テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
― 最終日「八月三十一日」 ―
夏が、終わる。
風の色が変わった。蝉の声が静かになった。
田んぼの稲は少し黄金色を帯びて、空は高く、遠くなった。
八月三十一日。
僕は今日という日を、何度迎えただろう。
同じ夏を、同じ終わりを、何度も、何度も。
けれど、今年は違う。
澪が「終わらせよう」と言った夏だ。
*
「来てくれて、うれしい」
神社の石段。
あの日と同じように、澪はそこにいた。白いワンピース、麦わら帽子。
でも、なぜかとても遠くに感じた。
「ほんとはね、怖かったの。
“終わり”って、もう二度と会えないことだって思ってたから。
でも――今は、違う」
「違うって……?」
「きっと、大切な人の記憶って、消えないんだよ。たとえ姿が消えても、ここに、ちゃんと残る」
彼女は胸に手を当てた。
その動作が、あまりにも静かで、悲しくて、美しかった。
「私ね、本当はもう、生きていないの。
小さい頃にこの村の川で溺れて、それから……
気づいたら、ここにいたの。毎年、夏になると」
言葉はとても穏やかだった。
まるで、事実のように、当たり前のことのように。
「……澪」
「あなたと過ごした夏は、全部夢みたいだった。
でもね、それだけじゃなかった。
あなただけが、私を“見つけて”くれた。
何度でも、ここに来てくれた。何度でも、名前を呼んでくれた。
それだけで、私、うれしかったんだよ」
涙が、こぼれた。
彼女のじゃない。僕のだった。
「だから、もういいの。
私、行くね。
この夏で、本当に、終わりにする」
風が吹いた。
神社の鈴が鳴った。
空が、茜から群青に変わっていく。
「ありがとう。私、あなたに会えて、ほんとによかった――」
次の瞬間。
そこにいたはずの澪は、もういなかった。
ただ、風の音と、白い花弁がひとつ、ふわりと空に舞っていた。
*
次に目を覚ましたとき、僕は東京の自宅の布団の中にいた。
夏休みは終わり、始業式の支度をする母の声が聞こえる。
窓の外には、秋の気配。
でも、胸の中にだけ、確かに残っている。
あの夏、あの場所、あの子の声。
僕は静かに胸を叩いた。
「もう一度だけ、あの日を」
その願いは、もう、叶ってしまった。
終わった夏の奥底で、あの白い花は、まだ咲き続けているのかもしれない。
- 完 -
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!