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居酒屋へ向かう。提灯の赤い灯りに照らされ、ガヤガヤとした笑い声が外まで漏れていた。
引き戸を開けると、煙と酒の匂いが一気に鼻を刺す。
奥のテーブルでは、若井と涼ちゃんが女の子たちと肩を寄せ合い、グラスを鳴らしながら談笑していた。
「よっ」
片手を上げて席に加わる。
若井がすぐに突っ込んできた。
「おい元貴、ギター預けといたから。ちゃんと取りに行けよ」
涼ちゃんも苦笑いしながら続ける。
「またスタッフさんに怒られるって。“機材は持ち帰りが基本”って、何回言われてるの?」
「……うるせぇな」
煙を吐き出して返す俺。
「あれ、1人なんだ?」
涼ちゃんが柔らかい笑顔で言う。
「……まーな。1人の時もあるんよ」
そう答え、店員を呼び止めてビールを注文する。
くだらない笑い声に紛れながらも、胸の奥にはざらついたものが残る。
ビールが届いたところで、俺はグラスを片手に切り出した。
「なぁ若井。……さっきの女、繋がってねえの?」
若井は目を丸くし、思わず笑う。
「えっ、繋がってないよ」
横から涼ちゃんが口を開いた。
「その子、多分……昔から見に来てくれてる子だと思う。いっつも後ろの方でさ」
「そうそう! 強そうなんだけど可愛い感じっ」
若井が乗っかる。酔いすぎて、隣の女がむくれているのにも気づかない。
涼ちゃんはさらに酒で舌が滑っていた。
「思い出した。活動したての頃、“ファンです!”って初めて言ってきた子だと思うんだよね」
「あっ、それ覚えてる!」
若井が声を上げる。
「元貴、めっちゃ照れてたじゃん!」
「ふーん」
グラスを揺らしながら、気のない返事をする。
――昔から来ていた? はじめて『ファンです』と言われた?
そんなこと、思い出せるわけがない。
いや、正確には……思い出したくなかった。
音楽だけで満たされていた頃の自分なんて、今の自分には遠すぎて、痛いだけだから。
今日の彼女は、夜に混ざるような艶やかな黒髪。
強気な化粧と澄んだ瞳。独特の雰囲気。
――たしかに印象には残る。
けれど、頻繁に来ていたと言われても、そんなもの気にも留めていなかった。
虚しさの方が濃すぎて、記憶なんて霞ませていた。
……自分で、わざと。
あの日以来、あの女は俺の前に現れなかった。
名前も、住む場所も、何ひとつ知らない。
埋めるように歌い、スタジオにこもり、家で曲を作る。
埋めるように女を抱き、酒をあおり、煙草を吸う。
ただ繰り返すだけの、同じ日々。
――それでも、簡単に諦められる存在じゃなかった。
9月の夜を過ぎ、月日は流れて10月の初め。
友人でもあり音楽仲間から「偵察がてらに来いよ」と誘われ、断る理由もなく足を運ぶことにした。
土曜の夜、渋谷のネオン街を抜ける。
キャップを深く被り、黒いマスクで顔を隠す。
全身を黒で固めた格好は、人混みに紛れるには十分だった。
雑居ビルの狭い階段を降りると、湿気とタバコと酒の匂いが絡みつくように押し寄せてきた。
受付でチケットを渡し、出演前の友人に軽く会釈する。
観客としてライブハウスに入るのは久しぶりだった。
俺たちが普段立つよりもずっと小さな箱。
キャパ二百そこそこの空間は、熱気も息遣いも近すぎて、肌にまとわりつく。
ドリンクカウンターでビールを受け取り、泡を少しこぼしながら後方へ下がる。
前の出演者の轟音がステージから響き、床板ごと鳴らしていた。
壁に背を預け、グラスを傾けながら周囲を一瞥する。
――そこで、視線が止まった。
後方、同じように壁にもたれている女。
鋭いアイラインに真紅の唇。
暗がりの中でも輪郭のくっきりした横顔。
そして、まっすぐにステージを射抜くような瞳。
……あの女だ。
ふっと、口元が勝手に歪む。
――見つけた。
艶やかにゆるく巻かれた黒髪。
整った顔立ちに映える強気な化粧。
膝下丈のタイトな黒ワンピース。深めのスリットから覗く白い太もも。
近寄りがたい雰囲気のはずなのに、俺の目にはただの色気にしか映らなかった。
その横顔すら、挑発しているように思えて仕方ない。
――絶対に、逃さない。
終演後、人の波がようやく途切れた頃。
彼女は鞄を肩にかけ、足早に出口へ向かう。
ネオンの明かりが溢れる大通りには出ず、人を避けるように狭い裏道へ。
闇に沈む背中を追い、靴音が重なるたびに距離を詰めていく。
その細い手首を、俺はためらいなく掴んだ。
振り返った瞬間、澄んだ瞳が大きく見開かれる。
「……よぉ。久しぶりだな」
「っ、はなして!」
状況を悟ったのか、必死に振り解こうとする。
だが力は弱い。掴んだ腕越しに伝わる震えが、逆に俺を昂らせた。
――そうだ、震えてるくせに、まだ俺を拒むのか。
壁際へ追い詰め、逃げ道を塞ぐ。
顔を近づけ、耳元で低く唸るように吐き捨てた。
「逃げんなよ。……二度と」
壁際に追い詰められた彼女は、必死に肩を震わせる。
「……やめて、離して」
その震える声すら、俺の耳には挑発にしか聞こえなかった。
「言っただろ。逃げんなって」
吐き捨てるように囁き、掴んだ手首にさらに力を込める。
彼女の抵抗なんて意に介さず、そのまま腕を引き、歩き出す。
狭い裏道をずるずると抜け、やがて大通りから外れたラブホテル街へ。
自動ドアの前で立ち止まり、横目で彼女を一瞥する。
怯えと怒りが入り混じる瞳――その色さえ、俺には甘美にしか映らなかった。
「……覚悟しろよ」
低く唸るように告げ、ドアを押し開けて中へ引きずり込む。
彼女の腰に腕を回し、逃げ道を完全に塞ぐ。
適当に部屋を選び、エレベーターのボタンを押す。
「……おねがい、やめて」
小さく震える声。
視線を向けると、彼女は前を向いたまま、泣き出しそうな顔で唇を噛みしめていた。
その必死さが、かえって俺を昂ぶらせる。
――逃げても無駄だ。
エレベーターのランプが光るまでの数秒が、やけに長く感じられた。
エレベーターの扉が閉まった瞬間、静寂が落ちる。
狭い密室の空気が、肌にまとわりつくように重い。
彼女の背を壁へ叩きつけ、片足を差し込んで逃げ場を奪う。
ぐっと顔を近づけ、マスクを指先で外した。
「……逃げられねぇな。もう」
熱を帯びた吐息が頬に触れる。
わずかに揺れる瞳と唇が、触れそうで触れない距離にある。
「……ほんとに、やめてっ」
視線を逸らし、震える声で吐き出す彼女。
その必死さすら、俺には追い詰められた獲物の艶にしか見えなかった。
ちょうどその瞬間、無機質な音と共にエレベーターが開く。
逃げ道が開かれたはずなのに、俺の手は彼女を離さない。
腰を強引に引き寄せ、歩を進めさせる。
薄暗い廊下の先――選んだ部屋の番号が赤く点滅していた。
それは、すでに解錠されている合図。
「……ここだ」
掴んだ手首を離さぬまま、その部屋の前に立たせる。
ドアノブを回し、ためらいもなく押し開けると、カチャリと軽い音を立ててドアが開いた。
彼女の肩を押して中へ踏み込ませ、すぐに後ろ手でドアを閉める。
乾いたロックの音が響き、逃げ道は完全に塞がれた。