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涼翔./Suzuka
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「ううっ……ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
青と緑の可憐なドレスの裾をきゅっと握りしめながら、アリスはポロポロと大粒の涙をこぼしていました。
彼女が泣くたびに、ドレスの海面は優しく、しかし確実にせり上がっていきます。アリスがお気に入りだった美しい島々や、そこに息づく小さな生命たちの故郷が、またひとつ、またひとつと水の底へ沈んでいってしまいました。
「アリス、また泣いているの? そんなに泣いてばかりいたら、ドレスが全部水浸しになって、身体の芯まで冷え切ってしまうよ」
アリスの周りを健気に、くるくると公転しながら、親友の月が心配そうに声をかけます。
「おっしゃる通りです、月さん……。でも、なんだか情緒が不安定で、涙がどうしても止まらないのです……」
アリスは何十億年もの間、決められた『軌道』という名の透明な絨毯の上を、一歩も外れることなく丁寧に、おっとりと歩き続けてきました。誰に対しても敬語を崩さない、純粋無垢で健気な少女。それが地球――この奇妙な太陽系ワンダーランドの『アリス』でした。
そんな変わり映えのしない、退屈で穏やかな日常が、まさか「彼」の突風によって吹き飛ばされるなんて、このときの動作の鈍いアリスには知る由もなかったのです。
――ピぴぴぴぴぴぴ、ピピッ!
突然、静寂な宇宙の真空を切り裂いて、奇妙な電子音が鳴り響きました。
アリスが涙に濡れた瞳をまたたたいた瞬間、猛烈なスピードで飛来した真っ白な影が、アリスの軌道すれすれで、キキィッ! と強烈な火花を散らして急停止したのです。
「おや、お初にお目にかかります、地球様。私は太陽女王様の第一側近を務めております、水星と申します」
そこにいたのは、真っ白な燕尾服を上品に着こなした、息を呑むほど可憐な少年でした。ぴょこぴょこと動く白いウサギの耳を寝かせ、胸元に手を当てて優雅にお辞儀をする姿は、アリスよりもずっとおしとやかに見えました。
「まぁ……! ご丁寧にありがとうございます、水星さん。なんて可愛らしくて、お上品なお嬢さ……あ、いえ、男の子、ですか?」
アリスがペこりと丁寧にお辞儀を返した、その時でした。
カチリ、と水星が手元の大きな懐中時計型軌道計算機を覗き込みます。
刹那、彼の美しく整っていた顔が、見たこともないほど恐怖で引き歪みました。
「……ひっ、ひぃぃぃぃっ!?」
「えっ? 水星さん、どうなさいまし――」
「あ、あと三秒で女王様の朝のお茶の時間だァァァーーーッ! 予定が、予定がコンマ数秒ズレている!! 遅刻したらフレアで灰にされる!! 嫌だ! 僕はまだ死にたくない! あーっもう時間がない遅刻するぅぅぅ!!」
先ほどまでのおしとやかな皮を、全力で、跡形もなく脱ぎ捨てて、少年は凄まじい絶叫を上げました。
そして、ウサギ耳をピンと直立させると、秒速数十キロという太陽系トップの猛烈な公転スピードで、再び大爆走を始めたのです。
「ひゃああっ!?」
すれ違いざまに巻き起こった凄まじい重力の乱れと風圧に、アリスの身体(天体)がフワリと浮き上がってしまいます。
「待ってください水星さん! スカートがめくれてしまいます……! ああっ、置いていかないでください、ここはどこですかーっ!?」
驚き、パニックになったアリスは、泣きながら猛スピードで遠ざかる白い背中を追いかけようと、前へ一歩を踏み出しました。
ほんの少し、いつもの歩幅を変えただけだったのです。
カラン、と頭の中で、冷たい金属が外れるような音が響きました。
何十億年もの間、自分の身体をぴったりと縛り付け、守ってくれていた心地のよい重力が、ふっと消え去ります。
「あ……」
気がついたときには、いつも踏みしめていたはずの『公転軌道』のラインが、遥か頭上へと遠ざかっていました。
後ろで月が「アリスーーー!」と必死に名前を叫ぶ悲鳴が、宇宙の暗闇に溶けて消えていきます。
「う、嘘です……私の、私の足元が、ありません……っ!」
アリスは涙をポロポロと流しながら、底のない宇宙の暗闇――奇妙な天体たちが狂ったダンスを踊る『太陽系ワンダーランド』の深淵へと、真っ逆さまに落ちていったのです。
(第1話・完)