テラーノベル
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苦いビターな恋も、たまにはいいですよね。オメガバです。
二月十四日。ヨコハマの街を彩る甘ったるい空気は、ポートマフィア幹部の執務室にまで侵入していた。
中原中也は、デスクに積み上がった書類の山を片付けようとペンを走らせていたが、背後に漂う「雨上がりの森」のような、ひどく馴染みのあるオメガのフェロモンに眉を寄せた。
「……何の用だ、太宰。お前がわざわざ俺の部屋に来るなんて、明日は槍でも降るんじゃねぇか」
振り返れば、そこにはかつての相棒、太宰治が立っていた。二十二歳になった彼は、探偵社という光の中にいるはずなのに、その瞳の奥には相変わらず底知れない闇を飼っている。
「ひどいなぁ。今日は特別な日だよ。街中の乙女たちが愛を囁き合う、あのバレンタインだ」
太宰はふらりと中也に歩み寄り、デスクの上に小さな包みを置いた。銀色のリボンで結ばれた、無機質な黒い箱。
「……チョコだと? お前、毒でも盛ったか」
「失礼だね。一級品の酒が入ったボンボンだよ。君みたいな小人族には、アルコールくらいしか栄養にならないだろうと思ってね」
中也は怪訝そうに眉を寄せたが、ふと、太宰の様子がいつもと違うことに気づいた。 太宰の首筋――そこには、数ヶ月前のあの夜、熱に浮かされた彼を救うために中也が刻み込んだ「番」の痕がある。アルファである中也が噛み、オメガである太宰を永久に自分に繋ぎ止めた、消えない呪い。
けれど、今日、その痕がどこか薄く、死んでいるように見えた。
「……おい、太宰。お前、首のそれ……」
中也が手を伸ばそうとした瞬間、太宰はするりと身をかわし、いつになく穏やかな、そして空っぽの微笑みを浮かべた。
「中也。君に噛まれたあの日、私は確かに救われたんだ。君の暴力的なまでの強さに、私の本能は屈服し、安らぎさえ覚えた。……でもね、やっぱり私は、何かに縛られて生きるのは向いていないみたいだ」
太宰の手が、首筋の痕に触れる。 そこには特注の「異能無効化パッチ」が貼られていた。番の絆を一時的に、あるいは永久に遮断する、禁忌の処置。
「チョコ、食べてね。それは私の心臓の代わりだ」
太宰は出口へと歩き出す。中也が重力を操る間もなく、太宰は扉に手をかけた。
「おい、待てッ! どこへ行くつもりだ!」
中也の叫びを、太宰は振り返らずに受け止める。 その背中は、かつて共に地獄を駆けた相棒のそれではなく、どこか遠い異界へ消えていく幻影のようだった。
「Happy Valentine. そしてさようなら。……君というアルファに、これ以上の執着をされる前に。私は、私の孤独に戻るよ」
扉が閉まる。 中也はデスクに残された箱を乱暴に開けた。中には宝石のように美しい、琥珀色のボンボンショコラが一粒だけ。
一粒。 アルファとオメガ。二つで一つであるはずの運命を、太宰は自ら切り裂いて去った。
中也はそれを口に放り込む。 鼻に抜けるのは、最高級のウィスキーの香りと、喉を焼くような、ひどく苦くて甘い、絶望の味だった。
「……ふざけんな。……逃げられねぇって、言っただろ」
中也は立ち上がり、コートを掴んだ。 番の絆が消えかかっていようと、魂に刻まれた「相棒」という名の執着は、薬でも、さよならの言葉でも、決して消せはしないのだから。
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