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僕が、紹介状を開くと懐かしい翠雨の文字で、少女の略歴と簡単な症状が書かれている。
名前は、ルナ・クレメンズで年齢は十七歳だ。
しかし、僕が注目したのは、少女に対する翠雨の思い入れだった。
「この少女を何としても救いたい。
私では力が及ばないので、時雨兄様の助力を仰ぎたいのだ」と記されている。
この国の雨量を増やし、白川流の存在価値を高めようと画策して、あまつさえ、その価値を脅かす者を暗殺した翠雨と、僕の中では、イメージが全く一致しなかった。
どういうことだろう?
とても、同じ人間の行動とは思えない。
少女の略歴を見ても、ニューヨーク出身の大金持ちで、母親を幼い頃に亡くし、実業家だった父親とも二年前に死別していることから、翠雨が執着するほどの縁や絆は見えてこない。
ただ、身体に触れなくとも、彼女から大量の雨が吹き出していることが分かる。
そうだ。目の前に重篤な患者が居るのだから、兄弟の確執を持ち込んでいる場合でない。
治療を始めなければ…
僕が、気を取り直して、「じゃあ、治療を始めましょうか」と言うと、折原詩織が慣れた手つきで治療の準備を始める。
スウェットの上下に着替えた少女が、治療用ベッドに横たわった頃には、雨香(うこう)が焚かれ、雨(う)などの道具類が揃えられていた。
全ての扉や窓に遮光カーテンが引かれているので、電気を消せば部屋が真っ暗になる仕組みだ。
詩織は、うつ伏せになった少女の上着をまくり上げると、入念に消毒を行ってから、僕に頷くことで準備完了の合図を送ってきた。
僕が、少女のうなじに雨(う)を通すと、詩織は部屋の隅に置かれた丸椅子に腰を下ろす。
僕は、静かに雨乞印(うこういん)を結びながら、呪い詞(まじないことば)を唱える。
すると、雨(う)の尻、雨柄(うへい)から煙よりも液体に近い霧が吹き出してきた。
吹き出した雨(あめ)は、宿主の身体から無理やり追い出されて、行き場を失った獣のように空中をクルクルと彷徨っている。
僕は、その雨にゆっくりと顔を近づけながら、深呼吸をする要領で深く吸い込んでいく。
僕に取り込まれた雨は、少女の体内に居た時と同じように、僕の身体を支配しようと攻撃を仕掛けてくる。
僕が、その攻撃を強い霊力で抑え込むと、雨は、まるで液体が結晶化するように一つに纏まって、僕の様子を窺ってきた。
雨は狡猾で用心深いのだ。
僕は、その雨塊(あまつぶれ)に向かって意識を集中させる。
すると、雨塊から砂嵐のようなノイズが途切れ途切れに聞こえてきた。
更に、意識を集中させると、ノイズとノイズの合間から、人の話し声が聞こえてくる。
僕が、もう一つ深い場所に意識を持っていくと、急にラジオのチャンネルがピタリと合うみたいに、ノイズが無くなって、クリアな音声が耳に飛び込んできた。
聞こえてきたのは、懐かしい翠雨の声だ。
その声は、まるでスタジオで録音されたみたいに鮮明で、他の生活音が全く含まれていなかった。
しかし、そんなことは有り得ないのだ。
普通、雨の記憶には様々な生活音が含まれている。
記憶だから当然だが、この記憶には音声以外の音が含まれていなかった。
それは、この声が人為的に作られた記憶だからだろう。
人為的に作られて、僕に聞かせる為だけにここに置かれている。
そして、そんなことが出来るのは、この世界で白川家の人間以外にはいないのだ。
それは、幼い頃の翠雨の声だった。
声が子供帰りしているのは、その内容が、翠雨の純粋な気持ちを表しているからだろう。
六歳頃の声だ。
僕は、その頃の鼻にかかった翠雨の声が大好きだった。
「時雨兄ちゃんが、この手紙を読んでるってことは、僕が、この世界から消えてしまったってことやな…
安心したわ。
ちゃんと、自分の人生を終わらせることができて。
ずっと苦しかってん。
誰にも言われへんかったけど、生きていることが凄く辛かった。
時雨兄ちゃんは、天才やし分からへんと思うけど、僕みたいに、何さしても不器用な人間は世の中にいっぱいおるねん。
僕の不幸は、白川家という特殊な家に生まれたことや。
そして、僕は白川家が求める能力を神さんから授からんかった…
そやから、ずっと肩身の狭い思いをしてきてん。
お父ちゃんは白川流の開拓者と称えられ、時雨兄ちゃんは始祖の再来と謳われて、妹の雨音も、雨乞いという役割が与えられてるのに、僕には何に一つなかった…
まるで、透明人間や。
毎日毎日、苦しい修行に耐えながら技を磨いてるのに、一向に上達せえへん。
才能が無いんや。
もう何もかも嫌になって、何回も死のうと思ったけど、そのたびにお母ちゃんが励ましてくれてん。
お前に合った生き方がきっと見つかる。
お前を必要だと思ってくれる人が必ず現れる。
そうやって、お母ちゃんが優しくしてくれたから、何とか生きてこられてん。
そやから、お父ちゃんに呼び出されて、お前に役目を与える。って言われた時は、飛び上がるほど嬉しかったわ。
そやのに、その役目が人殺しやなんて、なんぼ何でも酷すぎる。
しかも、殺す相手が妹の大切な人やなんて…
いっぱい悩んだわ。
毎日毎日、血を吐くほど悩んでん。
でも、やるしかなかった。
それ以外に、僕には生きる場所が残されてなかってん。
そやけど、僕も土壇場で人を殺すんがこわなって、誰かに途中で止めて欲しいって思ったから、いっぱい証拠をばら撒いたけど、誰も気付いてくれんかった…
時雨兄ちゃん。僕、とうとう人殺しになってしもうたわ。
家族に認めてもらいたくて、良い子になろうと努力してただけやのに、気が付いたら人殺しになってた…
何でやろ?
何で、こんなことになってしもうたんやろ?
あれから、ずっと寝られへんねん。
耳鳴りも段々と大きくなってる。
それに、佐々木さんが毎日夢に出てきて僕を責めるんや。
お前のせいで、雨音と結婚でけへんかったって…
お前のせいで、雨音が不幸になったんやって。
ゴメンな。
ホンマにゴメンな。
でも、時雨兄ちゃんが絶対に犯人を見つけてくれるから…
ほんで、僕の人生を終わらせてくれるから、それまで待っといてな。
きっと、この辛くて苦しいだけの人生を終わらせてくれるから…
堪忍やで佐々木さん。
それから、紹介状を持たせた少女のことやけど。
この子も、僕と同じ人殺しやねん。
この子の場合は事故みたいなもんやけど、僕と同じように苦しんでる。
僕は、その辛さが痛いほど分かるから、何とか助けてあげたかった…
けど、途中までしか供養できんかってん。
そやから、時雨兄ちゃんの鍼供養で治してあげて欲しいねん。
最後まで、出来損ないの弟でゴメンな…」
僕は、少女の雨に残されていた、翠雨の遺言を聞きながら奥歯を噛み締めていた。
歯がギシギシと鳴って、力を込めた顎の上を涙が流れていく。
危うく漏れそうになる嗚咽を、奥歯で必死に擦り潰した。
あの時、翠雨に対して「お前は何も分かっていない」と偉そうなことを言ってしまったが、何も分かっていないのは僕の方だ。
しかも、犯行前に翠雨が落としたパン屑に全く気が付かなかった。
何と愚かな兄だろう。
翠雨の不幸は、白川家に生まれたことではない。
愚かな兄と、非道な父親を持ってしまったことだ。
更に、奥歯を強く噛み締めながら、僕は、僕自身の手で、白川家を滅ぼしてやろうと誓っていた。
しかし、その長い戦いの前にやらなければならない事が有る。
翠雨がやり残した治療を、僕がやり遂げねばならない。
僕は、もう一度少女の雨に意識を集中させる。
すると、今度こそ幼い頃の少女の声が聞こえてきた。
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井野匠
さくらぶ
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