小話集

嵐の夜に

分厚い雲が蛍光灯をつけた一瞬のようにチカチカ光る。真っ暗な夜だった。じとりと湿った風が通り抜けて、遠くからゴロゴロ音も響いてくる。

「あ、こりゃひと雨来るな」

つぼ浦が外を見ながら呟いた。途端、ドドドドドと雨が降り出した。バケツをひっくり返したような豪雨だ。近頃の異常気象はロスサントスにもやって来て、ゲリラだかゴリラだか分からないが一丁派手に騒いでは過ぎ去っていく。

鼻歌を歌いながら窓を閉める。つぼ浦はこういう天気が好きだった。

地球温暖化はいただけないが、何かが起こりそうな予感がする。ドラマの始まりは嵐と相場が決まっているのだ。ロスサントスにふさわしい空模様じゃないか。

とはいえ無意味に濡れる趣味ない。つぼ浦はしばらく空を眺めてから、のんびりのそのそ個人スタッシュに向かって歩き始めた。コーラとピザで楽しいChillタイムだ。

雨音はますます激しく続く。誰ともすれ違わない静かな警察署。

突如。

ドォンっと轟音が響いた。ピシャンジリジリと甲高い嫌な音が続く。

また鳴った。続けて2つ。

蛍光灯が揺らぐように瞬いて、力尽き真っ暗になる。

停電だ。

咄嗟に頭を庇ってうずくまったつぼ浦は、怖々辺りを見渡した。床も壁も暗闇に溶けている。自身の手すら見えないから相当だ。目を閉じても開けても同じで、顔をぺたぺた触らないとまぶたが開いているか分からないほど暗かった。黒い世界にひとりきり。ぞぞっと身体中の毛が逆立つ。爪先から頭のてっぺんまでぶるっと震えが走る。

つぼ浦はぎゅっとTシャツの胸元を掴んで、ソロソロ慎重に歩き出した。警察署内だ、誰かは居るはずだ。まさか一人きりなんてことはないだろう。多分。おそらく。きっと。

「と、特殊刑事課は、雷にも停電にも怯えねえぜ」

小さな声だが、喋れば少し怖くなくなる。

「そうだ、そうだとも。こんな真っ暗なんか余裕だぜ。海の底の方が暗いしな」

段々胸を張って歩けるようになる。

「よしよし、おーい誰か居るか！　明かりくれー！」

大声を出せば自分を騙せる。これはつぼ浦流勇気の出し方だった。つぼ浦の心は自分にしかわからない。だから、自分を騙し切ってしまえばそこには何もない。怖い、寂しい、辛いは特殊刑事課には必要ないのだ。

「おーい」

「おっ、こっちだー！」

遠くから声が聞こえた。多分男。壁をつたって急いで歩けば、やわらかい人の体温にぶつかった。

「あ、すまん」

「こっちこそ。大丈夫でした？」

「なんとかな」

「真っ暗ですもんね。あ、俺誰かわかります？」

「あー、アオセンすか？」

「……その呼び方するってことは、つぼ浦か」

「なんだアオセンか。丁寧に接して損したぜ」

「丁寧？」

「丁寧ですよ」

「どこが？」

「謝りました」

「つぼ浦ー、お前」

「なぁんすかなんすか」

「お前がどうやって生きてきたのか不思議だよ」

「あ？　すくすく健康に育ちましたよ」

「そうじゃなくて」

「あぁ？　あ！　困ったことは牛乳に相談してました」

「そういうのでもなくて」

「これも違うんすか。埒が明かねえな」

「年功序列とかどうしてた？」

「上下に厳しく自分に甘く」

「最悪」

ケラケラと笑い声が聞こえた。真っ暗なので、本当に笑っているかは確認できない。つぼ浦は表情が知りたくて声の聞こえる方へ手を伸ばした。「うぉっ」と驚く声と共に、やわらかい物に触れる感触がする。

「おっ、これ顔っすか」

「まあ。え、何？」

「マジで笑ってるか知りたくて」

「頬でも触ろうって？　ヘルメット付けてるから無理でしょ」

「あそうか。それ取ってくださいよ」

「いいけど」

「いいんすか！　え、外せるんすかそれ」

「逆に外せないと思ってたの？」

「もう顔と一体化してるもんだと」

「怖過ぎる。鬼の形相物理じゃん」

「犯罪者への悲しみと怒りで顔が歪んじまったとばかり」

「つぼ浦は、あー、俺にそんな感情があると思ってんだね」

「そりゃまあ。なかったら心無きじゃないですか」

「……うん」

頷く声が想定よりも静かで、つぼ浦はワタワタ慌てた。返答に迷うような間とシリアスな声だ、図星を突いてしまったのだろう。

「心有りますよ！　アオセンは」

「うん」

「俺に迷惑かけられて普通にキレるし、人少ないと露骨に凹むじゃないっすか」

「そうか？」

「そっすよ」

「なんでわかる？」

「目見りゃ一発っすよ。アオセン口より目の方がお喋りなんで」

「お面で見えにくいけどな」

「洗面所の鏡の距離じゃ、まぁ。もう一歩近いとめちゃめちゃ見えますよ」

「ちっか」

「確かに。パーソナルスペースどうなってるんですか？」

「いや俺に聞かれても」

「アオセンの問題でしょ」

「ああ、うん」

なんだか妙に歯切れが悪い。つぼ浦は首をかしげて、「アオセンどっか具合悪いんすか」と聞いた。

「なんで急に？」

「雰囲気が、こう、違うんで」

「……俺は元気だよ」

瞬間、カッと雷が落ちた。カメラのフラッシュよりも強烈な白が世界を包む。「ウワアア！」とつぼ浦の悲鳴が響く間に、また静かな黒が視界を染める。

「……びっくりしてねえっすけどね。雷酷いっすね」

「……」

「アオセン？」

「え、あ、そうだね」

「ははあ、わかりましたよ。さてはアオセン雷苦手なんすね」

「いや全然ちがうが」

「なら具合悪いかやましいことがあるかっすよ」

「……」

「ほら、ぐうの音も出ねえ。しゃーねーっすねぇ。ほら」

「何？」

「あ、真っ暗で見えねえ。こっち来てくださいよ」

つぼ浦は両手を広げた。左手に触れた布を辿り、頭部を探す。

「くすぐったいんだけど」

「今これどこ触ってんですか俺は」

「首。何しようとしてる？」

「耳塞いでやろうと思って」

先ほどの会話の間で脱いだのだろう、仮面ではない人肌の頬をなぞる。親指が耳珠の凹凸をとらえた。

「お、あったぜ」

「つぼ浦体温高くない？」

「おう、特殊刑事課だからな」

「Q＆Aおかしいな」

「気のせいっすよ。てか会話出来るなら意味ないなこれ」

「まるきり意味ないってことはないんじゃない」

「そっすか？」

「安心はするし」

「なら耳塞ぐより対ショック体勢とった方がいいぜ」

「情緒。そういうんじゃないの、安全じゃなくてつぼ浦の優しさとかあったかさとかが人をホッとさせるの。わかる？」

「全然わからねえ」

「おい」

「なんにもわからねえ」

「あんたも俺にあった時ホッとしたでしょ？」

「……いや？　全然」

「マジ？」

「特殊刑事課は凹まねえんで、ホッとするとかないっすよ」

「さっき雷ビビってたじゃん」

「ビビってねえです」

「『うわあ』ってデカい声で」

「叫ぶどころか喋ったこともねえぜ」

「ホラ吹き過ぎ。じゃあさあ」

つぼ浦の右手を手袋越しの体温が包む。撫でさすりながら、あたたかな手は肩、背中へと滑るように場所を移していく。とん、と肩に重たいものが乗った。頬にふわふわした髪が当たって、シャンプーの香りがした。抱きしめられている。

その香りをつぼ浦は知っていた。ペンギンの被り物をした愉快な後輩、擽るようなミント混じりのラベンダー。成瀬力二の香水だ。

つぼ浦はようやく、この暗闇で居合わせたのが青井ではなく力二であったことに気がついた。

「……」

「ほら。これならわかるでしょ」

「お、おぉ」

「人肌って安心するんだよ。身近なら特に」

「わ、かった。わかったから」

「……何？　急にしおらしくなって」

「き、」

気まずいに決まってるだろ何故かカニくんがアオセンのふりしてんだぞ！　と、叫びかけて口を塞ぐ。

「き？」

「き、緊張、して」

「なんで？　護送とか搬送でこれくらい普通にやらない？」

「アオセン（のフリしてるカニくん）なんで」

「エッ」

ノリで青井のフリをしていた力二は、ぎょっと爪先を上げた。

軽いスキンシップで緊張するとは何事か。ヤッベまさかソウイウ関係だったのかこの二人。いや人生RTA恋愛ショートカット勢つぼ浦さんに限ってまさかそんな。らだおから聞いたこともないし。って言うことは、もしや無意識につぼ浦さんがらだおにときめいている？　今この瞬間がもしや恋心の芽生えなのでは？　俺がつぼ浦さんの新たな扉を開いてしまったのでは？　らだおのフリなんかして抱きしめちゃったからーーエッ俺がらだおで恋のキューピットってこと？　エッ！？

大混乱である。この間5秒、2人はまんじりともせず抱き合っていた。お互いいたたまれず冷や汗が止まらない。

「あ、エーット、じゃ、じゃあもう少しこのままでいる？」

「は、はい」

「心臓の音スゴ」

「まあ」

「つぼ浦、好きなの？」

「何がすか」

「俺のこと」

「えっ？　お、あ、何でだ」

「嫌い？」

「嫌い、じゃ、ないぜ。全然」

「……付き合いたいとか思うの？」

「何処にだ？」

「あー、ウー……。じゃあ、ずっとこうしてたいとか思う？」

つぼ浦は眉を下げ下げ汗を飛ばして困った。

停電が続いてずっとこのままであれば、力二の嘘を指摘せずに済む。イタズラが中途半端でバレたときの気まずさをつぼ浦よく知っていた。このまま力二が満足する落とし所があれば一番いいが、そのために何と答えたらいいのだろう。ぐるぐる脳みそを回して言葉を捻り出す。

「……警察、業務があるからな。ずっとって訳にはいかないだろ」

「あーね」

はぐらかした答えだ。力二はこれを、「警察業務がなければずっとこのままでいたい」という意味だと理解した。日常、つぼ浦のNOは概ねYESである。日頃の行いの報いで、曖昧な言葉は自覚していない恋心への誤魔化しだと捉えられた。

大事故である。

「つぼ浦はさ」

「お、おう」

「恋愛経験ないの？」

「嫌なこと聞くぜ」

「誰かを好きになったことない？」

「答えなきゃダメか？」

「つぼ浦のためだから、答えて」

「ないぜ、そういう感情はそもそもない」

「ない？　分からない訳じゃなくて？」

「そうとも言うな」

「……」

力二は顎に手を当てた。恋のキューピットとしてやるべき事を理解した。

つぼ浦に恋心を自覚させる。

これだ。もしかしたら、ワンチャン勘違いかもしれないし。それならこの場を笑い話で終わらせることが出来るし。

「つぼ浦のさあ、恋愛の定義って何？」

「なんか、良い物……？」

「ふわっとしてるな！　そりゃ無理だ」

「ああ、無理だぜ」

「なんで誇らしげなんだよ。じゃあさ、もっと仲良くなりたいって思った人いないの」

「まあいるぜ」

「お、誰？」

「叔父」

「違うわ。マジで違う」

「違うのか」

「えー、じゃ一緒に居て楽しい人は？」

「誰と居ても割と楽しいぜ」

「俺は？」

「そこそこだな」

「オイオイオイ……」

こりゃ難敵だなと口をイの形にして首をひねる。つぼ浦には欲がなくて、憧れの枠は親族で埋まっていて、ついでに捻くれているから居心地の良さが恋愛に結びつかない。

「逆に、じゃあ嫉妬とかは？」

「嫉妬ォ？」

「そう」

「特定個人にはない」

「聖人君主かなんかなの？」

「俺ばっかり質問されてキチイぜ。そっちは？」

「え？」

「恋愛、の定義ってやつ」

「質問事項の通り」

「仲良くて、楽しいやつで、つい嫉妬するような？」

「そう」

つぼ浦は、カニくんはアオセンのことが好きなのか？　と思った。年齢も階級も飛び越えて呼び捨てするほどの仲だし、アオセンは認めるのも癪だが楽しい男だし。嫉妬は分からないが、今こうやってアオセンに扮しているのがその発露だとしたら？　フロイト心理学の同一化だ、カニくんはアオセンが好きすぎるあまりアオセンになろうとしている！

世界の真理を理解した気分だった。なお、勿論事故である。

「アオセン！　分かったぜ！」

「マジですか！」

「おう。アオセンの気持ちはバッチリ理解した。俺は応援してるぜ」

「応援？」

「応援以外に出来ることあるか？」

「エエエ、ちょっと待ってつぼ浦の頭の中で何が起きた？」

「あれだろ？　アオセン（のフリをしているカニくん）はアオセンに恋をしている」

「何々なにナニ」

「違うのか？」

「違うね！　俺のこと性的倒錯者にしないで？」

「俺はそういう偏見ないぜ、アオセン」

「やめろホントに！　人を相対的レイシストにするな！」

力二は、何が何だかさっぱりわからないがつぼ浦の中の青井像がとんでもないことになってしまったのだと理解した。誤解を解かねば、そしてつぼ浦さんに恋愛のレくらいは理解してもらわねば！　俺が恋のキューピットにならねば！

つぼ浦は、力二が男性との恋愛に苦悩しているのだと理解した。男同士は何かと色々言われるもんな。過去の常識ってやつは厄介だ。でもここは日本じゃない、ロスサントスだし、アオセンとカニくんが望めば何でもできる。これは、俺がカニくんの偏見を除いてやらねば。俺が恋のキューピットにならねば！

使命に燃える男が二人、暗闇で抱きしめあう。轟く閃光がドラマチックに二人のシルエットを照らす。なんだこれ。

「アオセン！　例えばなんだが、俺がアオセンのこと好きだって言ったらどう思う？」

「今答えなきゃダメ？」

「おう」

「えー、あー、嬉しいんじゃない？」

力二は青井でないため、あいまいな答えしか返せない。

つぼ浦はハッとする。カニくんはアオセンが好きなんだから、俺がこのたとえを出すとそりゃ微妙な返事になる。これぞ嫉妬ってやつだ。

「たとえ先を間違えたぜ。じゃ、キャップだ。俺がキャップのこと好きだって言ったらどう思う？」

「……ちょっと嫌」

「なるほど。根が深いなこいつは」

「え、なんで嫌なんだろ。なんか、嫌だ……」

「無意識に刷り込まれてんだろ。くそ、専門家にあとは任せたいぜ」

力二とつぼ浦は、抱きしめ合ったままお互い深く考え込んだ。無言の空間が続くが、それを気にするほどの余裕はない。二人とも自分の思考を追うのに精いっぱいだった。雨音がザァと響いている。

廊下の奥から、ぴっと丸い光が現れる。

「えっ？　別れ話の最中？」

懐中電灯を持った青井だった。

「帰れ！　なんてタイミングで来てんですかアオセン！」

「初手からエンジンマックスじゃんお前。何、どうしたの」

「今カニくんの思考を叩き直してんすよ」

「抱きしめ合いながら？」

「カニくんが雷苦手なんで」

「あーね。成瀬ー、大丈夫〜？」

「……」

「し、死んでる……」

「色々あったんすよ。そっとしてあげてください」

「まあ、良いけど。ブレーカー上げ行くよ」

「うす」

つぼ浦は力二の腕からスルリと抜ける。湿気を含んだ冷たい空気が代わりに力二の肌に触れ、たった今まで抱きしめていたつぼ浦の暖かさを名残惜しく思わせる。

咄嗟に、力二はつぼ浦の腕を掴んだ。

「あ？　カニくん、どうかしたのか」

「……あ、いや」

「……あぁ！」

つぼ浦は膝を叩いて力二を指差した。顔を近づけ、小声で囁く。

「カニくんがアオセンのフリしてたことは誰にも言わねえぜ。理由もな」

その距離と吐息に心臓が高い音を鳴らすのも。ギリギリで触れられない熱が生唾を飲み込ませるのも。

「つぼ浦ー、行くよー？」

「あ、ハーイ」

らだおをパッとふりかえって駆け出す姿に、焦げたように胸が苦しいのも。

「カニくんも行くぜ。ホラ」

なんでもないように差し伸べる手を掴むのに緊張してしまうのも。

ペンギンの被り物の下、力二は汗をかくほど顔を真っ赤にしていた。

もっと仲良くなりたい、一緒にいて楽しい、ほかの人と居るところを見るとつい嫉妬してしまう男とは、誰か。

力二は恋心を自覚した。