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昼休みが終わりそうな頃、私たちはオフィスに戻る前にコーヒーを購入した。美玲はどうやら先ほどの(たぶん)イケメンらしき男性のことが気になるようだ。
「総務の子に聞いてみる。私の予想だとグループ会社から来た人だよ」
「詳しいね」
「噂で聞いたのよ。もしフリーだったら頑張ってみよっかな」
「応援してるわ」
「ありがと!」
美玲と別れて私は自分のオフィスへ向かうためにエレベーターに乗った。
ちょうど昼休みから戻る人たちでぎゅうぎゅうになる。
エレベーターが閉まりそうなとき、若い女子社員が乗り込んできた。
「すみませーん、乗りまぁーす!」
女子社員は無理やり身体を押し込んできて、全員がうしろへ下がる。
「……ったく、次にしろよ」
誰かの声が背後から聞こえてきたが、周囲はただ黙ってこの時間が過ぎるのを待っているようだった。
次の階でエレベーターが停まり、一気に数人が降りていく。
その際、女子社員は押されて転んでしまった。
「大丈夫?」
手を差し伸べると、女子社員はえへへへっと頭をかきながら派手にネイルをした手で私の手を掴んだ。
「派遣の扱いってこんなんばっかなので慣れてまーす」
やけに明るい女の子だなあと思った。
彼女は「ありがとーございまーす」と言って自分の仕事場へ向かった。
エレベーターが静かに閉まった。
うちの会社は電子機器等の部品を取り扱う、いわゆるサプライヤーである。
大手電機機器メーカーの子会社で、主に部品製造をしている。
とはいえ、誰もが知っている電気機器を発売する会社を本体にしており、メーカーの売り上げがそのまま傘下の経営に直結するほど密な役割を担っている。
私は22歳でこの会社に入り、今年で7年目。
品質保証部という厄介な部署に配属となったが、多くのトラブルや理不尽にも耐えて、今は主任としてある程度部下をまとめる役割を担っている。
優斗は営業部で、若い女子社員たちからモテている。
それを本人は嬉々として語る。
ただ、事業成績があまりよくないことが難点である。
彼はふわっとした性格なので特に価格交渉が苦手なのである。
そのことで上司に何度も叱られては家で私に愚痴っていた。
私はもちろん黙って話を聞くだけ。
最初の頃はアドバイスなんかしてみたけれど、そのたびに彼は不機嫌になった。
「女が男にアドバイスとかどんだけ上から見てんの?」
そう言われてしまってはもう何も言えなかった。
納品したモノに問題があったり、クレームがあると調査をして報告書をまとめる。原因を探るための膨大な量のデータ収集と細かい分析が必要で、ときには深夜に及ぶこともある。
同じ年齢の女性の平均年収よりも高めだが、その分心身ともに疲弊する。
それでも仕事が終われば買い物をして帰り、夕食を作って明日のお弁当の準備をして、それからお風呂のあとに洗濯をまわして、浴室乾燥機能で衣類を乾かす。
翌朝はお弁当作りと朝食を用意して優斗を起こす。
それから急いでメイクをして出社する。
これをもう3年も続けている。
「だから、同居すれば母さんが家事も料理もしてくれるんだって」
優斗は相変わらず夕食のときにそんな話を持ち出した。
同居は嫌だとはっきり言ったのに、まったく伝わっていない。
「新婚のうちはふたりで暮らしたいのよ」
「は? ちょっと意味わかんないんだけど。もうずっとふたりで暮らしてきたじゃん」
私はおかずの鯖の塩焼きの骨を丁寧に取りながらぼそりと答える。
「同棲と結婚は違うでしょ?」
「俺からすれば変わんないよ」
優斗は味噌汁を飲み干すと箸を置いた。
「優斗は何もしないからね」
「何だよ、その言い方。棘があるなあ」
「本当のことでしょ? 共働きで家賃折半なのに、どうして家事ぜんぶ私なの?」
「またそれ? いい加減聞き飽きたよ。だから同居しようって言っているんじゃないか」
優斗はあからさまに深いため息をついた。
けれど、ここで話を終わらせてはいけない。
また、ずるずると問題を先延ばしにしてしまう。
「話し合おうよ。結婚後のことをちゃんと」
「俺はずっと話してるよ」
「それ、優斗の家の都合じゃない。当事者は私たちふたりなのに、私のことは置き去りだよね?」
優斗はさっさと食べ終わると席を立ち、食器をそのまま残してリビングのソファに寝転んだ。
「まだ話は終わってないよ」
「あのさ、今日すっごい疲れてるんだよ。仕事で疲れてるのに家でもぐちぐち言われたら気が滅入るよ」
「何それ……私だって」
「仕事してるって? 紗那は女だろ? 男とは責任の重さが違うんだよ」
さすがにそれは腹が立ち、言い返そうとしたら優斗はその隙を与えてくれなかった。
「紗那は子どもができたら休むだろ? でも俺はずっと働くんだよ。家族を支えなきゃいけないんだから。それが俺の役目なの。俺の尊敬する上司がそう言っていたんだ」
「その上司、離婚したよね?」
優斗は「うるさいな」とぼそりと言うとそのまま寝室に引っ込んでしまった。
都合が悪くなると逃げる癖。
まともに話し合いもできないまま、時間だけが過ぎていった。
それから数日後。
何度も話し合いをしようとして避けられてきたのに、ある夜突然優斗が私にぴったりくっついてきた。
「なあ、今日いいだろ?」
眠りにつく寸前に優斗に起こされたのだ。
もそもそとベッドに潜り込んできた優斗が私の寝間着を脱がそうとする。
「仕事で疲れているんじゃなかったの?」
「疲れているからこそ癒しがほしいんだよ」
「私も疲れているの。週末にしよ」
優斗は驚いた顔で訊ねる。
「それでいいの?」
「どういうこと?」
「これから夫婦になったら拒否できないよ。離婚案件になるよ?」
そういえばレスは立派な離婚理由になると聞いたことがあるけれど、別に拒否しているわけじゃない。
気分は乗らないけれど、これでまたあとでぐちぐち言われるくらいなら応じるべきなのかなと思った。けれど。
「せめて避妊して」
「は? 何言ってんだよ。俺たち婚約してるじゃん。デキてもいいじゃん」
うわっ、サイテー。
少しばかり相手をしてもいいかなって思った私の気持ちは完全に冷めた。
「妊娠すると困る。今いっぱい仕事抱えてるし、体調が不安定な状態で結婚式を迎えるのも不安だし」
「気にしすぎ。世の中には妊婦で結婚式してる女いっぱいいるよ? てかさー、そういうこと言うなよ。マジ萎えるわ」
なぜ優斗は私の身体のことを考えてくれないのだろう。
これって妊娠中も体調悪くなったら文句言われるのかな。
優斗はわざとらしくため息をつく。
「紗那は相手を思いやる気持ちが足りないよね」
「えっ?」
どっちが? ねえ、どっちが!?
「こんなムードぶち壊しばっかされるとやる気なくす」
なに、なに、なに!?
優斗、私の予想以上に自分のことしか考えてない!
「なんか俺、マリッジブルーだわ。結婚しても仕事があるからとか言われて拒否られんのかなー」
「しないとは言ってないよ。でも家族計画は立てたほうがいいと思う」
「子どもは何人いてもいいって母さんが言ってたよ」
また、お母さん。
そうやって何か都合が悪くなると義母と私を比較する。
「あのね、優斗。一応私たちもいい大人だし、考えなしに突っ走るのはよくないと思うんだよ。結婚しても仕事を続けていいって優斗が私に言ってくれたんだよ?」
不貞腐れて背中を向けた優斗に向かって、なるべく穏便に話をする。
「私の仕事のこと理解してくれているよね。だったら、そういうことも考えてほしいなって」
優斗は完全に無視している。
私は呆れぎみにため息を洩らした。
どうすればきちんと話し合いができるんだろう。
やっぱりこの結婚は無理なのかな。
プロポーズのことを思い出した。
普段はだらだらしてばかりの優斗が、めずらしくフォーマルの格好でホテルのディナーを予約してくれて、夜景が見える場所で「結婚しよう」と言ってくれた。
ほんの少し前のことなのに、なつかしく思えてしまうほど、今は遠い記憶のようだ。
やだ。ほんとにマリッジブルーなのかな。
うっかり涙ぐんでしまったとき、優斗がぼそりと呟いた。
「やっぱ素直に応じてくれる女はいいよな」
えっ……何言ってるの?
優斗はすぐに寝息を立て始めた。
私の胸中は不安と疑問でぐるぐる渦巻いている。
いったいダレと比べたの!?