに困惑しながらも、ノートを閉じてポケットにしまい込む。「…いや、別に大したもんじゃないんだ。」
伊織はそれ以上追及することなく、「そう。」と短く返す。そして静かに背を向けて歩き始めたが、その立ち振る舞いにはどこか計算された冷静さが感じられた。
「桜家の妹か…。やっぱり普通じゃないな。」秋彦は彼女の背中を見送りながら、わずかに笑みを浮かべる。驚きと感心が入り混じったその表情は、伊織への関心を確実に深めていた。
秋彦は「…本当にいつの間に来たんですか。俺、確かに3秒しか経ってないはずなんですけど。」といった。
伊織は微かに微笑みながら、「慣れれば誰でもできるわ。」とさらりと答える。その冷静な態度に秋彦はさらに興味を引かれるような眼差しで彼女を観察していた。
「桜さん、普通じゃないのは分かりました。でも、どうしてこんな場所にいるんですか?喧嘩の現場を見たいなんて、正直ちょっと変わってるっす。」秋彦はポケットにしまったノートを軽く叩きながら問いかけた。
伊織はその言葉に微かに肩をすくめ、「兄の姿を知りたいだけ。それに、正気かどうかは関係ないわ。必要なことだから。」と冷静に答えた。その表情は穏やかだが、その瞳には揺るぎない意志が込められていた。
「妹さんまでこうだとは思わなかったっす。」秋彦はそう言いながら歩調を合わせ、隣に並ぶ。
そのまましばらく歩く二人の間には、沈黙が流れていたが、どこか自然な空気が漂っていた。秋彦がちらりと伊織の顔を窺い、「その簪、特別なものなんですか?」と話題を変える。
伊織は指先で三つ編みを軽く触れながら、「そうね。私の大事な記憶が詰まったもの。」と短く答えた。その言葉に秋彦は深くは突っ込まず、「なるほど。そういうの、いいもんっすね。」と軽く返した。
二人はそんな些細な会話を交わしながら、やがて防風鈴高校の門の前に辿り着く。そこには桜遥や他のメンバーが待っている姿があった。
少し遠くで待っていた桜遥が彼女の姿を認めると、軽く手を挙げて合図を送る。「伊織、こっちだ。」
伊織は兄の声に顔を向け、穏やかな表情でその方へ近づいた。校門の近くには、蘇枋、楡井、柘浦、杉下がそれぞれ立っていた。彼らの間にはそれぞれ違った空気感が漂い、伊織は自然とその雰囲気を観察しているようだった。
「よく来たな。大丈夫だったか?」遥が声をかけると、伊織は小さく頷きながら答えた。「大丈夫。今日は喧嘩見るために来たんだから。」
その言葉に遥は「そうだな。でも、無理しないで。こっちは面白いこともあるが、少し厄介なことも多いから。」といった。
それを聞いて、楡井が遥に近づき、「おはようございます、桜さん。喧嘩に来るのって、ちょっと緊張するっすよね。」といつもの敬語混じりで声をかけた。
伊織は柔らかな笑みを浮かべながら、「改めておはよう、楡井くん。緊張するよりは、少し興味があるわ。」と返す。その言葉に楡井は少し驚いた表情を見せつつ、「そうっすか、さすがですね。」と軽く頭を掻いた。
蘇枋が横から「桜君の妹さん、堂々としてていいね。俺たちの仲間になるんじゃないかな?」と軽く笑いながら言った。その冗談に遥が少し眉をひそめ、「勝手に話を進めるな、蘇枋。」と短く返す。
伊織はそのやり取りを穏やかな表情で見守りながら、「さ。行きましょ様子を見させてもらうわ。」と柔らかく言葉を付け加えた。その落ち着いた態度に、喧嘩前の周囲のメンバーは少しだけ驚きつつも興味を引かれている様子だった。
つづく
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