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「悩ましいでしょう?」そう言うとネドマリアはどこか遠くに視線を向ける。その眼差しはやんちゃな子供を見守る母親のようだった。「まあ、待って。話は後。お楽しみはこれから」
突然、子供たちが一斉に駆け出した、何の合図もなしに。彼らは一言を発することもなく、しかしまるで獲物を見つけた獣のように躊躇いなく走り去る。彼らは明らかに逃げているのだった。像と生垣で迷路のようになった庭を抜け、屋敷を回り込み、門の方へと逃げだしていく。
その事態に誰よりショーダリーが狼狽えていた。
「どこへ行く! 止まれ!」とショーダリーは【涙声で叫ぶ】が、子供たちは誰一人立ち止まらない。「くそ! 何なんだ! どういうことだ! 逃げ出す勇気などあるはずがない!」
確かに、未だにユカリは一欠けらの勇気も出せず、心の中は冷たい恐怖に沈み、少しも体を動かせないでいる。何一つ恐れる理由などないのに、ユカリの体は理由なき恐怖に怯えている。しかし子供たちはそれに抗い、全員が姿を消してしまった。
「あらら。残念」とネドマリアが嘲笑する。「これでは取引不成立だね。申し訳ないけど閣下。お金は返してね」
「黙れ!」とショーダリーが【情けない声を出す】とネドマリアも膝をついてしまった。「ビゼ! これは貴様らの仕業か! 手を組んでいたのか!?」
月に映える生垣の向こうでビゼが震える声で答える。「いや、僕らじゃないね。まさかネドマリアさんや子供たちがいるなんて思わなかった。でも子供たちが逃げ出せたようで良かったよ。つまりショーダリー、君は奴隷商だったのかい?」
「買い手の使い道など知ったことか!」とショーダリーは吐き捨てる。「おい! 貴様! 何で笑える!」
ショーダリーの視線の先でユカリは微笑みを浮かべていた。笑ってしまうほどの恐怖を感じているに過ぎないのだが、ショーダリーもまた冷静さを失っているようだった。
ユカリは無抵抗の人間を操る術を一つだけ知っていた。しかし一旦勇気を奪われると反抗のために口笛を吹くことすら出来そうにない。今、出来ることは限られている。
ショーダリーがパディアの杖を奪い取り、ユカリの方へ近づいてくる。
「がき、お前がやったのか?」
ユカリは涙を浮かべて首を振ることしかできない。ショーダリーが杖を振り上げる。今のユカリには泣き【叫ぶ】ことしかできない。
「仰せのままに! 我が主!」庭の土を体にして守護者が顕現した。「何と! その有様や、いとおいたわしい! 貴様か! 悪漢め!」
ユカリは何も言っていないが守護者はショーダリーに襲い掛かる。
ショーダリーは叫ぶ。「何だ! 一体何の魔術だ! 誰が行使しているんだ!?」
パディアの杖を振り回すショーダリーは魔術を駆使した人間離れした動きで、何度となく守護者を破壊した。英雄と呼ばれるのは伊達ではないらしい。鍛え上げられた肉体に魔術を上乗せし、杖から稲光を撒き散らし、見えない刃で守護者を切り裂く。周囲の生垣や石像までもが牛酪のように難なく切り裂かれ、破壊され、守護者もその例外ではない。
しかしユカリの【叫び】は心からの恐怖によるものだからか、とめどなく溢れ、微塵の疲れも見せない守護者は何度となく破壊されても、次から次へと土から這い出てきて、連続して土の剣を振り下ろす。そしてとうとうショーダリーはその場に引きずり倒され、土くれの守護者の土くれの剣で滅多打ちにされた。
すぐにパディアは杖を取り返し、ビゼはショーダリーから魔導書を奪った。恐怖に涙を流すユカリと、主を守るように守護者が目の前に立ちはだかると、ネドマリアは無抵抗で両手をあげた。
「ありがとうよ。ユカリ。お陰で手間が省けた」と言ったのはネドマリアではなかった。パディアでもビゼでもショーダリーでもない。
それはクチバシちゃん人形だった。
ネドマリアにユカリが組み伏せられた時から後、ずっと地面に倒れていたクチバシちゃん人形が起き上がる。そしてまた別の方向からその持ち主が現れた。
ユーアが月明りの照らし出す庭に現れる。星釉をつけておらず、身につけている服も泥濘族のものと違い、亜麻布の簡素な衣を身につけている。
「ユーア!」と叫んでユカリは変身を解き、ユーアの元に駆け寄って抱き締める。
ユーアはされるがままになっていたがクチバシちゃん人形が間に割って入る。
「やめろ。うっとおしい」
「大丈夫だった? ユーア。怪我はない?」ユカリは少し屈んでユーアの顔を覗き込む。
クチバシちゃん人形がユカリの脛を蹴る。
「大丈夫だって。ぴんぴんしてるっての。見て分かんねえか」
「どうしてここに? そもそも結局、本当のところは何でこの街に?」とユカリは言い、クチバシちゃん人形も抱き上げる。ユーアはそれに対して何も言わなかった。そしてクチバシちゃん人形が喋る。
「あのがきどもが目的だよ。解放する必要があったんだ、それだけだっての」
ユカリは心から微笑みを浮かべる。もう恐怖はどこにもなかった。
「子供たちを助けに来たってこと?」
ユーアは黙ったまま、こくりと頷く。
ユカリは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「なるほど。でも自分が街に迷い込んでしまったんだね」
ユーアとクチバシちゃん人形が別方向にそっぽを向く。
「なんか恩着せがましいな。だからありがとうって言っただろ」クチバシちゃん人形が拗ねる。「がきどもを人質に取られずに済んだのはあたしのお陰なんだからな。それに目的の魔導書も手に入れられたんだ。地に伏して感謝しろ」
ユカリはかぶりを振って否定する。「私はユーアを探しに来たんだよ。魔導書はおまけ」
「ふうん。どうだかね。口では何とでも言えるからな」と言ったクチバシちゃん人形に表情は無いが疑いの眼差しを向けているのは分かった。ユーアの方は地面を見ている。
「人形の口で喋らせられるとは思わなかったよ」
「うるせえ」
「私はユーアのことを友達だと思ってるよ。ユーアはどう?」
「友達?」とクチバシちゃん人形が呟く。「クチバシちゃんみたいなもの?」
確かにユカリにも幼い頃、見たことのない兄姉以外にも、幻想の親友と何度となく冒険に出かけたものだ。前世のユカリもまた心の中だけの友達に慰められた、という記憶が朧気ながらある。何度か夢にも見た。
「そうだね。クチバシちゃん人形と同じ」そう言って片手を差し出す。「駄目?」
しかし、その差し出した手をクチバシちゃん人形は払い除ける。そのクチバシちゃん人形をユーアがユカリからひったくる。
その時、ユカリは無意識でクチバシちゃん人形を握る手に力を込めすぎたらしい。クチバシちゃん人形の腕が千切れ、ユーアは勢い余って尻もちをついた。そのユーアの表情はとても薄いものだったがユカリにもありありと負の感情が読み取れてしまった。絶望や恐怖、そして憎悪。
ユーアに抱かれた隻腕のクチバシちゃん人形はもう一つの手でユーアの頭を撫でる。
「大丈夫だ、ユーア。こんなことくらいで泣くな。ユーアの友達はあたしだけだ。あたしだけはいつも味方だ。あたしだけは絶対にユーアを傷つけない」
その時、突然大地が揺れる。地響きが鳴る。巨大な影が庭園を覆った。ユカリたちは突如月光や街の光が失われた暗い空を見上げる。
その正体は、影の主は、例の広場に立っていた異形の巨人像だった。邸を囲む壁の向こうに立っているが容易に跨いでしまいそうだ。その角の生えた眼窩で庭を見下ろしている。
「そう狼狽えるなって、ユーア。あたしが呼んだんだ。遅かったな」とクチバシちゃん人形が誰かに答えるようにそう言った。
突然、ショーダリーが叫び声をあげ、ユカリはそちらに気を引かれる。ユカリの短い人生において一度として聞いたことのない絶望の叫びだ。ショーダリーは身を捩りながら地に伏して、叫びながら何度も頭を地面に叩きつけている。何かから、ユカリには知りえない何かから逃れようと必死に抵抗している。直ぐにショーダリーの喉は潰れ、血の溢れるような音だけが聞こえてくる。一瞬見えたショーダリーの血に濡れた顔がどのような感情を表現しているのかユカリには分からなかった。
「やめて! お願いだからやめさせて!」ユカリは誰にともなく叫んでいた。
程なくしてショーダリーは気を失う。ユカリは混乱した頭を落ち着かせようと努め、自分の置かれた状況を見極めようとする。同時にさまざまなことが起きていて頭が追い付かない。
ネドマリアが勇気の魔導書を掲げて、涙を流している。
勇気の魔導書を持っていたはずのビゼとパディアは身動きが取れない状態になっていた。逃げたはずの子供たちがどこかから持ってきた剣を添えて、ビゼとパディアを羽交い絞めにしている。
「なかなか良い体じゃない。別になんでもいいとは思っていたけど、アタクシ気に入ったわ」とネドマリアが言った。「何? 好きにすれば? 別に今じゃなくてもいいのよ。なんでもいいじゃない。じゃあ、とりあえず、あんたはこれにしてはどう?」
ネドマリアがショーダリーの脇腹を蹴ると、ショーダリーは血に濡れた顔を拭いもせず、何事もなかったかのようにすっと立ち上がる。そして不満げに何事かをぶつくさと言いながら、ネドマリアと共に巨人の方へと歩いていく。
「そうそう」と言ってネドマリアは立ち止まる。振り返り、ユカリに微笑みかける。「これだけは貰っていくわね、ユカリちゃん。約束したものなの。ごめんあそばせ」
そう言ってネドマリアが摘まんだ羊皮紙をひらひらと振って見せる。ユカリはいつの間にか地面に落ちていた合切袋に飛びつき、中身を確認する。迷わずの魔導書だけが失われていた。
残されたユーアがクチバシちゃん人形と向かい合い、そしてクチバシちゃん人形だけが喋っていた。
「……言ったってば。それに幸せの国のためだ。……わがままを言うなよ。みんなユーアのために頑張りたいんだからさ。そう不貞腐れるなって。必ず役に立って見せるからさ。……ああ、必ずだ」
その時、巨人が手を伸ばして、掌でユーアの体を覆い隠してしまう。
ユカリはすかさず【遠吠え】と共に巨大狼に変身するが、クチバシちゃん人形が立ちはだかった。巨人に立ち向かおうとしたユカリをクチバシちゃん人形は制止する。「おいおい、あいつらのことを忘れのか?」と。
パディアとビゼは子供たちに拘束されたままだ。恐らく操られているだけの子供たちにパディアもビゼも抵抗できないでいる。パディアとビゼはさることながら、見知らぬ子供たちとて傷つけられないユカリは、ただ唸り声をあげることしかできなかった。背後で巨人の足音が遠退いていくのが分かる。さらにしばらくして子供たちは剣を放り投げて、どこかへ走り去ってしまった。
ユカリは元の姿に戻り、巨人の去っていった方向を見るが影も形もない。ただ夜明け前のワーズメーズの街にそれ相応の騒動を残して行ってしまった。
片腕の千切れたクチバシちゃん人形と、クチバシちゃん人形の千切れた片腕を残して。