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#王子
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「さあ、顔を上げろ。今夜はお披露目だ」
刹那様の低く、逆らうことを許さない声に促され、私は鏡の中の自分を恐る恐る盗み見た。
そこに映っていたのは、泥にまみれていた数日前とは見違えるような、一人の「女」の姿だった。
身に纏っているのは、夜明け前の空に溶けるような浅葱色から
裾に向かって燃え上がるような朱へと移り変わる、鮮やかなグラデーションの振袖。
一針一針
気が遠くなるような精密さで施された金糸の刺繍が、灯火を反射して眩いばかりに光っている。
ぎゅっと締められた帯は、肺を圧迫するほどに重く
けれどその窮屈さこそが、私が「鬼の若旦那の所有物」として刻印された証なのだと思い知らされる。
「……こんなに立派な装い、私のような身分には勿体なうございます。分不相応で、足が震えます……」
「お前がみすぼらしい格好をしていれば、俺の目が曇っていると思われる。……それに」
刹那様は私の背後に立ち、鏡越しにじっと私を見つめた。
その大きな、けれど繊細な節くれだった指が、不器用な手つきで私の髪に簪を挿した。
金の細工が施された、可憐な花を模した飾り。
それは彼が選んだのか、あるいは屋敷に代々伝わるものなのか。
「……お前にはこの方がよく似合っている」
鏡越しに視線が絡み合う。
刹那様の緋色の瞳が、一瞬だけ、深い慈しみを含んだ熱を帯びて揺れた気がした。
私は、心臓が跳ねる音を隠すように慌てて視線を逸らした。
いけない。
愛してはいけないのだ。
この美しさも、この装いも、すべては周囲の妖たちを欺くための「飾り」に過ぎないのだから。
屋敷の門をくぐり、遊郭のメイン通りである仲之町へと繰り出す。
そこは、夜だというのに昼間よりも明るい、狂乱の世界だった。
無数の灯籠が揺れ、空には季節外れの桜の花びらが
魔力に浮かされて狂い咲くように舞い散っている。
行き交うのは、獣の頭を持った者
不自然なほどに背の高い者、そして美しく着飾った、人ならざる遊女たち。
「見て、あれが刹那様の新しい……」
「なんて可愛らしい娘。あんなに細い首、一噛みで終わってしまいそうね」
通りにいたあやかし達の、好奇と嗜虐の混じった視線が、針のように私の肌に突き刺さる。
私は恐怖で足がすくみ、呼吸の仕方を忘れそうになった。その時。
大きな、そして驚くほど熱い掌が、私の小さな手を包み込んだ。
「……緒美。俺から離れるな」
刹那様が私の指を絡めるようにして、強く、逃がさないように握りしめる。
驚いて彼を見上げると、彼は傲岸不遜な笑みを唇に湛え
周囲を威圧するように堂々と胸を張っていた。
その姿は、誰が見ても「最愛の女を連れ歩き、誇示する男」そのものだった。
「刹那様、お手があまりに……熱いです」
「我慢しろ。……お前も、もっと俺に寄り添え」
彼は強引に私の肩を抱き寄せ、耳元で熱い吐息を漏らしながら囁いた。
冷たい夜風が吹き抜ける中、彼の体温だけが異常なほどに鮮明で
私の心臓の鼓動が耳の奥でうるさく、早鐘を打つ。
(これは演技。これは嘘。彼は私を喰べないために、そして私を周囲から守るために、優しい嘘をついているだけ……)
自分に言い聞かせ、必死に胸の高鳴りを抑え込もうとする。
けれど、彼に触れられている肩から
指先から、じわりと甘い毒のような熱が回っていく感覚を止められない。
その時
彼の懐からチチッ……と、あの懐中時計が微かな音を立てた気がして、私は一瞬、息を止めた。
「ああ、刹那様。新しい玩具ですか? 案外、趣味がよろしいようで」
行く手を阻むように現れたのは、九つもの尾を優雅に揺らす、銀狐のあやかしだった。
彼は卑屈な笑みを浮かべ
値踏みするように私を眺めると、あどけない私の頬に細長い指を伸ばそうとする。
「……触るな」
刹那様の声が、一瞬で地を這うような低音へと変わった。
空気が凍りつく。
刹那様の手が、電光石火の速さで狐の首筋を掴み、問答無用で地面に叩きつけた。
凄まじい衝撃音と共に、土煙が上がる。
周囲の喧騒が引き潮のように消え、静寂が通りを支配した。
「この女は、俺の番だ。指一本でも触れてみろ。一族郎党、灰も残さず焼き尽くしてやる」
剥き出しにされた、暴力的なまでの独占欲。
それが、約束された演技なのか。
私を見下ろす刹那様の瞳は、先ほどまでの穏やかさを完全に失い
飢えた獣のように恐ろしく、ぎらついていた。
「緒美、帰るぞ」
荒々しく手を引かれ、私たちは屋敷へと戻る。
初めてついた「恋人」という名の嘘。
その嘘が、本当の恋よりもずっと甘美で
そして取り返しのつかないほど恐ろしいものだと、私はまだ知らずにいた。