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首筋を這う熱が、やけに生々しい。 晃司の指は冷たくも熱くもなかった。ただただ、「人間の温度」だった。それが、何より気持ち悪かった。
(嫌だ──なのに)
喉の奥が、焦げたみたいに痛い。
言葉にならない悲鳴が、唾と一緒に喉に貼りついて動けない。
──あんな日々が、怖かった。
──けど、何もされなかった一週間も、どうしようもなく、怖かった。
息が詰まる。
目の奥が、熱くて、痛い。
(なんで、あんなことで泣きそうになるんだ)
(殴られないのが、不安だった。暴力がなかったから、眠れなかった)
やめろ、と喉が震える。
でも、言えない。言葉にした瞬間、崩れてしまう気がして。
──飼われるような生活が、終わってよかったはずなのに。
──“優しさ”なんてものに、自分はふさわしくなかったはずなのに。
(あれが、地獄だったはずなのに)
晃司の手が、顎を掴んで引き上げる。
その瞳に浮かんでいたのは、憎しみじゃない。
ただ、嗤うような──興味。玩具を見るような、欲。
「おまえ、まさか寂しかった? オレらが“何もしない”あいだ」
言葉が、心臓に刺さった。
咄嗟に顔を逸らす。言葉じゃなく、表情が漏れたら終わる。
「──っ、……うるせぇよ」
震えた声が、裂けた喉から漏れる。
反射で吐き捨てたその一言だけが、遥の“抵抗”だった。
「へぇ、効いた?」
晃司の声が、粘つくように近づく。
次の瞬間、シャツの前を乱暴に裂く音がした。
「なら、もっとやってやるよ。……寂しくなんか、させねぇように」
崩れていく。
わかってた。
でも、やっと、“いつも通り”が戻ってきた気がした自分が、一番気持ち悪かった。
(壊れてんのは──俺のほうだ)
あたたかいはずのものに怯えて、痛みの中にしか“自分”を保てない。
拒絶したくて、でも、戻れたことにどこかで安堵してしまう。
そういう感情が全部、気持ち悪い。
全部が、汚れてる。
全部が、自分を形作っていた。
頭の中に、日下部の声がかすかに響いた気がした。
──「潰れんなよ、どうせ壊れんだから」
その言葉さえ、今は遠い。
床にうずくまった遥の身体に、晃司の足が容赦なく押しつけられる。
「なぁ──おまえ、ほんとに寂しかったんだな」
そう言って笑う声が、何より残酷だった。
怒鳴られた方が、まだましだった。殴られた方が、まだ救われた。
「わかってるよ」なんて言葉が一番怖い。わかってなんか、ほしくなかった。
晃司の指が顎を強引に持ち上げる。
抗う力も出せない。睨むことすら、できない。
ただ、目の焦点を外すことだけに、すべてを込めた。
「──やっぱ、変わったな。日下部んとこで何された?」
何もされなかった。
だから、壊れた。
その矛盾が、遥の中で暴れまわる。
「なあ、答えろよ。……“あいつに抱かれたか”、それとも“飢えただけか”」
ぞっとするような問いだった。
心の奥に隠していた“答えたくないもの”を、まっすぐ抉られる。
(──知らねぇよ、俺だって)
「……なにも、ねぇよ」
押し殺した声が、肺の奥で割れた。
それを聞いた晃司の目が細められ、口元が上がる。
「へぇ……じゃあ、こっちの方がマシだったってことか」
マシなんかじゃない。
でも、比べる時点で、もう終わっていた。
──「なにもされない」ことへの恐怖。
──「やさしさ」への拒絶。
──「暴力」にしか自分を確かめられない、ひどくゆがんだ自己。
(“マシ”って言葉に、すがりつきたくなった俺が、いちばん気持ち悪い)
晃司が一歩、後ろへ下がった。
その足音に、遥の心が萎縮する。
(また、来る)
──間。
──沈黙。
──息。
────何も、なかった。
晃司は遥を見下ろしたまま、笑いも怒りも浮かべずに言った。
「つまんねぇな、今日」
吐き捨てるように言って、ドアをバタンと閉めて出ていった。
──静寂。
その一瞬が、一番こたえた。
(“つまんねぇ”って……それで終わりかよ)
まるで、自分の壊れ方が不十分だったみたいに。
もっと泣けばよかったのか。もっと、震えればよかったのか。
(違う。……そんなの、違ぇだろ)
でも、心のどこかで思っていた。
「またされる」と思っていたのに、されなかった──
──その不安と、失望と、微かな安堵が、ごちゃまぜになって、呼吸ができなかった。
そのとき、遠くの部屋から笑い声が聞こえた。
沙耶香か。玲央菜か。
あのふたりの笑い声は、区別がつかなかった。
(……また来る)
嗅覚がそう告げた。
夜は、まだ終わっていなかった。