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この中の何本が、元カノからのプレゼント何だろう……。
ウォークインクローゼットに掛けられているネクタイを見ながら、思った。
一本を手に取り、裏のタグを見る。
私が買ったものの倍はするブランド品。
やっぱり、渡すのやめよう。
「ただいま」と、雄大さんの声。
玄関からだ。
私は手に持っていたネクタイを戻し、洗濯したワイシャツを掛けた。
「ただいま」と、もう一度。
今度はすぐそばで聞こえた。
「おかえりなさい」
私はクローゼットから出た。
「すぐご飯の用意していい?」
雄大さんはネクタイを緩めながら、私をじっと見ていた。
「何?」
「いや」
「何ですか? 気持ち悪い」
「気持ち悪いって……。ひでぇ」と、雄大さんはわざとらしくしょげた顔をする。
「で? 何ですか?」
「いや? 帰って来て部屋が明るいのっていいなと思ってさ」
「……今までの恋人とは?」
「ん?」
聞き返されて、ハッとした。
「なんでもない。ご飯の準備しなきゃ」
私はパタパタと寝室を出た。
元カノのことなんて聞いてどうするの——。
雄大さんの過去が気になるのは、昼間、春日野さんと話したせいだ。
私に、雄大さんの過去を詮索する資格なんてない。
わかっているのに、鈍い胸の痛みが消えない。
帰ってきてすぐに作って冷やしておいたタネを丸める手に力がこもる。
毎日、雄大さんのネクタイを見ては落ち込むなんて……不毛過ぎる。
パンッパンッと掌に叩きつけて空気を抜き、温めたフライパンに置いた。ジューッと肉が焼ける音がして、次いで匂いがする。
「お、ハンバーグか」
着替えてきた雄大さんが覗き込む。
「美味そうだな」
「ソースは何がいいですか?」
「お前は?」
「え?」
「お前は何が好き?」
「んーーー……。今日はデミグラスがいいかな」
こってりしたものをがっつり食べたかった。
昼の懐石料理は食べた気がしなかったし、やけ食いしたい気分だった。
「じゃあ、それで」
雄大さんの好みとか、何も知らないな……。
デミグラスソースを作りながら、ため息をついた。
「そういや、今日の打ち合わせはどうだった?」
雄大さんがテーブルに食器を並べながら、聞いた。
私が会社に戻った時、雄大さんは会議に入ったばかりで会えなかった。だから、打ち合わせの記録簿と、次回の会議には必ず出席してほしいと、デスクにメモを残した。
「記録簿、見てません?」
「いや、見たよ。次回の会議は出席する」
「他に何か?」
焼きあがったハンバーグを皿に盛る。
「いや……」
雄大さんが言葉を濁すのは珍しい。
春日野さんのことか……。
「宇宙技術研究所の近くの懐石料理のお店、知ってます?」
「ああ。近くのデパートに入ってる店か?」
「そこで、春日野さんにランチをご馳走になりました」
「は?」
手を止めて私を見る雄大さんと視線を交わさず、ソースをハンバーグにかけていく。
「金曜日に雄大さんにご馳走になったお礼だそうです。本当は雄大さんにお礼したかったみたいですけど」
かなり、棘のある口調なのはわかってる。
けれど、全然気にしていないようなフリは出来なかった。
「今度からは直接、お礼してもらってください」
『元カノにつけ入らせるなんて、何やってんのよ』
お姉さんの言う通りだ。
そもそも、元カノにキスされるようなスキがあった雄大さんが悪い!
「わりぃ……」
「…………」
ネクタイのことは言えなかった。
春日野さんに貰ったネクタイを使っていたことも、私が代わりのネクタイを買ったことも。
嫉妬深くて面倒な女だと、思われたくなかった。
たかがネクタイ!
「もう、いいです」
冷蔵庫からビールを二本出して、一本を雄大さんに渡す。雄大さんは気まずそうに受け取った。
「いただきます」
「いただきます」
我ながら美味しいハンバーグに仕上がっていた。柔らかくて、ジューシー。
「うん。美味い」と、雄大さんが言った。
本心だろうけれど、機嫌取りじゃないかと疑ってしまう。心から喜べない。
私の微妙な反応に、雄大さんも気づいていたと思う。
せっかく一緒に食べてるのに……。
ふと、思った。一人で食事をする寂しさはよくわかっている。
「ランチの後でお姉さんに会いました」
雄大さんがパッと顔を上げて、目が合う。
「会社まで送ってもらっちゃいました」
「そっか。姉さんの運転、怖くなかったか?」と、少し嬉しそう。
「……はい?」
「姉さん、運転荒いんだよ。馨を乗せて無茶はしないだろうけど。そういや、お前は運転すんの?」
「ペーパーです。車を持ったことないし」
「じゃ、そのうち練習するか」
「え」
思わず箸が止まる。
「車があるんだから、運転できた方がいいだろ」
「雄大さんの車、傷つけたら困る」
「お前の車でもあるんだし、気にすんな。なんなら、お前用に買うか?」
「いりませんよ!」
「じゃあ、あの車で練習な」
これ以上この話をしていたら、本当に車を買うことになってしまいそうで、口をつぐんだ。
「姉さん、何か言ってたか?」
「え?」
「いや……」と、今度は雄大さんが口ごもる。
「何か、言われて困ることでもあるんですか?」
「別にねーけど、姉さんなら面白がって余計な事言いそうだし」
実家の話……かな。
春日野さんの言葉を思い出した。
『自由でいたいから、ご両親の跡を継ぎたくなかった』
雄大さんはいつ、ご両親のことを話してくれるんだろう。
考えると、また気が滅入る。
「涼しい顔してかなり粘着質だから、うざい時はうざいって言わなきゃダメだって」
「はあ?」
「一緒に暮らしてるからって四六時中相手することない、とも言われました」
「やっぱり……。余計な事言ってんじゃねーか!」
雄大さんが不機嫌そうに言った。
「全然余計な事じゃないですよ? 有難いアドバイスです」
「うざいとか言うなよ」と、拗ねた子供のように、口を尖らす。
可愛いと思えてしまう。
「言われないようにしてください」
「スキンシップは大事だろ」
「程度によります」
「俺とお前の程度の違いを確認する必要があるな」
「雄大さんと一般常識の程度の違いを、確認するべきではありませんか?」
「言うな……」
勝った、と少し嬉しくなった。
鼻を高くして喜ぶ私を見て、雄大さんが笑う。
「で? れ——春日野とは何を話した?」
「え?」
急に話題が変わり、言葉に詰まる。
「隠さなきゃいけないようなことか?」
雄大さんが空の缶をごみ箱に捨て、冷蔵庫を開けた。いるか、と聞かれて首を振る。
「女子バナなんて聞いても楽しくないですよ?」
「お前も楽しかったとは思えないけどな」
楽しいどころか……。
箸を置き、ビールで口の中を潤した。
「私たちの結婚の理由を聞かれました」
「理由?」
「ダメもとで『ずっと一緒にいたいから』とか言ってみたんですけど、一蹴されました。妊娠でもしてなきゃ、雄大さんが私なんかと結婚するなんてあり得ない、って」
「玲が、そう言ったのか?」
雄大さんの声のトーンが低くなった。怒ってる。
「……ちょっと過剰表現しました」
「けど、そういうニュアンスのことを言われたわけだ」
「はい」
「悪かったな、嫌な思いさせて」
春日野さんの言葉より、嫌な気持ちになった。
今日は厄日だろうか。
「どうして雄大さんが謝るんですか?」
「え?」
「なんか……」
『俺の』元カノが悪かったな、って言われたみたい——。
「何だよ?」
「別に!」
あ、嫌な言い方——。
すぐに謝れるほどの素直さは持ち合わせていなくて、私は一口残っていたハンバーグを口に入れた。
「ご馳走様でした」
「馨」
立ち上がろうとするより先に、制止されてしまった。
「悪かったと言ったのは、玲のお前への言動の原因が少なからず俺にあると思ったからだ。それ以上の意味はない。邪推するな」
「そんなこと……」
「きれいに別れたつもりだったし、一緒に飲んだのも仕事仲間として、友人としてだった。けど、そう思っていたのは俺だけで、玲はそうじゃなかったのならこれからは付き合い方を変える。金曜は俺にスキがあったのも事実だし」
雄大さんの言葉に言い訳や誤魔化しがないことはわかっている。
けれど、私よりずっと長く一緒にいて、私の知らない雄大さんを知っているだけで、悔しい。理屈じゃない。
雄大さんがご両親のことを話してくれないことも、寂しかった。
私だって……言えないことがあるくせに——。
だから、私からは聞けない。
「もう……いいです……」
「俺も……ムカついたよ」
「え?」
「財布の元カレのことを聞いた時」
『元カレと同じことしても意味ないし』
財布の話をした時、雄大さんは言った。
そう……か。
元カノと張り合ったって意味ないんだ……。
けど……。
私はまだ段ボールが積み上がっている自分の部屋に行き、鞄から包装された箱を出した。渡すつもりのなかったネクタイ。
「雄大さん」
張り合っても仕方がない。
「これ……」と言って、差し出す。
「何?」と言って、雄大さんが受け取る。
「新しい、ネクタイ」
「え……?」
「明日も——買ってくるから」
恥ずかしくてたまらない。
私、今、すごくみっともない顔をしてる。
そう思うと、涙が滲み出た。
「だから……」
雄大さんは黙って私の言葉を待っている。
「もう……」
たかがネクタイで元カノに嫉妬して泣き出すなんて、子供染みてる。
「他の女から貰ったのなんてしないで——」
それでも、やっぱり嫌だ!
私が手で顔を覆うより先に、雄大さんに抱き寄せられた。きつく。
「ネクタイ、全部捨てるか」
「え……?」
「どれが貰ったのか、わかんねーや」
春日野さんの言った通り。
『本人は忘れてるでしょうけど、私がプレゼントしたものなの』
「……最低」
「馨から貰ったのは忘れないよ」
「どうだか……」
春日野さんも憶えていてくれたらと思ったはず。
「つーか、全部買えよ。三本千円のでいいから」
「嫌ですよ」
自分からのプレゼントだとわかっていて、今も身に付けてくれているのだと、信じたかったはず。
「え? ダメ?」と言って、雄大さんが私の顔を覗き込む。
「ダメです。……三本千円なんて。私、どんだけケチなんですか」
「ははは……。じゃあ、一本千円で」
「旦那に千円のネクタイさせて、自分は三万円の下着なんて、私鬼嫁じゃないですか」
「そんなにすんの? これ」と言って、私の服の襟を人差し指で引っ張って覗き込む。
「ちょ、やだ」
「結婚しても、好きなの買えよ?」
「え?」
「俺のネクタイなんかより、お前の下着の方が大事だからな」
雄大さんがカットソーの裾から手を入れる。
「そんなわけないでしょう」
「いいや、大事だろ。その下着の為に、仕事を頑張れるからな」と言いながら、胸を揉む。
「もう!」
雄大さんがふっと笑って、キスを求めて顔を近づけてきた。私は目を閉じかけて、慌てて彼の唇を手で塞ぐ。
「ふぁんへ?」
手で塞がれた口から、籠った『なんで?』が聞こえた。
「ハンバーグの油でギトギトだから、歯を磨かせて」
腰をグイッと抱き寄せられて、仰け反る体勢になっても手を離さなかった。けれど、あっさり雄大さんの手で除けられてしまった。
「お互い様だから、いーじゃん」
有無を言わさず、唇が重なる。
互いの舌に張り付いたデミグラスの味が消えるまで、深く長いキスをした。