午前6時に、この家で人が活動しているのは稀だ。
「有夏、見てっ」
語尾が跳ねている。
カーテンを開けて窓に額を付けているのは、長身の男だ──この部屋の主、幾ヶ瀬である。
半分閉じていた目が、外の白を認めるや否や、しっかりと開かれた。
トイレにでも起きたのだろう。
すぐにベッドに戻るつもりらしいのは、眼鏡をかけていないことからも分かる。
カーテンの隙間から差し込む光がやけに眩しいので外を見たのだろう。夜のうちに積もった雪に驚いた様子だ。
「有夏、起きて」
「ビックリするから、ホラ見て」
「ちょっとでいいから、起き……ちょっと!?」
「おーい、あり……」
「……アホりか? もしもーし、アホりかさんー?」
「世界一のアホりかさん? 怠け者のクズりかさん?」
少々ドキドキしながらの、渾身の悪口。
言いたかったのだ。
いつか言ってやると決めていた「アホりかさん」──反応がないことにホッとする反面、少々物足りない思いも。
「まぁ無理だよな。6時に有夏が起きるわけないか」
「アホりか」と何度名前を呼ぼうが壁を向いた姿勢のまま、すやすや眠っている。
幾ヶ瀬は恋人を起こすことを諦めた。
どうせ遅くまでゲームをしていたのだろう。
それでなくとも引きこもり代表・有夏がこんな朝早くに目を覚ますはずがない。
「雪かぁ。寒いわけだよね。そういや夕べから空気が冷たくって……ねー……」
ベッドに腰かけ、有夏の髪に指を絡める。
周囲はシンと静まり返っていた。
平日の朝の慌ただしさを、雪景色が呑み込んでしまったようだ。
土日や祝日、それからクリスマスなどの記念日に、まず間違いなくシフトが組まれている代わりに、何でもない平日に休みが入る。
幾ヶ瀬はこんな朝が好きだった。
ゆっくりと流れる時間と、少しの高揚感。
それから優越感も。
今日はずっとパジャマのままで過ごそうと決めると、ヨレヨレのトレーナーの肌触りまでもが愛おしく覚える。
「ありかー、起きなよー。もったいないよー?」
耳元に口を近づけて囁くも、規則正しい寝息が乱れることはない。
昼になれば雪は溶けてしまい、この白い世界はもう見られないだろうに。
「ありかー……ふふっ」
幾ヶ瀬は笑う。
耳たぶに噛みついて首筋に舌を這わし、服をはぎ取ってやろうかと思う反面、この寝顔を見ていたいと願ってしまう。
雪は不思議だ。欲望を白に覆って隠してくれるのかもしれない──柄にもなくそんなことを考えながら、彼はベッドにもぐりこんだ。
布団と、傍らの人のあたたかさから、すぐに瞼が重くなる。
寝ちゃったら勿体ないと思うものの、抗える筈もなく。
有夏の腰に手を回し、その背に顔を埋めて。
ゆっくりと眠りに落ちていく。
幸せな時間だと──そう思っていることを有夏に伝えたくて僅かに開かれた唇は、しかしすぐに寝息をこぼしはじめた。
「冬のあさ」完
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