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凪はゆっくりと目を開け、ぼんやりとした視界の中何度か瞬きをした。左腕には重量感。顔のすぐ下には明るい髪が見えた。逆立った数本の髪が凪の顎辺りをくすぐり、凪は鬱陶しそうに顔をしかめた。


空いている右手でそこを掻く。近くに置いておいたスマートフォンで時間を確認すると、7時02分を指していた。アラームは30分に指定してあるからもう少し眠れる。そうは思うが、重たい瞼に反してこれ以上眠れそうになかった。


凪は寝ている女を起こさぬようそっと腕を抜いて体を起こした。まだ寝息を立てている女はどうやら起きる気配はなさそうだ。

そのままベッドを抜け出して、用を足しにトイレへと向かった。洗面所の前を通り、鏡に写った自分の顔。なんだか疲れているように見えた。


軽く舌打ちをして用を足す。本日は1日貸切であと数時間でこの客から解放される。昨日の11時から出かけてドライブを楽しんだ。といっても凪は楽しい振りをして笑顔を作った。


「ねぇ快くん、セラピスト辞めたら付き合おうね」


そう笑顔で言われたのは記憶に新しい。そしてその言葉を述べるのはなにもこの女だけではない。客は皆自分が特別だと思っていて、凪が仕事を辞めた暁には自分のモノになると思っている。だからこそ、何十万でも何百万でも凪に使うのだ。未来への投資だと思って。


「付き合ったら何したい?」


「とりあえず旅行行きたい!」


「いいね、旅行。海外とかね」


「海外行きたーい!」


そんな会話をするが、決して付き合うとは言わない。客が勝手に付き合えると信じているだけで、凪から付き合おうと言ったことなど一度もない。


凪はベッドに戻り、スマートフォンを手に取る。客といるのに他の客にDMを返す気にもならない。そもそも今はまだ仕事中。目の前の客だけに集中しなくては。そう思うものの、大きなため息をついた。

やりがいもあって楽しい仕事だと思っていた。女性は好きだし、可愛い客も増えた。面倒な客もいるが、反対に楽な客もいる。悪い仕事じゃない。そうだったはずなのにこのところ全くやる気が起きなかった。


客が起きたらあと3時間半。そう逆算する。24時間中のたったの3時間半。なのにとてつもなく長い時間に感じた。延長したいって言われたら事務所でやらなきゃならない仕事があるって言おう。そう決めてソファーに腰掛けた。


同じベッドに潜り込んで恋人のように頭を撫でてやる気になんてとてもなれなかった。ただでさえ今日を迎えるまでに他の客が3日貸切したことによって連絡が滞り癇癪を起こしたのだ。

DMだけのやり取りだが、「もう会わない」「もう予約しない」なんて文章が並んでいた。今までの凪なら当然のように機嫌をとって宥めて予約確定をさせてきた。


しかし、なんだか急に面倒くさくなって「嫌な思いさせてごめんね。今までありがとう」と送ってしまっていた。もう去るものは追わない。それでいい気がした。

今まで金だと思って必死につなぎ止めておいた。口座の残高を見れば貯金は2千万を優に超えていて、暫く稼がなくてもいいんじゃないかなんて思えてきた。


幼少期が貧乏だったからか、凪はそこまで散財するわけではない。自分をブランディングするためにそこそこいい所に住んでいい物を身につけてはいるが、自分の価値を高めるためであって物欲のためではなかった。


客が洗練された凪を見て、勝手に価値のある男だと思い込む。すると金を払わなければ会えない男なのだと納得する他ない。

今眠っている女も昔はそうだったはずなのに、付き合いが長くなるにつれて手に入るものだと勘違いしだす。結局突き放した凪に泣いて縋った女はDMで散々文句を叩きつけた挙句予約を取って会いにきたのだ。

そうしなければ、その空いた時間は他の女のモノになるとわかっているから。


そんな虚しい時間を金で買うことでしか、同じ空間は手に入れられない。凪の顔を見た途端に泣き出した女を慰めて楽しい振りをしてデートをしたのだ。疲れないわけがない。

女はなんて面倒な生き物なんだ。俺のことが好きだっていうなら、もっと思いやりをもって接してくれればいいのに。

そう思った瞬間に思い浮かんだのは千紘の顔だった。


千紘を思い出したと同時に樹月のことも芋づる式に頭に浮かぶ。千紘が樹月に思いやりがないと言った言葉。

あんなにも千紘のことが好きだと言う樹月も自分の事ばかりで全く千紘のことを考えていなかった。まるでこの客のようだったな……と凪は思った。


千紘は凪のことをあんなにも好きだと言うが、凪が仕事へ行くのを行かないでと言ったこともないし、凪がセラピストを始めた理由を聞いて以来この仕事を辞めて欲しいと言ったこともなかった。

この女のように癇癪を起こすことも当然ない。


ただそれは、千紘との関係は恋人とは違うから。この女のように凪が好きだと言ってやったこともないし、勘違いさせるようなことをしたこともない。

だからそこにブレーキがかかるのはわかるが、それでも千紘は凪の意思などおかまいなしに凪を抱いた過去もある。

下手したらこの女よりも厄介なはず。ただ、もう二度と凪の嫌がることはしないと言っただけあって物分りはよくなった気がしていた。


いつまでこんなふうにストレスを抱えながら好きでもない女と過ごすんだろうかと考えた。最初は性欲処理にもなるし、金にもなるし美味しい仕事だと思ったが、ここ最近は精神的苦痛の方が大きい。

セラピストの寿命として凪の年齢なら後5年は余裕なはず。その5年あったらもっともっと稼げる。今の貯金を倍以上にすることも容易い。

けれど、そんなに金を貯めて何をする気かと聞かれれば、特にその先に目標もなかった。


千紘のように独立したいわけでもないし、特別な資格を持っているわけでもない。素晴らしい学歴もなければこれといって特技もない。今の生活水準を落としても問題はない気がした。

しかし、昔のように朝から晩まで工場で働いて手取りが今の10分の1程度になるのは、あまりにも高低差がありすぎる。


現実問題、セラピストを辞めるという選択肢はないに等しい。それを理解したら一気に憂鬱な気分になった。

ほら、もう諦めて俺のモノになりなよ

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