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夢の中だった。けれど、それは夢ではなかった。
あまりにもはっきりと、匂いも、音も、肌の感触すら、覚えている。
あのとき、雨が降っていた。
部屋の隅で、ソファに座る玲央菜の髪が濡れていた。
まだ遥が幼かった頃──声をかければ誰かが助けてくれるかもしれない、
そんな幻想を、ぎりぎりで信じていた頃の話。
「なんで泣いてるの」
玲央菜の声は静かだった。
目だけが笑っていなかった。
「泣いても誰も来ないよ。……ここじゃ、ね」
頬を、指で軽くなぞられた。
爪が少しだけ肌に当たって、びくりと肩が震える。
「痛いなら、“ごめんなさい”って言えばいいだけ」
「でも、ぼく……」
「“ごめんなさい”」
玲央菜の指が、もう一度、遥の頬をなぞる。
「言えないの?」
そのとき後ろから、晃司の声がした。
「こいつ、自分が“間違ってない”と思ってるんだろ。
だから謝れない」
「じゃあ、“間違ってる”って、教えてあげないとね」
手が伸びてきた。
髪を掴まれた。
ごつん、と床に押しつけられる。
血の味がした。
でも、痛いのは顔じゃなかった。
声を出せない自分。
逃げようとしない自分。
「どうして」って思わないようにしている自分──
何度も何度も、自分を責める声が、頭の中でこだまする。
──“こんなふうにされるのは、おまえが悪いから”。
“そういう存在だから”。
“だって──おまえは、この家の人間じゃないんだろ?”
──ああ、そうだった。
思い出すたび、息ができなくなる。
呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。
泣くことも許されなかったあの頃と、
なにも変わっていない。
夢の中の遥は、ソファの下に小さくうずくまっていた。
頭の上では、沙耶香が淡々と電話をかけていた。
声には何の揺らぎもなかった。
「ええ、いいのよ。
あの子、ちゃんと“しつけ”しておかないと」
「──ううん、泣いてないわ。もう慣れたみたい」
──目が覚めたのは、朝だった。
喉がからからに乾いていて、
布団の中は自分の汗でしっとりと湿っていた。
目の奥が痛い。
泣いたせいか、夢のせいか、わからなかった。
ただ一つだけ確かだったのは、
自分があの頃からずっと、
誰の中にも“人間”として存在したことがないということ。
守られることも、求められることも、
愛されることも、
最初から一度だって──
──なかった。