弟の智樹がいったいなにを言っているのか。晴子には、意味が分からなかった。
「なにを……言っているの。智ちゃん。どうして……」
「おれの居場所は、あの学校にはないんだよ。晴ちゃん。……自分が自分であることを認められない現状が、どれほど、人間を不自由にするのかを、知っているかい……? 晴ちゃん。
エリート意識にまみれたおれは、思い切ってああいう学校に行ってみたけれど。入ってみないと、分からないものだね……学園生活ってやつは」
「――智樹が決めたことなら、母さんは、反対しないわ」
「お母さん!」
悲鳴に近い声を、晴子は、あげた。だが動ぜぬ様子で虹子は、
「学費のことがちょっと心配だけれど。事情を話して、お父さんにも頑張って貰わないとね……。母さんは、あなたの意志を尊重したいと思っているわ……。ごめんなさいね、智樹。あなたが、苦しんでいることに気づかないで……申し訳ないと思っています」
「……や、おれ、結構強がってたから。無理があったんだ。友達の熱田(あつた)さんが卒業生で、彼とさっき電話で話して。せっかくだからと学校にも電話をしてみて、すごく、……親身になってくれて。いまのところ、印象は、すこぶるいいんだ……。
日本の中学って組織的っつうか、個性を潰すようなところがあるからさ……。三重のその学校は、全国からそういう子どもたちがいっぱい来るんだってさ。いじめに遭ってた子たちがいるから、スクールカーストなんかも存在しない。すごく、居心地のいい場所だって、ぼくの信頼する熱田さんが、熱心に語ってくれてさ……」
「自分の本心に基づいて行動なさい。――智樹」
勝手に話が進んでいく。気づけば、晴子は、涙を流していた。その様子に気づいたのか、智樹が、顔をしかめ、
「……ごめん。姉さん。おれは……」
「――それ以上は、もう、――聞きたくない!」
たまらず、晴子は、自室へと逃げ込んだ。
以降、智樹が旅立つ日まで、晴子は、智樹との接触を避け続けた。
「馬鹿かおまえは」
翌週、土曜日。部活帰りに、圭三郎の家に立ち寄ってみれば、そのような言葉が待っていた。
「そんなの、あいつ……。誰のことを想ってあいつがそうしたと思っている? ちったぁ考えろ」
「馬鹿とはなによ……馬鹿とは」
ふくれっ面で、晴子は、メイを可愛がる。「可愛いねえーメイたーん」
「……しかし、来月から休校になるんだから、あいつの転校もどうなるか……分からないな」
「あーそれは上手く行ってるみたい」と晴子。「向こうはほらさ、受け入れる態勢バッチシみたいで、三月下旬には、もう、向こう行くみたい……」
安倍首相が、コロナウィルスによる非常事態を宣言してから二日が経過している。三月から突然学校は休校することに決定し――ただし、判断は自治体に委ねられる――現場は混乱しているようだ。この様子では、卒業式が行われるかすら定かではない。
それに、――演奏会のほうも。
これまで、ずっと準備をしてきた。吹奏楽部に入部してからの三年間、すべての情熱を音楽に注ぎ込んだ。その集大成と言うべき、定期演奏会の開催が、危ぶまれている。有名アーティストのライブが当日に中止になったりと、日本全国で自粛の波が広がっている。よって演奏会どころではないだろう。
智樹は、姉の卒業を見届けて旅立つと言っている。嬉しいような、悲しいような……。弟の決断を、まだ彼女は受け入れられない。毎日、どんなときも一緒に過ごしてきた弟が、突如消えうせるのだ……。そんなことは、想像だにしなかったというのに。
「……寂しくなるな」
と圭三郎が言う。晴子が目を向ければ、思いのほか、圭三郎は神妙な顔つきで、
「あいつのことは、最強で最悪のライバルだと思っていたからな。消えるとなると、こっちもやる気が出ねえっつうか……。なんというかな……」
言葉を濁す圭三郎の背を、やさしく晴子は叩いた。「圭ってば。寂しいなら、寂しいって言いなさいよ……」
「――おれでは、あいつの代わりには、なれない? 晴子」
まっすぐ、射抜くような瞳に捕らえられ、身動きが取れない。
「晴子――おれは」
頬に手を添えられ、なにかしらの感情に染め抜かれた圭三郎の視線に絡めとられ、晴子は、言葉を無くす。――わたしは、
「あの……、その……」
顔を背けようとしたそのとき、
「晴ちゃーん! 圭三郎ー! 降りてきなさいー! 下でお茶でも飲みましょうよー!」
階下から朝江に呼ばれ、二人の間に漂う甘い雰囲気は、たちまち焼失した。
「……おまえは、馬鹿か。必要もないのに、家を、出るな」
三月に入ると、学校も部活もないので、暇になる。
自宅にいると智樹と顔を合わせることになり、気まずいので、石田家に逃げ込んだ。
「……時間は、限られてんだぞ。素直になれよ。この先、おまえは、どのくらいの期間を、あいつと過ごせるかも、分からないんだぞ。付属の高校もあると、聞いている。下手したら五年間――いや、向こうで就職なんかされちまったら、あいつと、もう、一緒に暮らせないかもしれないんだぞ!」
最後は怒鳴りつけられ、晴子は苦笑を漏らした。「圭って案外、熱いやつなんだね……」
「馬鹿たれ!」鼻から息を吐くと圭三郎は憤然と立ち上がり、「馬鹿たれくそったれみそっかす! おれは、……あいつに惚れ込んでいるおまえを、懐柔するのが目的なんだ! んな、死んだ魚のような目ぇしてるおまえなんざ、惚れさせても面白くなんかねーよ! バーロー!」
最後は小さな名探偵のごとき台詞を吐く。そのさまに、小さく晴子は、笑った。
このところ毎日、石田家に通い詰めている。マスクを着用、手洗いを厳重にしたうえで。朝江のほうは晴子の来訪を喜んでおり、いつも、揚げたてさっくさくのかりんとまんじゅうをご馳走してくれる。お陰で晴子は近頃、体重計に乗れずじまいだ。
「……分かっているわよそんなの」
メイが回し車でくるくる遊ぶのを見つめる晴子は、
「そんなの……。後悔するの、わたしだって分かっている。でも――認めるのが、怖いの」
視界が、滲んでしまう。
「指折り数えているんだよ。あと何日、智ちゃんと一緒に過ごせるのかを……。
でも、いざ、智ちゃんを前にすると、ああこのひと居なくなっちゃうんだ……。わたしの世界をすべて捨てて、このひとは新しい世界を選ぶんだ、って……憎しみとか悲しみとか一挙にがーっと押し寄せてもう、わけわかんなくなっちゃうんだ。
苦しめるくらいなら、もう、……避けたほうが、いいじゃない?
智ちゃんの新しい旅立ちを祝福出来ない、姉なんか……いないほうが、いいんじゃ、ないか、って……」
「――晴子」
背後から圭三郎のぬくもりが伝わる。
拒む余裕など、彼女のどこにも残っていなかった。
「――好きよ。好きなの……智ちゃんが……」晴子は、泣きじゃくりをあげ、「離れたく――ないの。生まれたときからずっとずっと一緒だったんだよ……。なのに、わたしを捨てて彼は、新しい世界を選ぶの。姉なら――本当に彼を愛しているのなら、笑顔で、彼を、見送ってやりたいのに……ついね。いつものように憎まれ口を叩きたくなっちゃって……。自分が、暴走するのが、怖いの……」
「――晴子。晴子っ……」
抱き締める圭三郎の力が強くなる。
「ごめんね……圭。逃げ道としてあなたを利用するなんて、最低だなんて、分かっている。……でも、怖いの。怖くて怖くてたまらない……。
智ちゃんと、離れるのが。
智ちゃんに、嫌われるのが……。
きっといま智ちゃんに会えば、変なことぶちまけちゃって、ますます嫌われるのが分かっている……だから、近づけないの。
彼を失ったら、わたしの人生どうなっちゃうのか……想像も出来ない……。
怖いの。怖いよ……」
ぎゅうと抱き締められ、ひとのぬくもりを、恋しく感じる。昔は、こうして、どちらかに悲しいことがあったときは、必ず、抱き締め合った。ふたりでひとつ。二人が揃って初めてひとつだったのだと、改めて思い知らされる。
いま、この場で抱き締めて欲しい男は、石田圭三郎ではない。
思い浮かぶのはたったひとり。
西河晴子がこころの底から求める魂は、この世に、ひとつしかないのだ。
晴子が思い切り想いを吐き出し、泣き続けるさなか、ずっとずっと圭三郎は、背後から、晴子をあたため続けてくれていた。が、そのぬくもりを介しても、晴子のひび割れたこころには届かなかった。
朝食と昼食と夕食の場で、顔を合わせるが、直視出来ない。
コロナウィルスに関する深刻な話題、それから学校の状況など、極めて事務的な話題を振りまいた。
顔を合わせる智樹は、平静な顔をしており、そのことが、また、晴子には悔しかった。――なによ。わたしを置き去りにして行くのに、なんでそんなポーカーフェースをするのよ。馬鹿じゃないの。
あのいっとき。魂と魂を触れ合わせたあれは、なんだったのだろう……。
智樹のクールな表情を見るほどに、彼女のなかで、怒りや悲しみの感情が膨れ上がっていく。その感情は、とても、一言では言い表せなかった。
月日は、誰に対しても、平等に、残酷に流れゆく。
やがて、智樹が、三重の学校寮に移り住むため、いよいよこの自宅マンションを離れる日が、やってきた。
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