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風見斗利彦が六階に降りて営業部のフロアに入ると、すぐさま横野博視が近付いてきた。
「風見課長、いつも紗英がお世話になっています」
「ああ」
今はお前に関わってる時間はないんだよ、と心の中で思いながらも、八方美人なところのある風見は笑顔で答える。
(こいつもバカな男だ。紗英なんかに騙されて)
風見から見れば博視が捨てた玉木天莉の方がよっぽどいい女だ。
仕事も出来るし、紗英のように飾り立てなくても見目麗しい。立ち居振る舞いも品があるし、言葉遣いも丁寧で完璧。
その証拠に――。
(あの女は紗英と違って、高嶺常務にも目を付けられてたぞ)
きっと眼前でのほほんと微笑む博視は、純朴そうに見えた玉木天莉から二股を掛けられていたことも知らないんだろう。
(おめでたいヤツ)
このまま博視と話していても、そんなに自分の利益にはなりそうにない。
「あ、あの……風見課長。それで天、た、玉木さんは最近……」
何やら別れた女のことを未練がましく知りたいみたいだが、今更そんなことを知って何になると言うのだろう。
(残念だが彼女はもうキミに手出しできるような相手じゃないんだよ)
口止めされていて言えないが、さっき自分は高嶺尽と玉木天莉の婚姻届の証人欄を埋めさせられたばかりなのだから。
博視にフラれて、天莉も残った有望株へターゲットを絞ったと言うことだろう。
(本当、江根見の娘にしても玉木にしても……女ってやつは強かで信用ならんよな)
――クソ真面目にしか見えなかった玉木天莉に限って言えば、そんなタイプじゃないと信じていたのに……。
裏切られた気持ちで一杯の風見だ。
それは、もしかするとぼんやりした自分の妻にも当てはまる気がして。
自身が、今まで散々あちこちで嫁以外の女性を食い散らしてきた風見斗利彦は、心の中でそんなことを思う。
だから自分も少々羽目を外してもお相子だろう?と言うのが、この浮気男が行きついた勝手な言い分だ。
(こいつ、自分が玉木天莉を出し抜いたつもりで、実際にはあっちに出し抜かれてただなんて思いもしないんだろうな。ホントおめでたい男だ)
自分はつい今し方も玉木天莉の所業を見て、所詮女なんてそんなものだという思いを強くしたばかりだが、横野博視は若い分、まだ経験値不足なんだろう。
(手駒としてはバカな方が使いやすくていいんだがな)
小間使いとしては、横野博視は割と小回りが利くし便利な男だから、表立って邪険には扱えないが、今は博視の相手をしている場合ではない。
「すまないが横野くん。私はこれから江根見部長に用があってね、ちょっと急いでるんだ。悪いが失礼するよ」
そう判断した風見は、博視の眼前で手刀を切るように片手をサッと上げると、適当に話を打ち切った。
「あ、申し訳ありません。お手間取らせました」
「……まあ今度ゆっくり呑みに行こう」
一応手下へのケアも忘れない。
こういう小手先なことにおいてのみ、風見斗利彦は狡猾で気の利く男だった。
***
風見が営業課最奥にある営業部長室へ入ると、部長の江根見則夫があからさまに迷惑そうな顔をした。
課長の自分と違って、部長ともなるとこんな風に個室が与えられてうらやましい。
ふてぶてしい面構えの、恰幅の良い男を見詰めながら、課のことは概ね係長や課長に見張らせて、自分は個室にこもっていい気なもんだよな……と思った風見だ。
自分も早く出世して、こんな風に個室でふんぞり返れる身分になりたい。
江根見則夫は、確か去年還暦を迎えたばかりのはずだ。
紗英が今現在二十三歳なことを思えば、則夫がアラフォーになって出来た一粒種だと分かる。
だからこその溺愛なんだろう。
今年風見は四十八だから、あと十年もすれば自分も部長ぐらいにはなれるだろうか。
ふとそんなことを考えていたら、言葉を紡ぐのが遅れてしまった。
「わざわざキミが営業課へ出向いてくるとか……。一体何の用だ」
あからさまに警戒した様子でこちらを見詰めてくる江根見則夫の視線には、『大した用もないのに接触してくるな』と書いてあった。
いくら食べても太れない体質の、鶏ガラのように痩せぎすな自分とは違って、則夫の腹はでっぷりと膨らんでいて醜い。
何を食べたらあんなに太れるんだろう、貫禄があってうらやましいことだと心にもないことを思いながら、風見は愛想笑いを浮かべて見せる。
この会社では、役付き幹部と違って部長程度では秘書はつかない。
要するに誰も入って来さえしなければ、ここは完全に則夫と自分二人きりの個室ということだ。
一応部長室なので気密性は高い。
声を張り上げでもしない限り、室外へ会話が漏れることはないはずだ。
背後のドアに鍵がかかることを知っている風見は、「内密にご相談させて頂きたき議がありまして」と声を潜める。
ことさら〝内密に〟のところに感情を込めたのは言うまでもない。
「重要な話か?」
今までふんぞり返るように背もたれに身を預けていた則夫が、ギシッと椅子をきしませて前のめりになったのを確認した風見が「はい」と神妙に答えると、則夫がのそりと立ち上がった。
そのままのっしのっしと風見のそばを通り過ぎて、部長室を横切る。
そうして扉を開けると、すぐそばにいた人間へ声を掛けた。
「しばらくの間、ここへは誰も立ち入らないようにしてくれ。風見課長と大事な打ち合わせがある」
言って扉を閉ざすと、カチャリと後ろ手に施錠して。
目線だけで室内ど真ん中に置かれた応接セットへ腰かけるよう示唆された風見は、一応の礼儀として則夫が着座するのを待ってから自分も彼の正面に坐した。
「で?」
促された風見は、尽から口止めされていたことなんてお構いなし。
つい今しがた常務の執務室で、高嶺尽と玉木天莉の婚姻届証人欄を埋めさせられたことをぺらぺらと話した。
「――このままでは部長の息が掛かった女を高嶺に差し向けてこちら側へ引き込む作戦がお釈迦になります」
今までにも、何度か高嶺尽にはそれなりに美しい女を用意してハニートラップを仕掛けてきた二人だ。
だがそのたびに秘書の伊藤直樹が出しゃばって来て、尽の懐へ入り込む前にことごとくシャットアウトされて。
(伊藤め。ホント忌々しい男だ)
もちろん邪魔だて出来ないよう、伊藤にも女を差し向けてみたことがあるけれど、妻一筋らしい堅物秘書には全く通用しなかった。
***
「玉木天莉だったか。その女は風見くんの部下じゃないのか」
ややして――。
満を持したようにつぶやいた江根見則夫へ、風見は「部下ではありますが……」と言葉を濁す。
どうせ目の前の禿げデブタヌキのことだ。
新たな女を送り込むよりも、すでに常務に気に入られているというのなら、その女を懐柔して使えばいいとでも言いたいのだろう。
(これだから現場を知らない人間は)
高嶺尽のことを差し引いても、風見は玉木天莉のことを落とせるものなら落としたい。
一度断られた手前、プライドが邪魔して手出しできずにいるが、チャンスがあるならすぐにでも押し倒して、思う様あの美しい肢体を貪り尽くしたいのだ。
嫌がるのを無理矢理手籠めにするとか、最高のシチュエーションではないか。
あの凛とした雰囲気の、クソ真面目で美しい顔を快感や苦痛で歪ませることが出来たなら……。
そう考えただけで股間が熱くなる。
だが、あの女はかなり手強い。
金や、職場での環境や立場改善を仄めかしても、一向に落ちなかった。
そればかりか、どこか軽蔑すら滲ませた表情で告げられた、自分を諭すようなあの物言い。
男が女を誘っている場で、自分の彼氏や、相手の妻や子の存在を彷彿とさせるようなセリフを吐くだなんて、デリカシーがないにもほどがあるではないか。
(自分だって高嶺と横野を両天秤にかけていたくせに)
事実無根の想像だが、風見の中ではすっかりそう言うことになっている。
(あー、クソッ。思い出しただけでも腹立たしい)
則夫に言われなくても、出来るものなら天莉を手中に収め、足元に跪かせたいと思っている風見だ。
天莉が嫌がりながらも自分のイチモツを舐めるところを想像したら、最高に気持ちが昂る。
「もしも金の問題と言うんなら、わしも少しぐらいなら都合してやれるぞ?」
急に黙り込んでしまった風見に、則夫がそう提案してきて。
「いえ、金の問題ではないのですよ、江根見部長。部長はご存知ないかも知れませんが、実はあの女、クソが付くほど真面目なタイプでしてね」
(まぁ、相手が取締役クラスともなると話は別のようだったがな)
――五年も付き合った平社員の横野博視を蔑ろにした〝事実〟を、風見は知っている。
心の中でそんなことを付け加えながら、言外に一筋縄ではいかない相手だと含ませたら、則夫が少し考える素振りを見せた。
「いつものやり方では通用せん女ということか」
ややしてポツリとつぶやくと、しばし思案するような間があって――。
そうしてポンッと手を打つと、
「近々会社主催の親睦会があったね」
言って、見ている風見もゾッとするような下卑た笑みを浮かべた。
「いけ好かない高嶺尽にも苦痛を与えられる方法で玉木天莉を落とせそうな策があるんだが、もちろん乗るよね、風見くん」
乗らないという選択肢はないだろう?という表情で問い掛けてくる則夫に、風見はごくりと唾を飲み込んだ。
風見の本来の予定では、江根見則夫を使って高嶺尽に天莉の不義をリークする計画だったが、二人同時に陥れることが出来るのなら、そちらの方が断然いい気がして――。
「もちろん、キミには玉木天莉を味見出来る役どころを与えてもいいと思っているんだがね」
もう一押しと踏んだのだろう。
そう提案された風見は、先程想像した天莉への淫らな妄想を思い浮かべて、ぐらりと心を傾がせた。
「それはどういった作戦でしょう、江根見部長」
グイッと身を乗り出した風見は、語られる則夫の言葉に聞き入って――。
全て聞き終えた頃には、先のタヌキと同じように下卑た笑みを口の端に浮かべていた。