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#茜
💎星乃葵@ペア画中.ᐟ💎
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りおりんご🍎
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今中希美
28
会議室の時計は、九時を回っていた。
評価版の仕様は、今日で一区切りついた。
ホワイトボードの文字を消しながら、舜太は、向かいの席で資料を鞄にしまう柔太朗を見た。
午後の外来を終えてから、そのままここに来ている。朝から、予定がぎっしりの一日のはずだ。
それなのに、会議の間、一度も疲れた顔を見せなかった。見せない人なのだ、と舜太は思った。
「先生、今日、朝から予定がぎっしりでしたね」
「ええ。いつものことです」
「送ります」
言ってから、舜太は、少し遅れて自分が言ったことに気づいた。
「俺が、送りたいんです。……って言うと変ですね」
「いえ」
柔太朗は、鞄の留め具を留める手を止めた。
「僕、疲れて見えますか」
「顔には、出てへんです。出てへんから、心配なんです」
柔太朗は、少し黙った。
それは、診察室で自分が患者に言う言葉だった。
「……お願いします」
エレベーターの中は、二人きりだった。
「この前の病院」
舜太は、階数の表示を見たまま、言った。
「先生、廊下でずっと声かけられてましたね。看護師さんにも、患者さんにも」
「そうでしたか」
「お年寄りの方に、腰かがめて同じ高さで話してた。ああ、この人は、頼りにされてるんやなって」
「ご覧になっていたんですか」
「ロビーから、少し」
柔太朗は、少し黙ってから答えた。
「頼りにされているというより、頼ってもらっているんです。患者さんが、来てくれる。話してくれる。それが、僕の仕事のほとんどなので」
「それでも、先生が、先生なんやなって、分かりました。……あの場所で」
「それは、ありがとうございます」
柔太朗の返事は、少し照れていた。
扉が開いた。地下駐車場の空気が流れ込んでくる。
舜太は、先に車へ向かって、助手席のドアを開けた。
「今日は雨じゃないですけど、どうぞ」
冗談のつもりだった。
「ええ」
柔太朗は、乗り込んでシートベルトを締めてから、少し間を置いた。
「今日は、断る理由を探しませんでした」
舜太は、返す言葉を一拍遅れて探した。
見つからなかったので、ハンドルを握った。
「……安全運転で行きます」
「お願いします」
車が、地下から出る。夜の街が、フロントガラスいっぱいに広がった。
幹線道路を、しばらく走る。信号は、ほとんど青だった。
舜太は、人と話すのが得意だった。得意というより、話さないでいる時間が苦手だった。
誰かと同じ空間にいて、沈黙が続くと、落ち着かなくなる。
だから、いつも何か言う。冗談でも、天気の話でも。
今日は、何も言いたくならなかった。
助手席の柔太朗は、窓の外を見ていた。街灯が、順番に、白い横顔を通り過ぎる。
音楽は、小さく流れている。サビに入ると、柔太朗の指先がほんのわずかに動く。知っている曲らしい。
話さなくても、間が重くならない。
車内の空気が、静かに足りている。
そんなことは、初めてだった。
「最近」
信号待ちで、柔太朗がふいに口を開いた。
「何か、考え事をしていますか」
舜太は、一瞬、固まった。
内ポケットにいれた、折りたたんだ紙ナプキンが頭に浮かんだ。
細い二本の線。匿名のデータ。投資の回収。
「……仕事のことです。すみません、顔に出てました?」
「少しだけ」
「先生は、周りが、よう見えてはりますね」
「職業柄、でしょうか」
柔太朗は、窓の外を見たまま続けた。
「話せないことは、話さなくていいです。僕も、話せないことはありますから」
信号が、青になった。
舜太は、アクセルを踏むまでに、半拍遅れた。
優しい声だった。責める色も、詮索する色もない。
ただ、「話せない」という事実を、そのまま受け取ってくれている。
それが、胸に静かに落ちた。重さと一緒に。
「……ありがとうございます」
それしか、言えなかった。
橋に差しかかる。川の黒い水面に、対岸の灯りが細く伸びて、揺れている。
舜太は、音楽の音量を、そっと一つ下げた。
柔太朗の返事が、途切れていた。
横目で見ると、目を閉じていた。眠っている。
睫毛が長い。白い頬に、街灯の光が順番に乗っては、過ぎていく。
起きているときの、静かに張りつめた顔とは別の人のようだった。
肩の力が抜けて、年下の子どものように、無防備だった。
こんなふうに、眠れる人が。
なんで、夜は、眠れへんのやろ。
そう思って、すぐに、その疑問を胸のどこかにしまった。聞いていい話ではない。
起こさないように、舜太は、ブレーキを、いつもよりゆっくり踏んだ。
信号で停まるたびに、体が前に傾かないように。それだけを考えた。
橋の途中で、柔太朗が薄く目を開けた。
「……少し、うとうとしました」
「音、うるさかったですか」
「いえ。むしろ」
柔太朗は、自分でも不思議そうに、言った。
「夜は、あまり眠くならないのに。……ここは、不思議と」
夜は眠くならない、と言っていた人が。
舜太は嬉しさが顔に出ないよう、ハンドルを握り直した。
「ほな、遠回り、しましょうか」
冗談のつもりだった。半分は。
柔太朗は、少し笑った。目元だけで。
「近道で、お願いします。明日も外来なので」
「了解です」
「ただ」
柔太朗は、少し間を置いて付け加えた。
「そう言ってもらえるのは、嬉しいです」
舜太は、前を見たまま、何も言わなかった。言えなかった。
住宅街の細い道に入る。街灯の間隔が広くなる。
車が、柔太朗の部屋の前に停まった。
「ありがとうございました」
シートベルトを外して、柔太朗はドアに手をかけた。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい、先生」
ドアが閉まる。柔太朗は、振り返らずに建物の中に入っていった。
舜太は、すぐには車を出さなかった。
エンジンをかけたまま、窓の列を見上げる。しばらくして、三階の端の窓に灯りがついた。
それを確かめてから、ギアを入れた。
部屋の灯りをつけると、車が動き出す音が、遠くで聞こえた。
待っていてくれたのかと思って、考えないことにした。
コートを掛けて、鞄を置く。
物の少ない部屋は、帰ってきても、人の気配が戻らない。
三月末までの契約。その事実が、壁の白さに染みている。
スマートフォンを開いた。試作版のアプリが、ホーム画面の端に置いてある。
使ってみないと分からないという理由で、先週から自分で試していた。
診察室で、患者に勧める前に、自分が使ってみる。
五つの項目を、順に押す。
日中の眠気の欄で、指が止まった。
「少し」を、選ぶ。帰りの車の中の眠気を思いながら。
画面は、すぐに閉じた。十秒もかからなかった。
この設計は、本当によくできていると思った。眠れない夜に、これ以上人を疲れさせない。
そのあと、机の引き出しから、紙のノートを出した。
何年も、使っていない。
表紙の角が、少し丸くなっている。ペンのキャップを外して、一行だけ書く。
『車の中で、少し、眠くなった』
誰にも見せない。見せるつもりもない。だから、書ける。
書くことと、見せることは、別だ。
診察室で、自分が口にした言葉が、そのまま自分に返ってくる。
ペンを置く。一行を、もう一度読む。それから、ノートを閉じた。
灯りを消す前に、一度だけ窓のほうを見そうになって、やめた。
ベッドの中で、天井を見た。
一つ目。仕事の量と緊張。外来、研究、今回のプロジェクト。頭が、夜になっても切り替わらない。
二つ目。環境。仮住まいの、慣れない枕と、静かすぎる部屋。
三つ目。生まれつき、夜が長い性質。学生の頃から、そうだった。
どれも、当てはまる。どれも、決め手ではない。
診察室で、患者に同じことを聞かれたら、きっと、こう答える。
「理由は、一つとは限りません」
それなのに、あの車の中では眠くなった。
揺れが一定だったから。音楽が小さかったから。運転が、丁寧だったから。
考えられる理由は、いくつもあった。
どれも、それらしくて、どれも、足りない気がした。
足りないものが何なのか、考えなかった。
考えないまま、目を閉じた。
その夜の眠りが、どのくらい深かったのか、記録しなかった。
コメント
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あ〜これ、めっちゃ良かった……!「助手席の沈黙」ってタイトルも刺さるけど、実際に車内の沈黙が全然重くないっていう空気感の描写が繊細すぎて好き。“話さなくても間が重くならない”って感覚、分かる人には分かるし、それが初めてだったっていう舜太の気持ちにグッときたわ。それと、柔太朗が“夜は眠くないのにここでは眠くなった”って言うところ、ずっと張ってたのが舜太の運転でふっと緩んだ感じがして、二人の距離が確かに縮まってるのが伝わってきた。ほんま尊いエピソードやった……!