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923
#魔法使い
MOCHI076
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ホームのスピーカーが、同じ文言を三度目に繰り返した。
架線にトラブルが発生し、運転を見合わせております。
再開の見込みは、立っておりません。
勇斗は、腕時計を見た。夕方の六時を回っている。
診療所での聞き取りは、予定より実のある時間になった。
画面の使い心地について、現場の看護師が、予想していなかった言葉をくれた。
仁人は、帰りの電車の中で、それを整理して設計に活かすのだろう。
横に立つ仁人は、すでに、スマートフォンで振替のルートを探している。
伏し目がちの横顔。画面の光が、白い頬に薄く映っている。眉が、わずかに寄っている。
勇斗は、その横顔から、目を離せなくなっている自分に気づいた。
同じホームで、同じ方向を向いて並んで立つのは、あの頃以来だった。
「……だめですね」
仁人が、画面から顔を上げた。
「振替も混んでいます。復旧を待ったほうが、早そうです」
「どのくらい?」
「二時間、と出ています」
「二時間か」
勇斗は、ホームの時計を、もう一度見た。
それから、駅の改札の外、通りの向こうに、小さな蕎麦屋の暖簾が出ているのを見つけた。
「蕎麦でも食って、待とう。二時間、ここで立っててもしょうがないし」
眉が、さっきより深く寄る。口が開きかけて、閉じる。
それから、画面の運行情報を、もう一度見た。更新はされていない。
「……分かりました」
勇斗は、先に階段へ向かって歩き出した。
ついてくる足音が、聞こえた。
それだけで、胸の奥のどこかが、緩んだ。
蕎麦屋は、客が少なかった。
壁に、古いポスターが貼られている。窓は、湯気でうっすら曇っていた。
奥の座敷に近いテーブルに、向かい合って座る。
仁人は、コートを椅子の背に掛け、メニューを開いた。
何を頼むか、決めるまでに時間はかからなかった。
温かい蕎麦に、天ぷらはなし。そう思ったとき、向かいで、勇斗がさっさと注文を済ませていた。
「ざる、一つ。それから、かけを、一つ」
仁人は、自分が頼もうとしていたものを、先に言われたことに、一拍遅れて気づいた。
「……何で、分かるんだよ」
「寒そうな顔してたから」
「そんな顔してません」
「してた」
勇斗は、メニューを閉じて笑った。
それから、卓の上の割り箸を二膳、取った。
一膳を手早く割って、仁人の前に置く。木屑の出ない、きれいな割り方だった。
自分の分は、そのあとに割った。
仁人は、目の前に置かれた箸を見た。
「……自分で割るのに」
「あ」
勇斗は、割った自分の箸を持ったまま、一瞬止まった。
「悪い。癖で」
「何の癖ですか」
「さあ」
仁人は、答えずに箸を取った。勇斗が割った箸は、均等に割れていた。
蕎麦が、運ばれてきた。
仁人は、丼を両手で持って、まず、出汁を一口、飲んだ。
温かい出汁が、喉を通って体の芯まで降りていく。
勇斗は、その向かいで、ざる蕎麦のつゆに、ねぎとわさびを全部入れていた。
「お前、まだ、出汁から飲むのか」
「蕎麦の前に、出汁の味が分かるだろ」
答えてから、仁人は自分の口調に気づいた。
敬語が、外れている。勇斗は、気づいていない顔で、箸を動かしていた。
気づいていて、何も言わないのかもしれなかった。どちらなのか、仁人には判断がつかなかった。
蕎麦をすする音だけが、しばらく続いた。
先に口を開いたのは、仁人だった。
「……診療所の看護師さんの、あの話ですが」
「ああ」
「『操作に迷わない』と。聞けてよかったです」
「入力が十秒で終わる、って話も、ちゃんと通じてたな」
「ええ。現場で、そう言ってもらえるのは」
話題は、仕事に収まった。気まずさを埋めるための道具が、それしかなかった。
二人とも、それを分かっていて使っていた。
画面の配色の話、診療所の先生の評価。
勇斗は、相槌を打ちながら、短く質問を挟む。仁人は、考えながら答える。
会議室の外でも、会話の速さは、昔と変わらなかった。
それが、少し悔しかった。
話が途切れた。窓の湯気が、曇りを濃くしていく。
勇斗は、箸を置いて湯呑みを両手で包んでいる。
目の下に、薄い影があった。会議室で見たのと、同じ影。
ちゃんと、と言いかけた。
口が、開いた。
続きが、喉まで上がってきた。
それが何なのか、言葉にする前に、仁人は口を閉じた。
「何か、言いかけたろ」
勇斗が、静かに聞いた。
仁人は、その顔を、見ることができなかった。
「……いえ」
「そう」
勇斗は、それ以上、聞かなかった。
聞かなかったことが、仁人には、ありがたく、そして、少しだけ苦しかった。
勇斗が、立ち上がった。
卓の上の伝票が、いつの間にかその手の中にあった。気づく前に。
「割り勘で」
「いいって。奢る」
「いや、おかしいだろ」
「いいから」
有無を言わせない声だった。
昔から、そうだった。気づいたときには、もう払い終わっていた。
何度、割り勘を主張しても、通ったためしがない。
仁人が財布を出す前に、勇斗は、いつもレジの前に立っている。
今日も、同じだった。
仁人は、財布を出しかけた手を、ゆっくりポケットに戻した。
何も、言えなかった。何を言っても、この男は、笑って受け流す。
運転は、一時間四十分で再開した。
人が詰まった電車に、二人は並んで乗った。
吊り革を持つ手が、触れそうで、触れない。
会話は、なかった。それでも、気まずさはなかった。
蕎麦屋で、話すだけ話してしまったのかもしれない、と勇斗は思った。
乗り換えの駅で、降りた。
別の路線のホームへ向かう階段の前で、二人は立ち止まった。仁人は、右へ。勇斗は、左へ。
「……今日は、ありがとうございました」
仁人が言った。
「いや、こっちこそ」
「ご一緒できてよかったです」
別れの挨拶は、仕事の言葉だった。それが、仁人なりの線引きだと、勇斗は分かった。
「ああ」
言うべきことは、それで尽きていた。
けれど、口が、勝手に動いた。
「また」
その先の言葉を、勇斗は、一度だけ口にしたことがある。最後の夜に。
続けようとして、喉の奥で止まった。
仁人が、こちらを見ている。大きな目が、わずかに見開かれている。
待っているようにも、身構えているようにも、見えた。
「……お疲れ」
仁人の目が、ほんの少し、揺れた。それから、静かに元に戻った。
「お疲れさまでした」
仁人は、背を向けた。右の階段を上がっていく。
コートの背中が、人の流れの中に紛れていく。
勇斗は、そこに立ったまま、仁人が見えなくなるまで動かなかった。
言わなかった言葉が、また残った。
コメント
1件
うわあ……第8話、読んだ…😭💕 電車遅延で生まれた“ただの2時間”が、こんなにぎゅっと胸にくるなんて思わなかったよ… 勇斗が仁人の分まで注文して、箸まで割って置くの、何気ないのに愛しすぎか〜〜〜!!😭 敬語が外れた仁人の口調、本人が気づいて戸惑うところとか、勇斗が「また」って言いかけて飲み込んだところとか、全部エモすぎて何回も読み直した。 湯気で曇る窓とか、触れそうで触れない吊り革とか、描写が映画みたいで美しかった…🌸 また続きが気になる…!