テラーノベル
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第一章 燃えるもの
「ホース、もう一本!」
怒号が夜の住宅街に響いた。
赤く染まった空の下、炎はまるで生き物のように家を飲み込んでいく。乾いた木材が弾ける音。ガラスが割れる音。黒煙が夜空へ立ち上り、熱気が防火服の内側まで容赦なく入り込んでくる。
「二階を確認! 逃げ遅れはいないか!」
「了解!」
返事をすると同時に、僕は燃え盛る玄関へ飛び込んだ。
視界はほとんどない。ライトの光も煙に飲まれ、数メートル先すらぼやけている。それでも、一歩ずつ慎重に進む。
消防士になって一年。
まだ経験は浅い。それでも現場では、新人だろうとベテランだろうと関係ない。目の前に命があるなら助ける。それだけだ。
「誰かいますか!」
叫ぶ。
返事はない。
その時だった。
「……たすけて……」
かすかな声。
僕は声のした部屋へ駆け寄る。
倒れた本棚の陰に、小さな女の子がうずくまっていた。
「大丈夫。」
自然と言葉が出た。
女の子は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら僕を見上げる。
「もう大丈夫だから。」
抱き上げる。
軽かった。
あまりにも軽かった。
「佐藤! 早く戻れ!」
無線から先輩の声が飛ぶ。
「今行きます!」
炎が天井を這う。
柱が軋む。
限界が近い。
僕は女の子を強く抱え直し、一気に出口へ駆け出した。
次の瞬間。
背後で天井が崩れ落ちた。
熱風が背中を押す。
あと数秒遅れていたら、助からなかったかもしれない。
外へ飛び出した瞬間、周囲から安堵の声が上がる。
「無事か!」
「はい!」
女の子は救急隊へ引き渡された。
母親らしき女性が泣きながら何度も頭を下げる。
「ありがとうございます……!」
僕は軽く頭を下げ返す。
仕事をしただけだ。
そう思っていた。
「佐藤。」
振り返ると、隊長が肩を叩いた。
「よくやった。」
短い一言だった。
でも、それだけで十分だった。
消防車の横へ腰を下ろす。
ヘルメットを外すと、夜風が火照った額を撫でた。
ようやく息を吐く。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面を見る。
通知は一件だけ。
彼女
それだけ表示されていた。
自然と口元が緩む。
『終わった?』
短いメッセージ。
僕は笑いながら返信した。
『今終わった。』
すぐに返事が来る。
『今日もお疲れさま。』
そのたった一文だけで、不思議と心が落ち着いた。
火の匂い。
焦げた煙。
怒号。
さっきまで包まれていた現場の空気が、少しだけ遠くなる。
「彼女さん?」
隣で水を飲んでいた先輩が笑う。
僕は慌てて画面を伏せた。
「違います。」
「へぇ。」
にやにやしている。
「違うって言うやつほど怪しいんだよな。」
「本当に違います。」
「じゃあ名前は?」
「秘密です。」
「ほら、やっぱり。」
先輩は豪快に笑った。
僕もつられて笑う。
その時間が嫌いじゃなかった。
消防署へ戻る車内。
窓の外では街の灯りが流れていく。
今日助けた女の子は、きっとこれからも生きていく。
家族と笑って。
学校へ行って。
恋をして。
いつか大人になる。
そんな未来を守れたのなら、この仕事を選んでよかったと思える。
「佐藤。」
助手席から隊長が声を掛ける。
「消防士になってよかったか?」
少しだけ考えた。
「はい。」
自然と答えが出た。
「人を助けられる仕事ですから。」
隊長は満足そうに笑った。
「そうか。」
その一言だけだった。
けれど、僕は窓の外を見つめながら、心の中で別の言葉を呟いていた。
――人を助けるため。
確かに、それもある。
でも、それだけじゃない。
消防士になった理由は、他にもある。
それは誰にも話したことがない。
彼女にさえ。
いや。
彼女だけは、知っている。
車窓に映る自分の顔は、どこにでもいる十九歳の青年だった。
優しいと言われる。
真面目だと言われる。
責任感があると言われる。
そんな言葉を向けられるたびに、胸の奥が少しだけ痛んだ。
帰宅すると、制服を脱ぎ、ソファへ倒れ込む。
静かな部屋。
聞こえるのは時計の針だけ。
もう一度スマートフォンが鳴る。
『電話してもいい?』
彼女からだった。
僕はすぐに通話ボタンを押す。
「もしもし。」
『お疲れさま。』
その声を聞くだけで、一日の疲れが少しだけ消えていく。
「今日は大変だった。」
『ニュース見たよ。怪我してない?』
「うん。」
『よかった。』
短い沈黙。
それが心地よかった。
『ねえ。』
「ん?」
『今日も帰ってきてくれてありがとう。』
その言葉に、少しだけ笑った。
「大げさだよ。」
『ううん。』
彼女は静かに言った。
『私は、それだけで十分だから。』
その言葉を聞いて、僕は目を閉じた。
もし。
本当に奇跡というものがあるなら。
あなたは何を願うだろうか。
失ったものを取り戻すことか。
大切な人の幸せか。
それとも、自分自身の願いか。
もし奇跡が起こるなら。
僕は何を願うのだろう。
……答えは、もう決まっている。
だけど。
今はまだ、その話をする時じゃない。
大学一年の春。
僕は、一人の女の子と出会った。
橋本美咲。
その出会いが、僕の十九歳を大きく変えていくことになる。
コメント
1件
読み終わりました。消防士・佐藤の日常が丁寧に描かれていて、現場の緊張感と帰宅後の静かな温かさの対比がとても効いていました。「彼女だけは知っている」という謎めいた一文が気になりすぎます…! まだ第一章の入口でこれだけ惹きつけられるなら、この先の物語がどう動くのか楽しみです。とりくさん、素敵な世界を見せてくれてありがとうございます。