テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
──静かな夜だった。
ドアの開く音さえなかったのに、肌が、空気が、急にざらついた。
すぐにわかった。沙耶香が来た、と。
「……ただいま、って言わないの?」
部屋の隅で膝を抱えていた遥の前に、沙耶香がしゃがみ込む。
スカートの裾がふわりと落ちて、まるで看病の構図みたいだった。
けれど、目が笑っていない。
──いいや、笑ってはいる。でも、それは「人間」に向けた笑顔じゃなかった。
「“無事だったんだね”って、言ってほしかった?」
爪が顎を持ち上げる。
強くはない。ただ、逆らわせない力。
遥は黙ったまま、唇を引き結んだ。
震えていた。寒さではない。
沙耶香はゆっくりと、遥の頬を撫でた。
そのまま、するりと首筋をなぞる。
「“何もされなかった”んだってね。……優しくされたんでしょ? あいつに」
唇が耳元へ寄る。
「──なあにそれ。ふざけてんの?」
急に、爪が食い込む。
遥の喉に、小さく赤い線が浮いた。
「“優しかった”って? どの口が言ってんの。おまえは、ここで、ずっと、“される”ために生きてきたのに」
指先がシャツのボタンにかかる。
一つずつ、もたもたと、壊すように外されていく。
「“何もされなかった”のが怖かったんでしょ?」
──図星だった。
(ちがう、そうじゃ──)
そう思った。けれど、違わなかった。
怖かった。
“優しくされた”という事実が、“自分にふさわしくないもの”だったから。
「“誰にも触られない”って、不安だったんでしょ? ……“される”ほうが、まだ、安心だったんでしょ?」
ボタンがすべて外される。
喉から胸、肋骨、みっともないほど痩せた身体が、空気にさらされる。
「わたしが思ってたより──ずっと、壊れてるんだね。おまえ」
沙耶香の手が、遥の腹に這う。
暴力ではない。愛撫でもない。
ただ、壊しにかかるための“確認”。
「“壊れたまま戻ってきて”くれて、ありがとう。あいつに直されてたら、つまらなかった」
遥は目を閉じた。
歯がかちかちと鳴っているのに、声が出せなかった。
「泣けよ。喚けよ。怒れよ。……そうやって、生きてるふり、してみなよ」
シャツの袖が引き裂かれる音がした。
その瞬間、遥の喉から、かすかな吐息が漏れた。
──ああ、そうだ。
これが、自分の“日常”だった。
「“なにもされなかった一週間”のほうが、ずっと地獄だった」
その思考が、頭の奥でぼそりと囁いた。
(戻ってきたんだ、ちゃんと)
破裂音と、焼けるような痛み。
何かが背中に当たったのか、爪か、道具か──そんなのはどうでもよかった。
痛みが、“自分”を確かにしていた。