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穏やかなビブラートの利いた声が会場に流れ出す。……ほうっ、と息を呑む聴衆。手を合わせ……祈るように見つめている聴衆の姿。
歌手は、魔法を使える。一瞬で、その場にいる人間を虜にする魔法を。――水品佐奈の歌声は、伸びやかで、美しく……こころを揺さぶる。
こんなに華奢なからだからいったいどうしてこんな声が出てくるのかと――驚きを禁じ得ない。
一時期、癒し系が流行ったが、その系統ともまた違う。パワフルな歌声でもない。静かに……そう、水のように自然に染み込んでくる……それが、水品佐奈の持ち味なのだ。
彼女の歌声に酔いしれながら、わたしは周囲を見回した。皆、……魅せられている。水品佐奈の紡ぎだす魔法に、かけられて。
こころの奥の奥からあたたかな、清流のような感情が湧きだす。それは、静かにわたしのこころを満たした。
歌い終えた水品佐奈、それから伴奏をした回誠に、あたたかい拍手が注がれた。頬を伝う熱い涙の感触を感じながらも、わたしは、手を叩いた。
水品佐奈は、聴衆にわたしが見えるように、わたしの横に回り込むと、こっそり、
「……ファンだとお聞きしました。ありがとうございます」
「いえ、そんな……」憧れのひとを前に声も出ない。いやあ、……間近に見ても水品佐奈はまじで美しい。でも、「……せ、せっかくですので、あ……握手を……」
「喜んで」
水品佐奈は、凛とした美人だけれど、話してみると親しみがあって。そこも含めて人気なのだと思う。飾らない人柄が。
水品佐奈は、わたしに握手をしてくれ、それから、目の前でCDにサインもしてくれ、笑顔で会場を去った。
わたしは課長をかるくにらんだ。「……課長が仕組んだんですか?」
「いやあ……まあ、当たりとも外れとも言い難い。……回誠がおれの友達で、水品佐奈ちゃんが、誠の友達だってのは、本当だよ……」
――あ、ちゃんづけするんだ……。
ちょっぴり嫉妬してしまうあたり、やっぱりわたしは、課長が大好きなのだと思う。唯一無二のひと。
「とにかく……嬉しかったです。ありがとうございました……」
わたしが課長の頭をなでこなでこした辺りで、司会者の声が入る。――そうだ。わたしには大仕事が待っているのだ。それは……。
* * *
――お父さん。お母さん。
いままでわたしを育ててくれてありがとうございました……。
課長は、わたしにとって、唯一無二の、ひとです。
お父さんが、お母さんと出会って恋に落ちたように、わたしも、課長に恋をしました……。
わたしがこうして大人になるまで、お父さんとお母さんは、大変な苦労をしたと思います。
……お父さんは、サッカー馬鹿で。サッカーのこととなるとひとが変わったみたいになって。審判や敵チームに毒づくお父さんは、いつも辛口で。味方の応援をするはずが、味方がミスをすれば味方をボロクソに言う……ほんと、そんなお父さんのことが、小さい頃は大っ嫌いで。うるさいし。夏は親父シャツとトランクスだけでうろつくし。汗臭いし、もう……本当、いやで。
でも――思ったんです。
お父さんとお母さんが頑張ってくれているから、わたしはこうして、美味しいものが食べられて、満足のいく生活を送れるんだ、って……。
特に、会社で働き始めてから、わたしの意識は変わりました。会社で働くということは……それまでの自由だったはずの自分の時間をすべて、会社に注ぐということ。自分が……工場の部品になったかのような感覚を味わって。一生懸命仕事に打ち込む一方で、働くことってなんだろう。お金を貰って働くってどういうことなんだろう、ってずっと考え続けて……。
悩んでいるときに、ふと、お父さんの言葉が思い出されました。
『人生は――思い出作りなんだよ』
お父さんは、楽しむときはとことん楽しむ主義で。我慢とか……節約とか、大嫌いなひとで……。なにか買うときは一番いいものを。それがスタンスで。だから、お母さんともしょっちゅう言い合いになって……。
だから、踏ん張れた。
お父さんとお母さんが汗水たらして働いてくれたから、わたしは生きてこれた。それで、今度は……自分が社会に貢献する番だって。
課長と出会うまでは、まだ……自分の存在価値が確かめられずにいましたが、課長と出会って、……課長は、いっぱい、わたしに好きだと言って……お姫様のように大切にしてくれて。
わたしは、いま、幸せです。自分に余裕が出てきたから、ちょっぴり……わがままなお父さんのことを認められる余裕も出てきました。
お父さん。サッカーに現を抜かすのも結構ですが、あなたの生活は、お母さんが支えてくれているんですよ。たまには、お母さんに、ありがとう、と、言ってあげてください。
「それから……お母さん」
ひっく、と泣きじゃくりをあげる。……実は、手紙の文面はまっしろだ。アドリブでこれを言っている。
正確に言うと、『お父さんお母さん。わたしを育ててくれてありがとう』――プラス一行だけが書かれている。
さぁて。勇気を放て。想いを――言葉にしろ。
「お母さんは……いつも、いつも、わたしのことを最優先に考えてくれて……。
当時、ワンオペ育児という言葉はありませんでしたが、でも……お父さんは平日は夜が遅くて。お母さんも働いているけれど、いつも定時であがって、わたしのことを迎えに来てくれて……。
疲れているのに、いつも、わたしの目を見て、話を聞いてくれて……。
わたしにとって、お母さんは、最高のお母さんです。
お母さんは、いつも頑張りすぎているから……娘が手を離れたから、楽になったかな、と思ったら、なんか一日三冊長編小説を読んでいるとか聞いて……まったくもう。お母さんは、眠らない回遊魚ですか! 家でも外でも働いてばっかで、もう、……休んでよ!」
何故か、会場笑い。隣でマイクを持つ課長も笑っている。
「……ともかく。お父さんとお母さんのお陰で、わたしは大きくなれました。大人になって、大好きなひとと巡り合って、結婚して、こうしてたくさんのひとに祝って貰える、幸せを手に入れました。
わたしも、お父さんやお母さんを見習って、幸せな家庭を築いていきたいと思います。
お父さん。お母さん。……莉子を育ててくれて、ありがとうございました……」
最後に、ふたり揃って頭を下げる。顔をあげたときに、視界に飛び込むのは、泣きじゃくる母と、父の残像だった……。
――お父さん。お母さん。
人間だから、欠点もあるけれど、その欠点も含めて……わたしは、大好きなんだよ。
会場の奥にいる、父と母に歩み寄り、順番にハグをし、手紙を手渡した。それから……義父と義母に出てきて貰い、わたしたちの生まれた体重と同じ重さのテディベアを、手渡す。生まれた年に製造されたというワインも一緒に。更に、花束も……。
持ち切れないくらいのプレゼントを手渡す。でも、わたしたちが彼らに手渡したいのは、手にあまるくらいの想い、なのだから……。
皆、涙を拭うと、招待客に向き直る。マイクの前に進むのは……課長だ。最後の挨拶は、彼がすると、決めていた。
わたしは、彼の後ろ姿を見守った。せめて……この想いが伝わり、彼のなかで勇気に変換されるように。
ふるえを払い、課長が、声を出す。「――皆様。本日は、わたしと莉子の、結婚披露宴にお越しくださり、ありがとうございます……」
*