いろは丸
翌日の昼前に、お紺は浦川太夫の屋敷を出た。お世話になったお礼を言うと、逆に感謝されてしまった。昨日の若者達は思う存分楽しんだようだが、酔って暴れたり他の客に迷惑をかけたりする事は無かった。多分に坂本がいてくれたお陰だが、御師はお紺が酒席を上手く取り持ってくれたお陰だと思っている。
敢えて否定する事でも無いので、そのままにしておいた。また伊勢に来る事があったら必ず寄ってくれと御師は言ってくれた。
港に着くと、今井が待っていた。大勢の人足達が忙しく立ち働いているが、いろは丸は随分と沖の方に錨を下ろしているようだ。
「ここは海の浅うて、あげんかところにしか停められんかった」今井は豪快に笑ってそう言った。「こっから艀はしけに乗っていろは丸まで行く、お紺姐御は縄梯子は登れるがか?」
「大丈夫、子供の頃から木登りは得意よ!」
「ははは、そりゃよか!」
二人が乗り込むと、船頭が櫂を器用に操って黒煙を上げるいろは丸に近付いて行った。坂本は小型の船だと言ったがお紺には初めて間近に見る黒船だ、その異様な姿に身震いがした。
艀が舷側に着くと上から縄梯子が落ちて来た。関と高松がニコニコと笑って船端から覗き込んでいる。
「お紺姐御、ようこそいろは丸へ!」
「もう、頼むから姐御って言い方はよしておくれ!」
「そんなら、おばはんの方がよかがか?」
「ダメよ!」
「なら、文句は無しじゃ!わしらは姐御っち呼ぶ事に決めとるんじゃき!」
「ん、もう、しょうがないわねぇ・・・」
「さ、姐御、登ってくれ」今井が後ろから急かした。
「はいはい・・・」
お紺は諦めて縄梯子に取り付いたが、案外揺れて登り難い。やっとの思いで船端に着くと二人が手を貸してくれた。
甲板は異様なほど広かった。高いマストが三本、天に向かって聳えている。
「これって、蒸気船だよね?」つい聞いてしまった。
「蒸気で走るのは、主に港の中だけじゃ、外洋に出たら帆を張って走る。帆船と一緒じゃ」
「なぁんだ、ずっと蒸気で走るのかと思ってた」
「そがん事したら、石炭がなんぼあっても足らんがじゃ」
「石炭?」
「燃える石じゃ」
「ええっ、そんな石があるの!」
「日本でも、北海道や九州の一部で採れるがじゃ」
お紺には見るもの聞くもの初めての事ばかりだった。
「さあ、坂本さんが待っちょるき、船長室に行こうか」
お紺の後から登って来た今井も加わって、四人で船長室に向かった。
船長室には船長の千屋と坂本が西洋式のテーブルを挟んで背もたれの直立した椅子に座っていた。
お紺が入っていくと、坂本が立ち上がってにこやかに迎えた。
「ようこそ、いろは丸へ」関らと同じ挨拶をして右手を伸ばしてきた。お紺はどうしていいか分からず首を傾げる。
「西洋式の挨拶、シェイクハンドじゃ」
「シェイク・・・?」
「お互いの手を握り合うぜよ」坂本はお紺の右手を取って上下に振った。
お紺は驚いたが、ここは黒船の中、万事西洋式なのだろうと納得する。
千屋とも同じように挨拶を交わした。
「江戸までの道中、快適な船旅をお楽しみくだされ。二度ばかり途中の港に寄るが、明後日には着きます」千屋に土佐の訛りはあまり感じられなかった。船長として色々な土地を訪れているうちに、薄れたのかも知れない。それにしても、歩いて半月掛かった道程が経ったの二日、夢のような早さだ。
「お世話になります」お紺は両手を前で組んで頭を下げた。
「実はもう一人、客を乗せる予定になっておりまして、まだお見えではないが昼まで待って来なければ出航いたします」
「はあ、そうなんですか・・・」客のことは聞かされてなかったが、お紺には無関係だ。
「姐御、客室に案内しゆう」関が言った。
「関、一番上等な部屋へ案内しちゃれや、大切なお客人やき・・・」坂本が言った時、船長室のドアが慌ただしくノックされた。
「入れ!」千屋が言った。
バタンと空いたドアの向こうに、若い乗組員の緊張した顔があった。
「どういた?」聞いたのは坂本だ。
「港の方が騒がしゅうございます、何か問題が起こっているようです!」
「何?」
「一人の旅姿の若侍を、十人ほどの侍が取り囲んで詰め寄っている様子」
「よし、行ってみゆう!」
坂本が先頭に立ち、その後に全員が続いて甲板に出て行った。
*******
「黒霧志麻、見つけたぞ!」
「もう逃げる事は出来ん!」
蝦蟇のような顔、それにあの時蜂須賀半次郎と一緒にいた顔もあった。他に知らない顔が五人ほど・・・
「逃げる?私には逃げる理由など無いが?」
「とぼけるな!お前は御前試合で我が師浅田又兵衛に卑怯な手を使って勝ったそうではないか!」
「卑怯?私は正々堂々と試合っただけだ」
「嘘をつけ!幔幕の後ろに隠れたり師がまだ構えを取る前に突っ掛けたりしたそうではないか!」
「誰がその様な事を・・・?」
「我が父が一部始終を見ておったそうだ、本来なら勝ちは浅田のものじゃと言っておられた!」
「笑止な、あの闘いをそのような目で見ておったとは。お主の父親の目は節穴か?」
「なに!師ばかりか父まで愚弄する気か!」
「半次郎殿、問答は無用です。師の仇、とっとと討ってしまいましょう!」
浅田道場の門弟が半次郎に追従するように言った。
「よし、背後は海だ、逃げられる心配は無い、みんな絶対に取り逃すなよ!」
「応!」
全員が一斉に抜刀した。
「おいおい、女一人に大勢で何しようってんだ!」
「そうだそうだ、侍のくせに恥ずかしくないんか!」
荷揚げ人足や船頭達が遠巻きにしてヤジを飛ばす。
「うるさい、お前達には関係ない、引っ込んでろ!」
「ここは俺たちの仕事場だ、勝手な真似はゆるさねぇ!」
「なに!手出しをすればお前達も斬る!」
「お前らのような腰抜け侍にやられるような俺っちじゃねぇや!伊達に力仕事で躰鍛えてるんじゃねぇぜ!」
声を聞き付けて、周りに居た人足達が手に手に棒切れや櫂を持って集まって来た。
「嬢ちゃん、訳は知らねぇが加勢するぜ!」褌姿の人足が志麻の横に来て言った。
「みなさんありがとう、でもその得物じゃみなさんが怪我をします。ここは私一人でなんとかしますから・・・」
「なぁに、気にすんねぇ。伊勢の港で段平振り回すとは、こいつらこそ神をも恐れぬ太え奴らだ、きっちり神罰を与えてやんなきゃ、伊勢海人の名が廃るってもんよ!」
「でも・・・」
「それに、もう手遅れみてぇだぜ、先頭の奴らが血相変えて突っ込んで来やがる!」
「じゃ、じゃあ、頼みます!くれぐれも気をつけて!」
「おお、任せときな!野郎ども侍だからって遠慮するこたぁねぇ、思いっきりやっちめぇな!」
「ウオォォォォォ!!!!」
人足や船頭達が雄叫びを上げて突っ込んで行った。
*******
「あっ!侍が動いたぜよ!」
「見い!人足達が若侍に味方して乱闘になりよった!」
「じゃが分が悪い、相手は刀やぞ!」
「やけんど、あの若侍強い!あっという間に二人打ち倒しよった!」
関達が口々に指差して声を上げる。
その様子をジッと見ていたお紺が、いきなり船端から身を乗り出して叫んだ。
「あ、あれは・・・志麻ちゃん!」
「なに、あの若侍はお紺姐御の知り合いか?」
「あれは若侍なんかじゃ無い!女の子よ!」
「お紺さん、ひょっとしてあいが・・・」坂本が言った。
「そう、江戸から一緒に来た私の連れです!」
「なんと!客人の知り合いか、坂本さんどうします?」千屋が訊いた。
「知れた事!」坂本が若者達を見返った。「ボートを下せ!亀山社中改め海援隊の初陣じゃ!」
血の気の多い若者達に、一瞬にして活気が漲った。
「オォォォウ!」
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