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まだ人々が地の底に潜んでいた時代に彫り刻まれたという恐ろしい悪神の像があった。世に災いをもたらす悪しき神らしい恐ろしい表情ではあるが、頭だけが地上に出ていて体から下は埋まったままだ。人間の頭の倍はあろうかという大きさで、かつては精緻に彫り刻まれたであろう細やかな皴や模様は磨り減り、無様に土を被って汚れている。
王都ほどに華々しくはないが交易の要である活気に溢れる街、古には苛烈な支配者の眼から逃れられた国境だった境界市、その中心に像は据えられていた。しかしかつて畏怖された禁域は商店街に覆いつくされ、僅かに残された野晒しの空き地に祝詞を唱える者はおらず、ただ古の遺跡の祟りへの無知から来る他愛ない恐ればかりがあった。ほんの十数年前まではこの像こそが人々の平安な生活の中枢であったが人の移り変わりの激しいこの街で旧習を覚えている者はほんの僅かだった。
そこへ一人の兵士が近づいてくる。鎧に外套、誇らしげに輝く徽章。多くの戦士の上に立つ者の一人が供も連れずに地面に据えられた悪神の像を懐かしむように見下ろす。
「話がある」男は呟き、答えを待たずに続ける。「山賊の一味を討伐する。力を貸せ。裁く者」
すると悪神の像は小刻みに震えながら答える。
「何故、私にそのような仕事を任せられるのですか?」恐ろしい形相に反し、悪神の像に巣食う悪霊クディックは震える情けない声で問いかける。「とても相応しくない」
「お前もまた罪人だからか?」
クディックは沈黙で答える。兵士の長は続ける。
「その昔、二人の男が殺された。どちらも善良な男だった。一人はある夜、物取りに出くわして殺された。金貸しながら分別を弁え、周囲の人間にもよく好かれた善良なる市民だ。もう一人は強盗のかどで処刑された男だが、後に証拠とされた物品が誤りだと判明し、冤罪と認められた」
「私の過ちは決して贖われない。どのような刑でも私を苦しめることができない以上、ただ世の終わりの時を大人しく待つほかない」
「罪悪感はあるわけだ」兵士の長は淡々と話す。「最近、各地で狼藉を働いている山賊の一味の一人を捕らえた。そいつの証言によると物取り、善良な市民を殺めた本当の犯人は山賊の一味の頭だという。頭自身が何度か自慢げに語っていたそうだ」兵士の長は冷たく乾いた眼差しで像を見下ろし続ける。「もう一度言う。力を貸せ。クディック。かつて罪なき男を裁いた悪霊よ」
クディックの宿る悪神の像がわなわなと震える。己にはもはや何もできることなどないと考えていたが、真犯人がのうのうと生きているとなれば話は別だ。己が手で正当なる罰を与えられたならば、あるいは贖罪となるかもしれない。
兵士の長、振り下ろす剣と九十九人の部下、そして掘り起こされた二頭身の悪神の像クディックは山賊の巣食うという古い国境の捨てられた砦へとやってきた。
夜明けの迫る深い夜。月も星も陰り、風は止み、悪しき者に与する告げ口屋の魔性も眠りに就いている。
エクシレオスの優秀な部下が斥候として山賊の一味とその長、いくらかの略奪物を確認し、山賊狩りの部隊は当初の予定通り古砦を囲むように潜む。
エクシレオスとクディックは二人きりで砦の見える森に息を潜める。砦を照らす篝火の明かりだけが二人の姿を見出している。
「そろそろだ。払暁に合わせて僕の部下たちが三方から攻め込む。こちらへ、北へと逃げてきた者はお前の刑具でその罪に相応しい罰を与えてやれ。一人として取り逃すなよ」
頭でっかちの悪神の像は不安そうにエクシレオスを見上げる。
「でも、ですが、奴らは本当に罪人なのですか? 証拠は、証拠はちゃんとあるんですか?」
エクシレオスは今聞いたことを疑うようにクディックの薄汚れた姿を見つめる。
「今更何を言っている。近隣地域での被害は全て伝えただろう。滅んだ村もあるんだぞ」
「なおさら気をつけなくてはならないでしょう。滅んだ村で誰が証言したのですか? 本当にあの山賊たちなのですか? 確たる証拠もなしに裁くことになりませんか?」
「おい。まさか冤罪を恐れているとでも言うのか? 斥候の話を聞いただろう。金品も若い娘も確認している。寂れた古砦に巣食う賊に後ろ暗い理由がないわけがない」
慎重に慎重を期しても過つことがある。濡れ衣を着せた罪を贖うつもりで再び濡れ衣を着せるようなことはあってはならない。
「ですが現行犯じゃない。そうでしょう? 証人を連れてきて確認させるべきだった。でなければ、それらが奪われた物だという確たる証拠というには――」
エクシレオスは悪神の像を蹴とばすがその重さに爪先を痛め、舌打ちする。
「かつての正義の番人が堕ちたものだな」エクシレオスは像を転がし、像の後頭部に貼り付けられた札を剥がし、己の胸に貼り付ける。「もう良い。力だけ貸せ」
クディックは抗うこともできたが、エクシレオスの眼を借りて全てを傍観することに決めた。
あるいはこの作戦がかつての罪に対する贖罪になるやもと思っていたが、今ではその考えも揺らいでいた。真犯人を捕らえ、処刑したところで、決して死者は蘇らない。それが贖罪と言えるのだろうか。
東の空が白み、山賊狩りの兵士たちが動き始めた。鍛えられた戦士たちは次々にならず者たちを容赦なく葬っていく。何度か野太い悲鳴が夜闇の奥から聞こえると一挙に砦全体が慌ただしく鳴動し始める。見張り以外の山賊たちも起き出してきて、松明らしき輝きが数を増し、邪な刃が閃く。ある者は抵抗し、ある者は逃亡する。
初めにエクシレオスとクディックの元に走って逃げてきた男は既にほかの兵士に斬りつけられたらしく、肩から血を流している。立ちはだかるエクシレオスを見つけると情けない悲鳴を上げ、別の方向へと走り出そうとするが、エクシレオスの知らないエクシレオスの唱えた呪文が男の首を括り、熟した果実のように木に吊り下げた。
続いて逃げてくる男たちは飛来した石に叩き潰され、地面から生えた槍に貫かれる。
エクシレオスは山賊の人相を一人一人確かめるがどれも聞いていた山賊の長とは一致しなかったようだった。
「逃げてこないな。既に取り押さえたか?」
再び足音が聞こえ、エクシレオスが身構える。それは女だった。エクシレオスの唱えた呪文はどこかから蛇のように這いずる鎖を呼び寄せ、四肢を縛り、女を引き千切ろうと引っ張るが、すんでのところでクディックが魔術を止める。
「よく見てください。女ですよ。話にあった攫われた女でしょう?」
危うく新たな罪を重ねるところだった。
「いや、こいつだよ。山賊の頭は」エクシレオスは剣を引き抜き、山賊の女の前で構える。「方々で略奪を繰り返し、かつて金貸しから大金を奪い取った強盗だ。お前を過ちに導いた女でもある」
女は四肢を失わずに済んだものの手足を動かすことはできないようだった。絶望的な表情で処刑された仲間たちを眺め、エクシレオスのそばに転がる悪神の像を見つめる。
「この魔術、裁きの悪神像か」と女が痛みに苦悶の表情を浮かべつつ、口元に笑みを零す。「俺はがきの頃からお前のことが好きだったんだ。大罪人を派手に処刑してくれる様を見るのは爽快だったなぁ。だが、俺のせいで見世物も終わっちまった。冤罪かますなんてがっかりしたもんだぜ」
クディックは怒りが沸々と沸き上がるのを感じる。たとえ自身が罪深い存在だとしても、この女に侮辱されるいわれはない。この女さえいなければ自身が罪を犯すこともなかったのだ。クディックが再び同じ呪文を紡ぎ、念のために逃げ出さないように拘束する。山賊の長が痛みに呻く。
「この罪人に相応しい罰を与えてやれ」とエクシレオスが命じ、クディックはエクシレオスに呪文を唱えさせる。
魔鏡を作る鏡師の護符に記された見通す力の言葉、星を啄む古鴉の劈き、それらを火と鎚を友とする鍛冶集団の仕事歌に乗せて紡ぐと、全ての刑吏の翼賛たる幻想が頭上に現れる。それらは諸悪を逃すことのない見えざる戒めを手に携えている。
「おっと、待てよ。おかしなことだ」そうとも知らず山賊の女は四肢の痛みを耐えながら目を眇めてエクシレオスに笑いかける。「なぜお前が俺を殺そうとするんだぁ? エクシレオスの大将さんよぅ。あんたの親父を殺したのはその悪神だろうが」
クディックはエクシレオスの魂のそばで震え上がる。頭上でその時を待つ刑具の権現たる幻想も揺らぐ。遺族のことを考えなかったことはないが、具体的に身内、親類のことは知らなかったのだ。
「そんな。そうだったのですか? エクシレオスさん。あなたが。彼に息子がいたのですね」とエクシレオスの口を借りてクディックは途切れ途切れに尋ねる。「一体、なぜ、どうして」
眉を顰める山賊の長の女の頭上に剣を構えながらエクシレオスは答える。
「どうしたもこうしたもないんだよ。お前には復讐しようがないんだから、せめてこの女だけでも裁かなきゃ気が済まないだろう。お前だって違うのか? これは復讐だろう?」
「違います! 決して!」クディックは驚き、身に覚えのない罪を被せられた時のように反射的に反論した。「復讐など……。確かにこの女は罪を償うべきです。ですが、それと私の罪悪は別です。そうです。私が求めていたのは贖罪です。復讐じゃない」
エクシレオスはじりじりと女の方へ近づく。刑具の幻想が剣に纏わりつく。
「同じさ。復讐も贖罪も」
「馬鹿な!」エクシレオスの声をクディックが張り上げる。「そんなことがあるものですか。おかしな話だ。あなたは全くの被害者です。そうでしょう? 復讐者とはそういうものでしょう? 贖罪を求める者は当然加害者ですよ。被害者と加害者が同じなわけがない」
「いいや、同じさ」とエクシレオスは譲らない。「復讐者も贖罪者もどちらも咎人をとっちめようとしてるんだ。失ったものは取り戻せなくとも溜飲が下がるはずさ。きっと胸がすくだろう。それが復讐であり、贖罪だ。そう、贖罪とは咎人の己に対する復讐なんだよ」
幻想が霧散し、丹念に作り上げた裁きの魔術が解けてしまう。
「違う。違います。私は決して、そのようなつもりで贖罪など……」
「いいさ。思いなんて自分だけのものだ。さあ、終わりにしよう。山賊狩りの部隊長として、裁く者としてやるべきことをやるんだ」山賊の頭を剣の間合いに捕らえる。「しっかりと剣を持て。罪深き山賊を誅罰すれば、親父ならきっと喜んでくれる。息子を誇りに思い、お前を許してくれるかもしれん」
山賊の長の女は己の死を見極めようと剣の切っ先を見つめている。
「やるならやりな。人の肉を裂く感触もそう悪いもんじゃあねえんだぜ」
剣が振り下ろされる。朱い花が咲くように女の肩から胸にかけて血が飛び散る。山賊の長の女は声も漏らさず頽れる。
「今どんな気分だ?」とエクシレオスの口が尋ねる。その口元は綻んでいる。