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なんか記憶喪失?みたいなやつ
ヨコハマの港を、死を予感させるような濃い霧が覆い尽くしていた。
二十二歳の中原中也は、その場所へ辿り着いた瞬間、自身の肺が凍りつくような感覚に襲われた。防波堤の縁、今にも暗い海へ滑り落ちそうなほど危うい位置に、太宰治が立っていた。
かつての相棒、そして今や敵対する組織の幹部。
だが、その背中にいつもの不敵な余裕はない。太宰の足元には、異能の残滓が青白く発光する特殊な「忘却」の装置が転がっていた。それは脳の海馬を焼き、特定の概念や記憶だけを消去する、ポートマフィア時代に太宰自身が隠蔽した禁忌の兵器だ。
「……おい、太宰。何をしてる」
中也の怒声に、太宰がゆっくりと振り返る。その瞳に、中也の心臓は一拍、拍動を忘れた。
そこに宿っていたのは、積年の嫌悪でも、共犯者ゆえの親愛でもない。
ただ、見ず知らずの通行人を眺めるような、透き通った無関心だった。
「やぁ。……君は、誰だい? 私を呼ぶその声は、なんだかとても聞き覚えがある気がするけれど」
「……っ、ふざけんな。そんな質の悪い冗談、今すぐやめろ。殴るぞ」
「冗談? 嘘を吐く必要なんてないよ。今の私の頭の中には、君という人間を繋ぎ止める言葉が一つも残っていないんだ。……あぁ、でも不思議だ。君の姿を見た瞬間、胸の奥がひどく軋んで、叫び出したくなるような空腹感がする。これは、君に何かを奪われたせいなのかな」
太宰は自らの心臓を抑え、困ったように首を傾げた。
記憶は消せても、肉体が、細胞が、魂が刻んだ「双黒」という名の呪いまでは消し去ることができなかった。中也という存在を定義する言葉をすべて失っても、太宰の体は、中也の放つ威圧感、その体温、その声の響きに、反射的に安堵と痛みを同時に感じてしまっている。
「……お前、自分から俺を捨てたのか。思い出すのも嫌になるくらい、俺との時間が汚らわしかったってか」
中也は一歩、また一歩と距離を詰め、震える太宰の襟首を乱暴に掴んで引き寄せた。
逃げようともしない太宰の肌は、死人のように冷え切っている。
「捨てたんじゃない。……整理したんだよ。私の人生において、君という存在はあまりに重力を持っていた。君がいるだけで、私の『死』という目的が遠ざかってしまう。だから、消したんだ。……誰かは知らないけれど、きっと君は、私にとって最も有害な『救い』だったんだろうね」
太宰は微かに微笑んだ。その笑顔は、かつて中也が何度も見てきた、すべてを諦めきった時の太宰治そのものだった。
中也は歯を食いしばる。
こいつは、記憶を失ってさえ、中也を拒絶するために中也を「特別」だと認めている。
「……ふざけんな。お前が俺を忘れても、俺がお前を覚えてる。何度だって教えてやるよ。お前のクソみたいな嫌がらせも、俺がバイクを壊した夜のことも、全部だ」
「それは困るな。私はもう、新しい私として、君のいない夜へ行こうと思っているんだ。……あぁ、霧が深くなってきた」
太宰は中也の手を、驚くほど優しく払い除けた。
その指先が触れた瞬間、中也の脳裏に過去の光景が走馬灯のように駆け巡る。十六歳の初任務、十八歳の別離、そして二十二歳の、名前のない再会。
太宰はそのまま、防波堤から一歩、虚空へと踏み出した。
慌てて伸ばした中也の手が、彼のマフラーを掠める。
「……でも、一つだけ確かなことがある」
落下していく闇の中で、太宰の唇が動いた。
「君を忘れてしまった今の私が、それでも君に、もう一度恋をしそうになっているということだよ」
白い飛沫が上がり、ヨコハマの海はすべてを飲み込んだ。
霧の中に残されたのは、太宰の名前を叫ぶ中也の絶叫と、主を失った黒いコート、そして、誰も知るはずのない、二人の魂の欠片だけだった。