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ハイネックのヒートテックに、スポッとかぶるだけの、黒いスウェット地のフード付きワンピースを重ねただけの結葉は、ふと洗面所の鏡に映る自分の姿を見て吐息を落とした。
外に出ることがないから、こんなルームウェアみたいな格好でいることが増えている。
服装に頓着しなくなると気持ちがもっともっと沈んできてしまうから、本当はもう少し可愛らしい明るめな色の服に着替えた方がいいのは分かっている。
でも下手に小綺麗な格好をして、偉央に「今日はおめかししてどうしたの?」とか聞かれてしまったらと思うと、それもままならなくなっていた。
今は何とか薄くお化粧は叩けているけれど、それもしなくなる日が訪れるのではないかと思うと正直怖い。
(宅配便とか届くかもしれないし……油断はしちゃダメなのよ、結葉)
毎朝自分に言い聞かせるようにしてドレッサーの前に座っていると言ったら、偉央はどう思うだろう?
外に出してやらねば、と思ってくれるようになるだろうか。
それとも。
本当は偉央とちゃんと話すべきだと言うのは分かっているし、何なら偉央はいつか約束をしてくれたように結葉と話す時間を――両親が旅立つ前より――多めに取ってくれるようになっていた。
今までは動物病院で済ませていた昼食を、わざわざマンションに戻って摂るようになったのも、きっとその表れだ。
だけどそれさえも結葉にはストレスなのだと言ったら、さすがに偉央は意気消沈するだろうか。
そんなことを思うと、偉央に本当のことを言い出せない結葉だ。
いくら一緒にいる時間をもらえたところで、彼に本音が言えないままなら何の意味もない。
***
結葉らの住むマンションでは、景観保護や高層階の風の強さの観点などから、ベランダは備え付けの低位置バー以外に洗濯物を干すことが禁止されている。
当然手摺壁の内側に取り付けられた物干しバーでは、壁に遮られて日光なんてほとんど当たらないから、こんなにいい天気なのに思う様洗濯物をお日様に当てられないのだ。
それが、残念に思えて仕方のない結葉だ。
御庄家では、ベランダの物干しスペースにはタオル類を中心に干して、服などは浴室乾燥を使って乾かすようにしているのだけれど、幼い頃から一軒家で育ってきた結葉は、最初これに馴染めなくてかなり戸惑ったのを覚えている。
タオル類の入った洗濯カゴを手にベランダに出ると、キン!と冷えた空気が鋭く身体を貫いてきて。
何となく、何もかもどうでもいいみたいに投げやりになっていた心を、ほんの少しだけど引き締められた気がした。
湿ったタオルのせいでずっしりと重いカゴを抱えたまま、胸の高さくらいまである手摺壁に近づくと、結葉はいつもより白くて眩しい静かな街並みをぼんやりと眺める。
住んでいるのが割と高層階なので、細々としたところまでは目を細めないと見えないけれど、車も人の往来もいつもよりかなり少ないことは一目瞭然だった。
マンション前の国道には融雪剤が撒かれているのか、そこだけ不自然なくらい黒々と、ずーっと先の方までアスファルトが見えている。
少ないとはいえ、上りも下りも車がちらほらと行き来しているから、数年ぶりに積もった大雪のせいで渋滞を起こしたりはしていないようだ。
(偉央さん、雪で滑ったりしなかったかな)
動物病院駐車場にいくつか残った足跡を、目を凝らして眺めてからそんなことを思って。
偉央と離れていれば、こんな風に穏やかな気持ちで夫のことに思いを馳せることが出来る結葉だ。
決して偉央のことが嫌いというわけではない。
ただ、偉央と一緒にいる時に、彼の顔色を窺う生活に疲れてしまっているだけ。
ほぅっと、白く靄った吐息を吐き出すと、結葉は洗濯物を干し始めた。
***
洗濯物を一通り干し終えた頃には身体がすっかり冷え切ってしまっていて。
(そうだ、お母さんからもらった紅茶……)
美鳥からティーバッグをもらってすぐの夜、偉央と一緒にアールグレイを一杯ずつ飲んだものの、飲み終えるなり偉央から「残りは結葉がひとりでお飲み」と言われてしまった。
それは偉央からの、紅茶好きな結葉に対する純粋な優しさだったのだけれど、偉央と一緒に紅茶を楽しみたかった結葉は、突き放されたような気持ちになって。
悲しくてあれっきり棚に仕舞い込んだままになってしまっていた。
(せっかくもらったんだし、私ひとりでも飲まないと勿体無いよね)
自分の望み通り、偉央と一緒に楽しめないからと言って、紅茶自体に罪はない。
結葉は濡れた洗濯物で冷え切った指先を擦り合わせながら、棚から来客用のウェッジウッドのワイルドストロベリー柄のティーカップとソーサーのセットを取り出した。
いつもなら結婚した当初に偉央とペアで買ったマグカップを使う結葉だったけれど、それを使うと、偉央が一緒に飲んでくれないことを意識してしまいそうで、今日は違うカップを選んでしまった。
お湯は、わざわざ沸かさなくてもウォーターサーバーからいつでもお湯が出るようになっている。